初恋の実が落ちたら

ゆれ

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虎次と慶

09

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 やめると宣言してすぐ翌日に辞表を提出して退社、というわけにいかないのがこの仕事だった。既に成立している契約は履行しなければ賠償金が発生する。グループでの出演はともかく虎次個人の仕事は撮ると決まっているものはすべて撮らなければならないため、来月くらいまではまだ働かなければならなかった。
 ところどころ空きがあっても、こちらの都合でこの日に変更してくださいとリスケするわけにもいかない。スタジオや機材、それを扱うスタッフすべての予定を調整してのその日決行なのだ。余程のことでもないかぎり日付は動かせない。

 なのであとは体調が悪くならないことを祈るばかりだった。如何せん初めての経験なので、虎次にもどうなるかわからない。医者のアドバイスも全部を実行できるわけでもないため、どうしても考え込んだり、思い悩んだりしてしまい、性格柄あまり慣れないので余計に憂鬱になる。
 だから慶の顔を見られたのは正直すこし嬉しかった。食卓に向かい合わせに座って、なんとなく相手の出方を窺う。六人掛けのテーブルがかつては埋まっていたのに、今はふたりか、或いは祖父がひとりでしか使わないのが寂しかった。

 最初に家を出た虎次はそんなことも知らなかった。随分つめたい孫だったな、と申し訳なく思う。

「やめるって事務所に言ったん?」
「……まあ」

 全員揃っての収録も、何回か都合により虎次だけ欠席している。事情は説明してないのでそう言われるのも無理はなかった。他のメンバーたちもどう思っているのか、確認してはないが、たぶん面白くはないだろう。
 千鶴のゴタゴタがあったときもしばらくは微妙な空気になった。皆大人なのであからさまにカメラの前で態度を変えたりはしないにしても、いずれ何某かの釈明を虎次からしなければ、特に慶の居心地が悪くなってしまう。それだけは避けたかった。

「じいさんのことが心配で。親はどっちも面倒みそうにねーし、近いけど、実家から通うのはやっぱいろいろ不都合もあるだろ」

 言い訳にしてごめんと祖父に謝りつつ、虎次はつっかえそうになりながらもそう説明する。しかし慶は納得がいったふうではなかった。切れ長の双眸を細めて虎次の挙動を冷静に観察している。丸裸にされているようで落ち着かない。

「何だよ」
「俺に隠してることがあるだろ」
「……は? なんだそれ、あるに決まってんじゃん」

 別に洗い浚い打ち明け合う関係ではそもそもなかった筈だ。隠し事くらい幾らでもある。しかし慶のほうはそうでもないのか、明らかに傷ついた顔をするので虎次まで動揺した。彼のこういうところが慕わしかった。忘れていたわけではないけれど、改めて思う。
 ガキ大将ではあったけれど所謂いじめっ子ではなかった。喧嘩をしていたのも相手が別の子をいじめていたからで、無差別に慶ものしてしまってから事情を知り、虎次は自分のほうが余っ程ひどかったと反省したのだ。しかも曲がりなりにも武術の心得がある身なのに、素人を打ちのめしてしまって。

「あのさ、ももの事故の件ってどうなった?」
「!」
「……やっぱり、虎次がやめるって言いだしたの、それがらみなんだろ」
「ちがう」
「違わねえ」
「そうじゃ、ねぇんだ」

 探偵に調査は依頼した。慶には伏せていたがひと月前に報告書も受け取っている。それを見て虎次が辞職を決め、事務所の社長に面会したのも事実だ。
 訊かれたら答えないわけにいかなかったから、どうか慶が忘れていてくれたらいいと気が変になりそうなほど祈っていた。他でもないもものことだ。彼が知りたくない筈がない。虎次はしばらく沈黙したのち、重いくちを開いた。声ががさがさに掠れて十も年を取ったみたいだった。

「あの夜あおってきた車にあの運転手が乗ってたのは間違いなかった。ただ、四人ぐらいいたから誰が運転してたかはわからないって」
「……じゃあ」
「先に社長に直接報告書みせて話したよ。そしたら、知らなかったってさ。仕事が忙しくて子どもの世話は奥さんに任せっきりで、暴走行為とかしてたこと自体、社長はあとになって知ったらしい」

 仕事をさがしていると妻から聞いて、仕方なく運転手として働き口を与えた。自分は楽しくてもそれが社会に出ればマイナスイメージにしかならないことぐらいはわかっていたのか、息子も過去の悪事については隠蔽して就職した。なのに選りに選ってこんなニアミスをするとは、皮肉なものだった。神様は見ているというわけなのだろうか。
 事情がわかると社長は虎次に深く謝罪し、担当を変えたのち、息子には別の仕事をさがさせると約束した。二度と姿を見せない。だからやめる必要はないことになったのだが、思っていたとおり慶はすこしも納得できない様子で拳を握り込んでいる。それもそうだろう。虎次もすっきり解決したとは言えない。

「え、本人は謝罪も何もしてねぇんだよな? おかしくね?」
「うん」
「誰が運転してたかは本人が知ってるだろ。乗ってたのが本当なら、もうこの際じかに問い詰めればいいじゃねーか」

 というかもう、同乗していただけでも虎次にとっては真っ黒で、ボコ殴りにしたかった。本気でしようとさえ思い詰めていたのだ。社長も社員も関係ない。

 でも。
 
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