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偽りの姫は神秘を目の当たりにする 3

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「女神は、この度の戦に大層お怒りだった。それでなくとも、レイデーアは女神の愛し子だからな。
 リリーシャの言う通り、女神は尊い一柱でいらっしゃるが万能ではない。女神はレイデーアのために、ある種の法則を歪められたのだと思う。その結果、あのとき死ぬはずだったレイデーアは、女神のお力によって傷が癒えると同時に、不死身に近い身体に変化したと考えられている」

 静かに語るアーディレイによれば、レイデーアはもしかすると老いない身体でもあるかもしれないということだった。

「先例もある。女神に寵愛された人物は、何らかの恵みを受ける。その恵みによって体内の神力の均衡が崩れると、不死身になったり発狂したりといったことが起こるんだ。
 レイデーアが傷を負ったのはつい最近の出来事だから、ずっと不死身なのかずっと不老なのか、ある程度時が経過するまで本当のところはわからないんだが……レイデーアは、せっかくだから自分の身体を使ってリーデンバーグへの示威じいに使うと言い出した。それが今日起こったことだ。わざと守りを薄くしたところに敵を誘い込んで、レイデーアを狙わせた」

 口を閉ざして、アーディレイは自分の上衣の裾を握って離さない白い手を包み込むように触れた。その手つきには、壊れそうになったものを引き留めようとするかのような願いが込められていた。

 ……リリーシャは、アーディレイの手のひらにまだ新しい傷があることに気づいた。硬く拳を握り込んでできたような、かすかに血の滲んだ傷跡が。

「差し出がましいことを言うようですが、殿下がそこまでなさらなければいけないのでしょうか。いくら戦のきっかけとなったとはいえ、お一人で負うことはないと思ってしまいます」
「俺もそう思う。陛下も王妃殿下も、臣下も皆そう言った。でもレイデーアは聞かなかった。それに……アーデンフロシアに生まれると、王族が真に望んだ願い事はどうにも断りにくいんだ」
「それは、私にも難しいと思います」

 リリーシャが苦笑するのに、アーディレイは肩を竦めた。リリーシャもすっかりレイデーアのことが好きになったな。そう嘯いて。

「たぶん、目の前で王太子殿下を亡くしたことが大きかったんだろう。女神に命を救われてからというものの、レイデーアは自分の身を傷つけて構わないと思っている節がある。どうせ治るのだからと」

 リリーシャは躊躇いを飲み込んで、踏み込んだ質問をした。

「アーディレイ様はそこまで殿下を想っておいでなのに、どうしてお気持ちに応えてさしあげないのですか?」

 アーディレイは、少しだけ驚いていた。気づいていたのかと。
 リリーシャが流石にわかると言ったのに、アーディレイは苦く笑った。

「戦が終わったら、きっと結婚するのだろうと思っていたよ。でも、レイデーアは俺に遠慮するようになった。自分だけ老いも死にもしないかもしれない身になったから、只人ただびとの俺とは結婚してはいけないと考えたらしい。一度なんて、どこそこのご令嬢が俺に似合うと言ってきた。だから、あいつがちゃんと腹を括って求婚してくるまでは、ただの臣下に徹すると決めたんだ」

 そう言いながらも、手のひらで包んだ指を見つめる瞳もその表情も、まったくただの臣下の範疇には収まってはいなかった。
 きっと、レイデーアもまたアーディレイからの求婚を待っているだろうに。
 そう言おうとして、リリーシャは口を閉ざした。そんなことは、リリーシャに言われるまでも無くアーディレイもわかっているのだろう。それに、レイデーアならば「お願い」してしまえば叶いそうなものなのに、敢えてそうしないでいる。リリーシャが口を出していいことではなかった。

 部屋を辞そうとしたリリーシャは、アーディレイが声をかけてきたのに振り向いた。
 寝台を向いて座ったその端正な横顔は眠る世継ぎにのみ注がれていて、こちらを見ない。ただ声だけが影のように差しのばされて、リリーシャに届いた。

「リリーシャの常識にはないことだらけだろうと思う。でも、できればレイデーアを怖がらないでやってくれ。こいつは、本当にリリーシャを義娘にしたいほど好きなんだよ」

 リリーシャはぱちりと瞬いた。彼女がくすくすと笑い出したので、ようやくのことでアーディレイはリリーシャを見た。
 アーディレイにも杞憂であると伝わったのだろう。その顔はふいとそむけられた。そのときにはもう既に、リリーシャは扉を閉めていたのだけれど。


