大絶滅 2億年後 -原付でエルフの村にやって来た勇者たち-

半道海豚

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第4章 幸運の地

04-031 月の門を通ったヒト

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 今年もモモの実がなった。6回目の収穫は、豊作だった。

 ラリッサは、軽油を探して走り回っている。ヒトの土地にやって来たものの、ヒトはドワーフほどにも親切ではなかった。
 むしろ、冷酷だ。
 自由貿易で有名なラヴォ国ならば、彼女は「親切なヒトに出会える」と信じていたが、父母が危惧していた通り、ヒトには他者に対する優しさが欠けていた。
 ラリッサと弟のヘルムートは、ドワーフの国での生活に限界を感じていた。だから、両親を説き伏せて、ヒトの土地にやって来た。
 だが、燃料が切れてしまう。
 少ない貯えをかき集めても、買える燃料はわずか。
 進退窮まっていた。

 それなのに両親は飄々としている。
 貨物車の駐車場になっている広場にテントを張って、病傷者の診察を始めた。母は内科、父は外科。
 朝から大盛況なのだが、ちゃんと診察費・治療費を受け取っているか心配になる。

 心美はひどい腹痛と下痢で苦しんでいた。食あたりであることは明かで、原因にも心当たりがある。
 レスティが付き添って、赤十字マークのある臨時の診療所を訪れていた。
 診察を待つ1時間が地獄の苦しみだった。
 下手なヒトの言葉で「どうしました」と問われ、心美はエルフの言葉で「腹痛と下痢がひどいです」と答えたが、女性の医師は一瞬だが理解できないようだった。
 女性医師は「食あたりね」と言い、煎じ薬を処方しようとした。
 だが、心美の主観的状態では、薬草など効くはずないと感じていた。このテントを見た瞬間から、無駄かもしれないけど、聞くだけ聞いてみようと考えていた。
「アセトアミノフェンとか、ないですか?」
 女性の医師は、手を止め、微笑みが消える。
「え!
 あなたは?」
 心美は必死だった。
「持っているなら、売ってください。
 抗生剤も。
 代金なら、払います」
 心美は財布代わりの巾着を渡す。
 女性の医師が驚き、どうするか思案する。だが、巾着の中身に負けた。
「古いけど、効くと思う。
 自己責任で使って」
 心美が錠剤2つをその場で飲み、別のテントにある折りたたみ式の寝台に寝て、しばらく休ませてもらう。

 女性の医師が心美が寝るテントを尋ねてきた。
「薬の知識があるの?」
 浅く寝ていた心美が目を覚ます。
「モンテス少佐に習った。
 フリッツからもいろいろと教えてもらった」
「少佐?
 軍人?」
「うん。スペイン陸軍の……」
「あなたも時渡りを?」
「うん。
 第1世代だよ」
「他にもいるの?」
「うん。
 数人だけどね」
 心美は油断せず、正確には答えなかった。
「あなた、名前は?」
「ココ。
 みんなはココって呼ぶ」
「では、ココ、
 この付近に住んでいるの?」
「第1世代はヒトの土地には住めないよ。
 実在するディストピアだからね」
「では、どこに?」
「助けてもらって何だけど、それは言えない。
 知りたいなら、耕介に会ってもらわないと」
「そのヒトがリーダーね」

 ラリッサは、軽油の確保に苦労している。不親切な西辺から、内陸に移動すれば、必ず優しいヒトがいるに違いないと信じている。
 身近にヒトがいなかった生育環境から、ヒトに対する異常に強い親近感を持っていた。

