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虎次と慶
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しおりを挟む「荷物頼む」
マネージャーに言うが早いか虎次のシートベルトも外して一緒に車を降り、警備員に「トイレどこですか」と問う慶の声はやけに遠く、虎次は突然さわぎだした自分の心臓の音ばかり聞いていた。気分が悪いのだとようやく自覚する。
案内してもらった礼を言うのも後回しにして個室へ飛び込むと胃の中のものを全部戻し、それがなくなってもしばらく呻いた。
「大丈夫か」
「……」
返事をする元気もなく手洗い場の水でくちをすすぎ、顔にも打ちつける。ざっと掃除をしてきた慶も隣で手を洗い始めた。まったく、こんなときでも世話を焼いてくれるなんて信じられない。身体の中を激しく血がめぐっている。虎次はぐったりとして壁に寄り掛かり、蜂蜜色の髪をくしゃりと掻き上げた。
信じられなかった。世の中に、あんな身近に、理解不能な悪意が転がっていたことが。虎次の身に降りかかった不幸について、当時はいなかったあの運転手が知らないのは当然だが、それにしたって神経を疑う。
思っていたより平気になってなかったらしい。心の傷が癒えるのにどのくらい時間が必要かなんて誰にもわからない。苦しくて、つらくて、何より自分の弱さに虎次はショックを受けた。
「――なあ、……まさか、だよな」
「え?」
「まさかあいつが……じゃないよな?」
「……え、……は?」
慶はすこしも笑ってなどいない。本気で虎次に訊いている。何げないふうにしか見えなかったのに、よもやそんなことを考えていたとはわからなさすぎて唖然とした。いつから? 今日よりもっと前だったりするんだろうか。
迷惑運転を実際しているか、過去にしたことのある人間など他にもいるのだろうが、気にならないと言えば嘘になる。また胃が痙攣し始めたような感じがして、思わず掌を服の上から押しあてた。殊更ゆっくりと呼吸をとる。しぐさを慶がつぶさに見つめている。
「調べてみる、とか?」
「……」
「そのほうが慶もすっきりするだろ」
「虎次が嫌じゃなければ」
「……うん、俺はいいよ。してみても」
マネージャーを使うと揉み消される可能性があるため、ふたりだけで秘密裏に、探偵をさがして調査を依頼することにした。今考えると事故直後にはそういう疑念をいだかなかったり、調べたいという気持ちにならなかったのは、やっぱり喪失感や悲しみで限界を超えていたのだろう。それで兄と妹がかえってくるわけでもない。
慶がそっと寄ってきて、虎次の手を握る。ぬくもりを分け与えてもらって、すこし気分が落ち着いてきた。しかし慶はその逆で、思い詰めたような眼をして呟く。
「もしそうだったら、殺してやる」
らしくない冷ややかな声を聞き、虎次は心に決める。もしそうなら自分ひとりで片を付ける。慶は巻き込まない。絶対に。
だってももが悲しむ。
* * * *
「暑っちい……」
夏の苛烈な陽射しを浴びせられ、もう何年も快適な室内と車内ばかりにいた身体は悲鳴を上げていた。子どもの頃は長期休みもあって誕生日もあって、大好きな季節だった筈なのだが、大人になるとただただ不快だ。
長袖と帽子を着用していても容赦のない太陽の全体攻撃。もっと朝早くに来るべきだったが、今さらそれを言っても仕様がないので、虎次は黙々と作業をこなした。
周辺の雑草をかるく取り除き、枯れた花と線香の灰を捨て、水を掛けながら丁寧に墓石を磨く。熱中症で倒れないよう水分を摂りながら没頭してかなりきれいになった。よしよしと悦に入る。新しく汲んできた水を掛け花を活けて、墓前に兄の好きだった煙草と、妹の好物であるプリンを供えて、最後に線香に火を点けた。
この下にあるのは遺骨だけで、竜太とももの魂ではない。それももう水になっているのかもしれなかった。愛しい者たちの姿は虎次の中にある。
「ごめんな、じいちゃん夏バテしてて今日は俺だけでさ。来年はもうちょっと賑やかになると思うよ」
座り込んで墓石を眺めているだけでも胸がいっぱいになり、結局報告したかったことは喉の奥につかえて言いだせなかった。また来るとだけ約束して帰ってくると、駐車場に見覚えのある濃いブルーグリーンの車が停まっていて思わず足が止まる。
運転席のドアが開いて、降りてきたのは予想通りの人物で。よく場所がわかったなと苦笑しながら、虎次は軽く手を振った。
「仕事どうしたんだよ」
「無理やり空けてもらったわ。明日が怖ぇよ」
「わがままはダメなんだぞ」
「お前に言われたくねぇ~」
待たせていた筈のタクシーは勝手に返されていた。仕方ないので車に乗り、実家まで送ってもらう。祖父の体調が心配だった。
途中スーパーに立ち寄って食料を買い込み、家に帰ると祖父はまだ寝ていた。顔色はだいぶよくなっていたので起きてくるのを気長に待つ。エアコンの温度を調整してから、一旦台所に戻ると慶が買ってきたものを片付けてくれていた。
「虎次、ちゃんと食ってんの?」
「おん」
最近は仕事ですれ違いが続いたり、こうして虎次が実家に立ち寄ったりしていたので、慶の料理を食べてなかった。なんだかんだでもう一ヶ月が過ぎているのだなと遠く思う。
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