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踊る炎
踊る炎(7)
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「私はシュターレンベルク家の次期当主なのですから。上手くやらなくては。ええ、絶対に絶対に上手く切り抜けて……」
零れ落ちる涙。ぽろぽろと。
雫はすぐに大きな流れとなり幾筋もの跡をつくって頬を濡らす。
戸惑い気味に自分の名を呼ぶ同僚の顔を、リヒャルトは初めて真っ直ぐに見た。
「貴方なんて、敵じゃないんですから」
真顔に戻って、噛み締めるようにゆっくりと言葉を吐き出す。
今度はさすがにルイ・ジュリアスも不満気に声をあげかけた。
口をつぐんだのはリヒャルトが穏やかに、実に穏やかな口調でこう続けたからだ。
「ずっと敵だと思っていました。でも違うのですね。貴方は味方なんです。父にとっても私にとっても、貴方は大切な仲間なのですね」
ルイ・ジュリアスは微かな笑みを返した。
何を分かり切ったことを。自分たちが仲間なのは当たり前のことだろうがと小さく呟く。
視線を逸らしかけたのは、照れがあったからだろう。
だが、リヒャルトはそれを許さなかった。
「ではルイ・ジュリアス殿、お尋ねします。貴方が後をつけていたのは一体誰なのですか」
「そ、それは……」
聡明な青の眼が震えた。
躊躇する様子。
リヒャルトが催促の意を込めて頷いて見せると、彼は困ったように口元を結んだ。
「さあ、仰ってください。ルイ・ジュリアス殿」
対等という言葉が浮かんだ。
今の自分の言葉は力を持っている。
自分の手は無力ではない。
その証拠に、ルイ・ジュリアスはリヒャルトを信頼して何か言おうとしてくれているではないか。
──見間違いじゃない……しばらく前からおかしいと思って……閣下には言えないし。でも何かあってからでは遅いし……。
「何の話です、ルイ・ジュリアス殿?」
切れ切れの言葉。
独り言に近い。
声が低く、うまく聞き取れない。
名を呼ぶと、ようやくルイ・ジュリアスは切り出した。
「さっき自分が後を付けていたのは……落ち着いて聞いてくれ。間違いない。あれはリヒャルト殿の……」
突然。
オスマン軍の大太鼓の音が闇を裂いた。
何ですか、いきなり。こんな夜遅くに。
きょろきょろと周囲を見渡すリヒャルト。
太鼓は一音だけ。
楽団が後に続くことはなかった。
音楽なんかじゃない──そう悟るのに、さらに数秒の時を有する。
目の前でルイ・ジュリアスが小さく口を開けた。
ゴボと音たてて溢れ出る鮮血。
ずっとずっと憎んでいた男の黒目がぐるりと上瞼の裏に吸い込まれる。
ゆっくりゆっくり。
ルイ・ジュリアスの身体が崩れ落ち、しかしリヒャルトは手を差し伸べることすらできなかった。
ただ、その場に突っ立っているだけ。
何が起きたのです──その言葉ばかりが頭の中を巡る。
中身の詰まった樽が二階窓から街路に激突するかのような異音に、ようやく身体の硬直が解けた。
ルイ・ジュリアスが倒れたのだ。
どろりと濃い赤の液体がリヒャルトの靴を汚す。
それが血液であると、そしてルイ・ジュリアスから流れ出たものであると気付くのに、ゆっくりと一呼吸の時間を有する。
「だ、だ……だれかぁぁ!」
金切り声が迸った。
「誰か助けて! 助けてください。死んでしまう。このままでは死んでしまいます!」
それは感情が暴れる声であった。
倒れた男の身体を抱え起こすと、それが既にぐにゃりと力を失ってしまっていることに戦慄する。
助けてと叫びながら、リヒャルトの胸に去来する感情。
黒く立ち込める雲に周囲を覆われ、徐々に包囲を狭められていく恐怖。
この男が死んでしまったら──父はどうなる? ウィーンはどうなってしまうのだ。
「助けてっ!」
──誰も助けてなんてくれないわ。
幻聴か? いや違う。