「あれ、あなたのクルマ」
 ウニモグからだいぶ離れていた亜子にラリッサがヒトの言葉で声をかける。
「そうだけど」
 亜子の答えは、エルフの言葉だった。
 ラリッサには意外だった。彼女はヒトの土地で生活するために、ヒトの言葉を独学で学んだ。教本がないので、同じ地域に住むドワーフの商人に教えてもらった。
「なぜ、エルフの言葉なの?」
 亜子はヒトの言葉に切り変える。
「エルフの土地に住んでいるから」
「なぜ、ヒトの土地に住まないの?」
「いやぁ、私たちには住みやすくはないかな。
 ドワーフの土地には、ヒトがあまりいないらしいけど、エルフの土地には結構いるし……」
「燃料、軽油がほしいんだけど、誰も売ってくれないの」
「ヒトから?」
「うん」
「ヒトは軽油を使わないからね。
 たぶん持ってないんだよ。商人も扱わないし……。
 ドワーフの商人に尋ねたら?」
「少ない量は、売らないって……」
「どれくらいほしいの?」
「400リットル……」
「ずいぶんな量だけど、どこに行くつもり?」
 亜子は、クルマに使うには量が多すぎると感じた。
 ラリッサは、どう答えるか考えていた。
「私たちのクルマ、燃費が悪いんだ。
 東に向かうつもり」
 亜子が心配になる。
「内陸に?
 公路から外れると、運がよければ身ぐるみ剥がれるだけだけど、悪ければ生命を取られるよ。
 気を付けてね」

 耕介はレスティに手を引かれて、強引に臨時診療所のテントに向かった。
 そこには、明らかにコーカソイド系の中年男女がいた。
 男性から挨拶される。
「クルト・シュナイダーです。
 彼女は妻のヘディ・デンバーグ」
「佐高耕介。
 2億年前は日本人だった。
 コウと呼ばれている」
「オーストリア人。
 オーストリア陸軍に所属していた」
「で、どんな用なの?」
「移住したヒトと会うのは初めてだ」
「移住は、簡単じゃない。
 2億年後は完全な想定外だ」
「なぜ、こうなっているのか、知っているか?」
「知っている」
「教えてくれ!
 俺たちは、ずっと苦しんできた。自分たちが何者で、自分たちはどこに所属するのかを……」
「生きているのだから、幸運だ。
 それだけで、満足しないと。
 多くは、そんなことを悩む余裕なく、死んでいった」
「……、そうなのか?」
「生と死は紙一重。
 運次第だ。
 俺たちは幸運だった。生き残った理由は、それだけだ」

「父さん!
 母さん!
 燃料を売ってくれるヒトを見つけたよ!」
 ラリッサがテントに飛び込む。

 クルトが紹介する。
「娘のラリッサだ」
 耕介が驚く。
「親子で生き残ることは、確率がかなり低いんだ。
 本当に幸運なんだな」

 耕介の声を聞いた亜子がテントに入る。
「耕介、偶然」
 耕介も驚く。
「あれ、食料を買いに市場に行ったんじゃなかったの?」
「その市場で、この子に声をかけられた。
 危なっかしいんで、話を聞いてやった。
 軽油がほしいらしいんだけど、内陸の商人に声をかけようとしていたんだ。掠われて、売られて、2日後にはどうなったかわからなくなっちゃうからね」

 ラリッサは、呆然としている。ラリッサは、ドワーフの社会の中で強い疎外感を感じていた。ヒトの社会に交われば、その感情が消えると確信している。
 だが、彼女の行動は、西辺であってもヒトの社会ではあまりにも無謀だった。