 レイデーアが目覚めるまでの三日間、執務室は閉ざされた。レイデーアとアーディレイがいないことには、何も回らないからだ。

 臨時休暇を与えられたリリーシャは、その間にすべて済ませてしまうことにした。
 リリーシャに供を頼まれたマノアは、はじめ驚き、次いで不審がり、最後にはあきれ果てていた。
 だが、リリーシャがさっぱりとした顔をしているのに気づいて、最後には納得してくれた。まあ、殿下は今お寝みですしね。そう囁いて。

 リリーシャは自分の決断したことについてレイデーアに報告したい気持ちでいっぱいだったのだが、生憎となかなかその機会は訪れなかった。レイデーアが政務に復帰すると、執務室は嵐のような忙しさに見舞われたからだ。

 ただでさえリーデンバーグの襲撃に関する報告が増えている上に、レイデーアが快復した噂を聞きつけて、宰相以下高官たちから騎士や女官にいたるまで、それはもうたくさんの人が代わる代わるやってくるのだ。レイデーアはその度にあの輝かしい瞳を細めて、朗らかに笑ってやっていた。

 リリーシャはいつものようにお遣いに出た先で、顔見知りとなった人々から例の襲撃の場に居合わせたことを慰められて驚いた。その慰めは、リリーシャに自分がアーデンフロシアで受け容れられていることを感じさせたから。
 それでようやく、リリーシャはリガードがガネージュを治める夢を見ることを諦めることができたのだった。

 ……リリーシャは、きちんと知っている。
 隣国のことであるから、アーデンフロシアの王城にはガネージュの王太子の義妹の存在を知っている者もいた。
 レイデーアはリリーシャの素性を隠していなかった。ただ、表立って言わなかっただけだ。そうして、まずはリリーシャ個人を人々に見せたのだ。リリーシャの素性を知って遠ざかる人もいたが、ほとんどの人は何も思っていないと言外に示してくれていた。

 何より、レイデーアが庇護下に置いてくれていたからだろう。
 レイデーアはずっと、リガードに約束した以上にリリーシャを守ってくれていた。
 わざわざリリーシャの世話を焼かずとも、頃合いを見て適当に選んだ男に縁づかせることだってできたのに、リリーシャに選択を委ねてくれたのだ。

 行く先々で気遣われ、またレイデーアの目覚めを喜ぶ声を聞いたことで、リリーシャは執務室に戻るのが遅れてしまった。すでに定刻を過ぎている。
 帰途を急ぐ途中、リリーシャはルドンたちがまだ年若い娘を連行していくのに出くわした。
 髪を振り乱した娘の顔は、こちらからはよく見えない。だが一瞬こちらを見たとき、目の下に黒い隈がたたえられているのにリリーシャは気づいた。

 さっと道を譲ったリリーシャにルドンは小さく笑んで会釈してくれたが、おそらく高位貴族の娘だろう。連行されていた娘が身をよじって暴れると、早く行くようにと合図した。大人しく頷いたリリーシャは、足早にルドンたちがいま来たほうへと向かう。

「リリーシャ様。申し訳ございませんが、執務室までお見送りいたしますから、少しの間、中でお待ちいただけますか?」
「ええ、大丈夫です。仕事をしています」

 人手の足りないアーデンフロシアの王城において、女官長の次に重宝されているというマノアには度々声がかかることがあったので、リリーシャは振り向いた先に一礼した侍従の姿を見つけても、いつものことだと頷いた。

 申し訳なさそうな顔のマノアを見送ったリリーシャは、執務室の扉を叩いて何の応えもないことに瞬いた。
 そっと扉を開けると、誰の姿も見えず灯りもない。レイデーアとアーディレイは、三日間の遅れを取り戻すために夜まで政務をすると張り切っていたのにだ。

 首を傾げたリリーシャは、ふと足を止めた。
 執務室と続きになっている小部屋のほうから、細く灯りが漏れている。扉が薄く開いているのだろう。雲の合間から降りる梯子のように、光の筋が伸びていた。
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