左の耳に、呪いのような言葉が微かに響く。
幻聴なんかじゃない。
振り返る。
一番見たくない姿をそこに捕え、リヒャルトは絶望した。
零れ落ちる涙。ぽろぽろと。
雫はすぐに大きな流れとなり幾筋もの跡をつくって頬を濡らす。
戸惑い気味に自分の名を呼ぶ同僚の顔を、リヒャルトは初めて真っ直ぐに見た。
「貴方なんて、敵じゃないんですから」
真顔に戻って、噛み締めるようにゆっくりと言葉を吐き出す。
今度はさすがにルイ・ジュリアスも不満気に声をあげかけた。
口をつぐんだのはリヒャルトが穏やかに、実に穏やかな口調でこう続けたからだ。
「ずっと敵だと思っていました。でも違うのですね。貴方は味方なんです。父にとっても私にとっても、貴方は大切な仲間なのですね」
ルイ・ジュリアスは微かな笑みを返した。
何を分かり切ったことを。自分たちが仲間なのは当たり前のことだろうがと小さく呟く。
視線を逸らしかけたのは、照れがあったからだろう。
だが、リヒャルトはそれを許さなかった。
「ではルイ・ジュリアス殿、お尋ねします。貴方が後をつけていたのは一体誰なのですか」
「そ、それは……」
聡明な青の眼が震えた。
躊躇する様子。
リヒャルトが催促の意を込めて頷いて見せると、彼は困ったように口元を結んだ。
「さあ、仰ってください。ルイ・ジュリアス殿」
対等という言葉が浮かんだ。
今の自分の言葉は力を持っている。
自分の手は無力ではない。
その証拠に、ルイ・ジュリアスはリヒャルトを信頼して何か言おうとしてくれているではないか。
──見間違いじゃない……しばらく前からおかしいと思って……閣下には言えないし。でも何かあってからでは遅いし……。
「何の話です、ルイ・ジュリアス殿?」
切れ切れの言葉。
独り言に近い。
声が低く、うまく聞き取れない。
名を呼ぶと、ようやくルイ・ジュリアスは切り出した。
「さっき自分が後を付けていたのは……落ち着いて聞いてくれ。間違いない。あれはリヒャルト殿の……」
突然。
オスマン軍の大太鼓の音が闇を裂いた。
何ですか、いきなり。こんな夜遅くに。
きょろきょろと周囲を見渡すリヒャルト。
太鼓は一音だけ。
楽団が後に続くことはなかった。
音楽なんかじゃない──そう悟るのに、さらに数秒の時を有する。
目の前でルイ・ジュリアスが小さく口を開けた。
ゴボと音たてて溢れ出る鮮血。
ずっとずっと憎んでいた男の黒目がぐるりと上瞼の裏に吸い込まれる。
ゆっくりゆっくり。
ルイ・ジュリアスの身体が崩れ落ち、しかしリヒャルトは手を差し伸べることすらできなかった。
ただ、その場に突っ立っているだけ。
何が起きたのです──その言葉ばかりが頭の中を巡る。
中身の詰まった樽が二階窓から街路に激突するかのような異音に、ようやく身体の硬直が解けた。
ルイ・ジュリアスが倒れたのだ。
どろりと濃い赤の液体がリヒャルトの靴を汚す。
それが血液であると、そしてルイ・ジュリアスから流れ出たものであると気付くのに、ゆっくりと一呼吸の時間を有する。
「だ、だ……だれかぁぁ!」
金切り声が迸った。
「誰か助けて! 助けてください。死んでしまう。このままでは死んでしまいます!」
それは感情が暴れる声であった。
倒れた男の身体を抱え起こすと、それが既にぐにゃりと力を失ってしまっていることに戦慄する。
助けてと叫びながら、リヒャルトの胸に去来する感情。
黒く立ち込める雲に周囲を覆われ、徐々に包囲を狭められていく恐怖。
この男が死んでしまったら──父はどうなる? ウィーンはどうなってしまうのだ。
「助けてっ!」
──誰も助けてなんてくれないわ。
幻聴か? いや違う。
左の耳に、呪いのような言葉が微かに響く。
幻聴なんかじゃない。
振り返る。
一番見たくない姿をそこに捕え、リヒャルトは絶望した。
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