 夕暮れが近付いている。クルト、ヘディ、ラリッサと、耕介と亜子が話し込む。
 心美とレスティが見詰めている。
 ヘディがこの世界の全体像を尋ねる。
「この世界はどうなっているの?」
 亜子が答える。
「北から、エルフ、ヒト、ドワーフの土地があるんだ。西には大山脈、東には大洋。山と海の間にヒトと近縁種が住める世界がある。
 推測だけど、私の推測ではなく、移住した分子生物学者の……。
 50万年前頃、移住者の子孫からドワーフが分岐した……。20万年前頃、別の移住者グループの子孫からエルフが分岐。
 いまいるヒトは、1000年から数十年前の移住者かその子孫。
 それと、ゲートを入るときと、出るときでは時間が概算で10万倍になるの。
 つまり、3分間隔でゲートに突入しても、出口側では208日の差になるわけ。
 だから、いくら待っても誰も来ない。運よく、同じタイミングで他のゲートから飛び込んだクルマでもない限り、ゲートの外で誰かと出会うことはない……」
 クルトとヘディは、とてつもないショックを受けている。一方、ラリッサは理解できていない。
 クルトが説明する。
「私と少尉は、20年前にこの世界にやって来て、燃料切れ寸前でドワーフの土地にたどり着いた。
 西の辺境、ドワーフの土地でも田舎と呼んでいい地域に住み着いた。
 ヒトの社会も同じだが、田舎は閉鎖的だ。よそ者を好まない。ましてや異種族。土地になじめるはずはない。
 子供たちには苦労させた。友だちもおらず、寂しかったと思う。
 北にヒトの土地があると知ったのは、10年前。移動するためには燃料が必要だし、買うには銀貨がいる……。
 貯めるのに10年かかった。
 そして、ここで行き止まってしまった」
 ヘディが説明する。
「娘は、ヒトの土地に行けば、誰もが親切にしてくれると信じているの」
 亜子が言下に否定する。
「それはない。
 2億年前だって、なかったし……。
 だけど、内陸に向かうことは薦めない。
 不幸にもラリッサは美人だから、両親は殺され、お嬢さんは掠われてどこかに売られることになる。色白だから、珍品で高値がつくんじゃないかな」
 クルトとヘディが黙ってしまう。
 亜子が続ける。
「内陸には奴隷がいるし、たぶん海岸の国の一部にもいる。西辺にはいないけど……。
 内陸は、宗教と迷信がはびこった中世ヨーロッパの暗黒時代と19世紀の無制限戦争の時代を足したようなディストピアだよ」
 ラリッサが叫ぶ。
「そんなはずない!」
 心美が弱々しい声を出す。
「私、ハルジー王国の王太子に拉致されそうになった。
 道を10メートル間違えただけなのに。
 王太子にレイプされて、売られる運命だって言われたよ」
 耕介が笑う。
「で、おまえ、何した?」
 心美が背を向ける。
「王太子のタマに弾を撃ち込んでやった」
 亜子が追い打ちをかける。
「で、いまは?」
 心美が首だけ振り向く。
「ハルジー王国の王様と喧嘩の真っ最中」

 ハルジー王国は嫡男が生殖能力に問題が生じたことをひた隠しにしている。内陸では男子以外は家督を継げない。そして、ハルジー王国王太子は、唯一の直系男子であった。
 国王は手当たり次第に女性を寝所に招き入れているらしいが、子ができる兆しがない。
 このままだと、王朝は終わる。王領は、国王が嫌う従兄弟である隣国の王の手に落ちる。
 唯一の息子の生殖能力を奪った心美に対して、国王は激しい恨みを抱いている。
 だが、賞金をかけてはいない。理由は、息子の身体の状態を秘匿するためだ。
 当然、ハルジー王国の近くを通る際は、最大の警戒態勢になる。

 ラリッサは、彼女の脳が築いた虚構と現実との折り合いが付けられないでいた。
 彼女は、国王、王家、王妃、王子に強い憧れがあった。幼少期、白雪姫やシンデレラの物語を母親から聞かされて育ったからではなく、友だちさえいない寂しさから、極端な恋愛妄想に陥っていた。

「いつか、私を守ってくれる王子様が現れるはず」

 彼女には現れていない王子様が、腹痛で寝ている女性とは縁があった。
 それが恨めしい。

 亜子が提案する。
「ヒトの土地にいるのはよくないよ。油断すれば、内陸の連中に目を付けられる。
 あなたたちに仲間はいない。
 燃料は提供する。よければ、私たちと一緒にエルフの土地に行こう」
 耕介も賛成する。
「ヒトの土地に入ると、とにかく緊張する。
 西辺は内陸に比べたらずっとマシだが、ここは西辺に近いから危険だ。
 もし、具体的な目的地がないなら、一緒に来たらどうだ?
 あるなら、別だが……」

 この時点で、クルトは疑念は感じつつも誘いに乗り気で、ヘディは疑いの思いはあるが選択肢としてはありだと考えていた。
 しかし、ラリッサは違った。
「私はイヤ。
 ドワーフやエルフと一緒はイヤ」
 心美のそばに立つレスティが発言する。
「エルフを知ってるのかよ」
 怒気はなく、単に質問しただけだ。
 ラリッサは、戸惑った。
「知らないけど……」
 レスティが立ち上がり、ラリッサの目を見る。
「私の母と父は、シンガザリに殺された。戦いの最中、エルフの偉大な戦士に助けられ、いろいろあってヒトに育ててもらった。
 養父はヒトだったけど、エルフの賢者だった。養母は優しいヒトで、ココと分け隔てなく育ててくれた。そのヒトは、ココにとっても養母だった。
 違うか。
 姉か?」
 心美が賛意を示す。
「クソ姉貴」
 耕介が軽く怒る。
「心美、言葉遣いが悪いぞ」
 心美が切り返す。
「耕介ほどじゃねぇよ」

