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懐かしいあなた

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「……どうかお立ちください。近衛騎士の方に膝を突いていただくような身ではありません」

 騎士の瞳が、私の内側を探ろうとするかのように細められる。けれども、笑みの形に結ばれた唇はこの場で私の身の上話を披露するつもりはないらしい。
 軽く顎を引いた騎士は、無駄のない所作で立ち上がる。

「では、ありがたく」

 さあと言わんばかりに、白手袋を嵌めた手のひらが差し出された。

 私が応えるのが当然とだと思っている手のひらを前にしてもなお、心は凪いでいた。
 目の前に鏡がないから、いま自分がどんな表情をしているのかわからない。ただ、習性のように唇が微笑んでいることだけを知っていた。

「一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「はい、何なりと」
「私はいつ帰していただけるのでしょう?」

 片眉を上げた騎士は、微かに唇を歪ませる。

「恐れながら、なぜそのようなことを知る必要が?」
「ご存じの通り私は移民ですから、無断欠勤で勤め先を失えば、生活が立ちゆかなくなってしまいます。有給を申請してから伺います」

 言いながら机の抽出を開けて、紙挟みを取り出す。しんと静まりかえった室内で、抽出を閉める音がいやに大きく聞こえた。手の震えをごまかしたくて、強く紙を押さえる。ペン先にインクを浸して名前を書く間、騎士は何も言わなかった。

 ペンを止めて見つめた先で、薄い唇が息をつく。

「……おそらくは、一週間ほどでお帰しできるでしょう。予定が変わった際には、こちらで日数分の給与を補填します。それでよろしいでしょうか?」
「ありがとうございます」

 七日分の有給をここで使うのは惜しいと思って、私はこんなときだというのにおかしみを感じた。
 この八年、もうずっと当たり前のように庶民として暮らしてきたのだ。今の生活が身の丈に合っていると思っていたし、信じていた。祈るように。

 商家の主に申請書を渡して、この場を騒がせた詫びを告げる。主は納得がいかないと言いたげに騎士を見たものの、多少日を過ぎても籍を残しておくと請け合ってくれた。

 騎士の後に続いて商家を出た私は、促されるままに何の紋章も付いていない馬車に乗り込んだ。
 おそらくは、まだ私の生まれは公になっていない。ドミニクの困惑ぶりからして、近衛騎士隊の中でも広く共有されているとは考えにくい。

 膝に抱いた鞄を握りしめていると、遅れてひっそりとした悲しみが追いかけてくる。
 言質は取ったものの、本当に戻ってこられるかどうかはわからない。

(あと少し。あと少しで面会も終わって、移民としての扱いが終わるはずだったのに)

 懐かしい諦念が胸に忍び寄ってきて、ことりと一つ、おもりが落ちるのがわかった。

 馬車に乗せられて向かったのは、ヘルヴェスの王宮の一角だった。
 故国とは構造が異なるものの、騎士が先導する道は明らかに隠し通路で、表立って迎え入れられていないことはわかる。

 通されたのは、貴族用の客室だった。室内で待っていた数人の女官たちが淑やかに膝を折り、微笑んでこちらを見つめる。

。まずは身支度を調えて、ゆっくりお寛ぎください。
 女官たちに言ってくだされば、何でも支度いたしましょう。ゆめゆめ逃げだそうとはお思いになりませんように」

 漆黒の外套を翻した騎士が去ると、女官たちはあらまあと顔を見合わせる。

「恐いこと。王立騎士団長と違って、近衛騎士隊長は厳めしくて困りますわ」
「ねえ。お湯を支度しておりますので、どうぞこちらへ」

 さやさやと鳴る葉擦れのようなお喋りに促されて、私は備え付けの浴室に通される。
 あの頃のことなんてもうほとんど覚えていないと思っていたのに、私の肌は人に世話をされることを一瞬で思い出した。女官たちに大人しく服を脱がされても羞恥はなく、ただ当然のように佇み、身体を洗われることを知っていた。