 耕介が最後のアドバイスをする。
「このままじゃ、早晩、あんたたち親子はヒトの食い物になる。
 それがイヤなら、俺たちと一緒に行こう。
 無理強いはしない。
 自分たちで決めてくれ」

 親子の会話は15分続く。
 クルトが「同行する」と結論を伝える。
 しかし、ラリッサは明らかに納得していない。耕介は、これがトラブルになりはしないかと危惧する。
 耕介が声を発しようとすると、亜子が制する。首を横に振り、無言だが「何も言うな」と語った。

 クルトたちのトラックは、彼の息子が厳重に監視していた。彼は4時間以上、クルマから離れていない。
 緊張と尿意の我慢からか、泣き出しそうな顔をしていた。父親の顔を見ると、耕介や亜子の存在に気付かないかのように、茂みに走って行った。

「たまげたな」
 これが耕介の感想。
「本当にビックリだね」
 亜子もハーフトラックを見て驚く。MAN製中型トラックの後輪をゴム製履帯に変更している。ベースのトラックは完全な民生用後輪駆動車で、後輪部だけを改造している。
 キャビンの塗装は、民間車のままの白。ドアに黄色い冠を被った鷲のオーストリア国章が描かれている。
「こういうクルマは多いの?」
 クルトは、答え方に戸惑う。
「軍用トラックには限りがあるし、トラックはいくらでも必要だから……」
 耕介が感心する。
「履帯のコンポーネントをシャーシに固定するだけの簡単な改造だな。ドライブシャフトの長さは調整しないとならないけど、厄介なのはそこだけか。
 すごいな」
 亜子は思い出していた。
「日本でもトラックのタイヤをクローラーに変えていたね」
 耕介も思い出す。
「考え方は同じだね。
 こちらは後輪だけだけど。
 前輪はリフトアップしているようだね」
 下回りを覗いていた耕介が立ち上がる。
「だけど、燃費が悪いだろうね」
 彼の言葉に、クルトは迷わず頷く。
 後輪駆動車の後輪を履帯に変更した理由は、限定的な路外走行性能を与えるためだが、その代償として燃費が悪化する。

 ハーフトラックを3キロほど移動させ、別の駐車場で耕介たちのトラックから燃料を補給する。
 診療所代わりのテントは、撤収している。
 クルトの息子ヘルムートは、グレイハウンドの砲塔に乗ってご機嫌だ。彼には子供っぽさが残るが、姉よりは現実的で、警戒と油断のバランスがいい。
 姉のラリッサは、警戒しっぱなしで、極度の緊張状態にある。

 亜子がヘディに告げる。
「明日の夜明けに出発する。
 起床は夜明け前になる。1日80キロ以上走るけど、ときどき休憩するから……」

 隊商の朝は早い。
 ヘルムートは昨夜、やたらとテンションが高く、なかなか眠れなかったようで、一目でわかるほど眠そうにしている。
 ラリッサは誰とも目を合わさず、非協力的で不愉快な態度をしている。

 ヘルムートが耕介に「戦車に乗りたい!」と声をかけてきた。
 耕介は「乗せてやりたいけど、もし、何かがあって各車がバラバラになったら、お父さんとお母さんがきみを心配する。だから、ダメだ」と諫めると、彼は「わかったよ。おじさん。でも、ありがとう」と礼を言った。
 耕介は「おじさん」にショックを受け、すぐには立ち直れなかった。
 2億年後に移住したときは17歳だったが、26歳になってしまった。確かに、ヘルムートからすればおじさんかもしれない。

 復路で最初の野営は、バッキーズ公路の西側に設けられた公路指定キャンプサイトだ。
 ヒトだけでなく、珍しくエルフの隊商が先着している。
 その隊長が耕介に声をかけてきた。
「あんた、クルナ村のコウか?」
「あぁ」
「数日前、この道を渡っちまった10歳くらいの女の子がいた。
 で、ヒトと争いになった。双方にかなりの死傷者が出たらしい」
 隊長がヘルムートを見る。
「小僧、渡るんじゃないぞ。
 渡れば死人が出ることになるからな」
 はしゃいで動き回っていたヘルムートが、動きを止め黙る。ヘルムートへは、ヒトの言葉を使っていた。
 それをラリッサも聞いている。
 2人は、簡単なヒトの言葉なら理解できる。
 西辺にも内陸の諸勢力が浸透していて、西辺諸国の意図に関わらず、勝手な行為を行っている。
 それは、エルフの土地にも及んでいる。心霊教団によるヒト狩りは、エルフの土地に住むヒトを震撼させている。

 エルフの隊長が、耕介を見越して何かを見ている。耕介は気になり、振り向く。
 ヒトの女の子が道に出ようとしている。
 耕介の右目に若い女性が走ってくる様子が映る。
 耕介が振り向くよりも早く、隊長が走り出す。耕介も一瞬遅れて走り出す。
 道に出て数歩のところで、女の子は隊長に抱き上げられた。
 道の反対側から走り出てきたヒトの男の顔面に、耕介が渾身のストレートを見舞う。
 骨が砕ける音が響く。
 道の反対側から4人が飛び出し、乱闘になる。
 亜子が叫ぶ。
「エルフは手を出すな!
 ヒトの問題だ!」
 今回の交易では、ヒトは亜子、耕介、心美しかいない。太志もしないし、彩華もいない。
 亜子と耕介は、ヒトの大男2人を相手にしなければならなかった。
 耕介はボコられる覚悟をした。

 だが、一瞬で勝負がついた。
 心美が石を投げると、1人の側頭部に命中。心美の兄は野球部に所属していてピッチャーだった。球威はなかったが、コントロールだけは抜群によかった。
 心美にもその素質が備わっていた。これは、以前から知られていた。
 亜子は1人を路上に組み伏せ、タコ殴りしたが、耕介には獲物が残っていなかった。
 心美の投擲で、3人が倒れている。

 ヒトの行商の両親は、亜子に何度も頭を下げ礼を言っている。耕介と心美はスルーされた。
 亜子の派手なタコ殴りが印象に残ったからだ。

 ラリッサは固まってしまい、何もできなかった。そもそも、何をすべきなのか知らない。
 ヒトの行商がエルフの土地に住んでいることにも驚かされた。耕介と行商が互いに居所を教え合い、再会を約したことも意外だった。
 エルフの土地では、マイノリティであるヒトは互いに助け合っている。

 亜子がヘディに説明する。
「あの行商人だけど、父親は移住2世代目。母親は3世代目。
 クウィル川以北に住んでいて、仕入れのためにヒトの土地に入ったんだって。
 もし、あの子が掠われていたら、どうなっていたか。簡単には取り返せないし……。取り返すには、あいつらが住む村を焼き討ちでもしなきゃならなくなる。
 できるけど、するけど、したくはない。
 ラリッサは、不安定だから気を付けて」

 クウィル川北岸に上陸すると、ヒトもエルフも大きく息を吐いてしまう。そして、解いてはいけない緊張が、どうしても緩んでしまう。
 渡渉点付近は、シンガザリの勢力圏に近く、小規模な偵察部隊が頻繁に侵入している。相対比較だが、内陸のヒトの狡猾さと比べたら、シンガザリの単純な残虐性は対抗しやすい。

 今回の復路では9回の野営があった。
 10回目の宿泊はフラーツ村で、ここで3泊することになっている。
 村の面々、ゴンハジ、彩華が出迎えてくれる。この街道は治安がいいことから、往来が急増している。交通が活発になれば、当然のこととして、飯屋と宿屋が開業する。
 旅行用品を扱う商店も開店した。パン屋併設のカフェもある。この店はエルマのパン屋の初支店だ。
 開店間際なので、エルマとスタッフ4人が応援に来ている。

 ラリッサが育った村とは、雲泥の差と言える賑やかさだ。
 心美がラリッサをカフェに誘う。
 ラリッサは、どうしていいのかわからない。ヘルムートが「ぼくも行く!」と声を発したので、彼女はぎこちなく歩き出す。

 クルトが「ヒトが住む街だ」と言ったが、人よりもエルフが多い。圧倒的に多い。

 フラーツ村支店の店長は、ゴンハジの長女で末子のルツィエだ。クルナ村の本店で半年間修行したが、まだまだで当分はクルナ村から応援が入る。
 それにしても大盛況だ。クルナ村は北辺のどん詰まり。フラーツ村は間道ではあるが南北街道の真っ只中。東西街道からもそれほど離れていない。
 治安が安定すれば、発展は自明だった。

 エルマは、フラーツ村が街道にあることから、総菜の販売も始めた。パンと総菜を買えば、弁当になる。
 総菜を入れるための安価な容器も考案した。だが、アイデアの90パーセントは2億年前を知っている彩華から出ている。
 彩華のアイデアの元ネタは、駅弁などで使われていた経木〈きょうぎ〉だ。紙のように薄いもの、1ミリ程度の厚さで箱にできるものなど何種類かある。
 紙のように薄い経木は、日本古来の使い方を踏襲している。

 2日目夕方、ヘルムートは「この村に残りたい」と両親に訴える。
 3日目早朝、近隣から馬車が到着。荷台には高熱を出して女の子が寝ている。
 母親が叫ぶ。
「モンテス先生!」
 少佐、フリッツ、リズもいない。
 彩華が走り寄る。
「病院へ!」
 その病院には、医師、医薬品、医療機材がない。建屋はあるが、それだけだ。クルナ村から月に1週間、医療支援がある。
 この点は乗り越えていなかった。

 病院は、村の中心にある。村役場よりも大きい建物だ。医師のいない地域が、どれほど悲惨か村民はよく知っていた。

 耕介がクルトかヘディを呼ぼうとする前に、2人が走ってくる。

 診察台に寝ている小柄な女の子を、ヘディが診る。
「腹膜に炎症があるようね」
 彩華が薬品棚を指差す。
「抗生剤、少しだけならあそこに」
「ありがとう」
 ヘディが医薬品を確認する。
 父親が泣いている。普通は助からない。命は簡単に失われる。乳幼児の死亡率は高い。 ヘディと彩華は英語で会話し、彩華が両親に通訳する。
「このヒトは、お医者さん。
 長くドワーフの土地に住んでいて、エルフの言葉はわからないけど、お医者さんだから……」

 フラーツ村に医師がいるとの噂は、その日の午前中には周辺6カ村に伝わっていた。
 クルナ村の医療支援を待てない村民が、続々と集まってくる。
 外科はクルト、内科はヘディの分担で、診察していく。

 村長〈むらおさ〉が彩華を捕まえて、無理を言い始める。
「アヤカ、あのお医者の夫婦は、クルナ村に行くのか?
 それは、ズルイぞ。クルナ村ばっかり……。
 この村に残ってもらうには、どうすればいい?
 畑付きの家を用意すればいいのか?
 それとも銀貨か?
 そうだ!
 おまえが説得しろ!」
「村長、んなぁ、無理だよ。
 だけど、話してみるだけなら、ただだよ」
「よし、話してみろ!
 無礼がないように、ちゃんと話すんだぞ。
 おまえは生意気だからな」

 耕介はクルトに呼び止められた。
「あの子、重篤じゃないが、油断はできないんだ。
 数日、とどまろうと思うんだが……」
「そんなことしていると、患者が集まってくるぞ。
 そのうち、子供が産まれるとか、ウマの怪我を診ろとか、いろんなことを言い出す。
 きりがない」
 クルトが笑う。
「いいじゃないか。
 役に立てるなら何でもするよ」
 耕介が呆れる。
「それは、いいヒトじゃなくて、ヒトがいいってことになる」
 クルトは、病院があるのに、医師がいないことが気になった。
「医療関係のスタッフは?」
 耕介が簡単に答える。
「クルナ村で教育中なんだ」
 クルトが少し考える。
「どちらにしても、あの子が回復するまでは動けない」
 耕介も状況を理解している。
「わかった。
 亜子ともう1人を残す。
 2人と一緒に来てくれ」

 ゴンハジの妻は、病院に食事を届ける。その際、彼女はヘディに「この村の周辺にはお医者様がいないの」と伝えた。
 気持ちを伝えたつもりだが、意図が伝わったのか心配だった。
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