「まずは御髪の色を落としますね。頭を台にお乗せします」
「まあ……なんてもったいない! こんなに美しい御髪を隠していらっしゃったなんて」
「綺麗な色ですこと。まるで光をくしけずったようですね」
「お肌もすべらかで、日焼けもほとんどしていらっしゃいませんね」
「どんなドレスがお似合いかしら。もっとドレスを持ってこさせなくては」

 薔薇が描かれたタイル、金の脚付きのバスタブで湯気を立てる乳白色のお湯、花のオイルが立てる柔らかな香り。軽やかに耳を通り過ぎてゆく女官たちのお喋り、優しく眠気を誘う手つき。時折口に宛がわれる、よく冷えたグラス。いい香りのする石鹸、密な泡が肌の上をすべる感触、身体のくぼみを撫ぜる指の腹……。

 微睡みのように穏やかな世界は、奇妙な慕わしさで私を包み込む。
 私がこうした世界にいたのは、五つか六つほどの頃だったように思う。まだお母様のもとにお父様が通い続けていたその頃、私は世界中から祝福された王女のように扱われていた。
 
 うやうやしく手を引かれながら浴槽を出ると、肌に化粧水が塗られ、さらに香油を重ねづけされてゆく。ふと鼻先に薫ったそれは、お母様が好んで使っていたものと似ている。

 ふんわりとしたガウンで肌を包まれて案内されたのは、大きな鏡台の前だ。
 正面から見ていたくなくて目を閉じていると、とろりとした眠気が忍び寄ってくる。
 女官たちは私の髪を乾かしながら、くすくすと楽しそうに笑い、ああでもないこうでもないとドレスの案を出し合っている。まあ、お疲れなのですね。お目覚めになられたら、きっとびっくりなさいますよ……。

「おやすみのところ、申し訳ございません。お嬢様にドレスをお選びいただきたくて」
「私たちで絞り込んだのですが、意見が割れてしまいまして……」

 肩を優しく叩かれて目覚めると、女官たちがそれぞれ真剣な面持ちでドレスを手にしていた。
 クラウディアが着ていたドレスや商家で扱うレースを思い出しながら、私は用意されたドレスが流行に則っていることに気づいた。

 商家に迎えに来たときからずっと、近衛騎士隊長は私を丁重に扱うつもりでいることを端々で示していた。おそらく女官たちも詳しい事情は聞かされていないものの、賓客として遇するよう言いつけられていることはわかる。

「これから御目にかかる方のことを知らされていないものだから、判断に迷うわ。もちろん、あなたたちの見立てだから間違いはないのでしょうけれど」

 女官たちは笑みを浮かべて、今日は何も予定は入っていないと教えてくれる。
 私はなるほどと思いながら、故国でよく着せ付けられていたような淡い色のドレスを選んだ。

「お嬢様は腰が細くていらっしゃいますね」
「ねえ。首もすんなりと長くていらっしゃいますから、装飾品が映えますわ」
「お嬢様は鎖骨がお綺麗ですから、肩を出すドレスもお似合いになりますよ」

 久し振りにコルセットをつけると、どうしてこんな窮屈なものを身につけていたのかしらと思ってしまう。さらさらと音を立てながら引き上げられたドレスは少しゆったりとしていたから、後ろの編み込みをきつめに締められる。絹の靴下を履かされた爪先に宛がわれたのは、花の刺繍を施された靴だった。

 さあと手を取られて立ち上がった私は、促されるままにくるりと回って、大きな鏡台の前に立つ。
 よく磨かれた鏡の内側には、誇らしげに微笑む女官たちを背にした娘が一人佇んでいる。

 瞬くと、鏡の向こうの娘も同じように睫毛を揺らしてこちらを見返してくる。
 鏡の中にぼんやりとした表情をした娘を見つけて、私は懐かしい人に再会したような気持ちになった。

(ごきげんよう、ヒルデガルト。久しぶりの再会ね)

 静かにこちらを見つめ返すヒルデガルトは、淡く輝く金髪を背に流している。軽く巻いて編み込みを施された髪には花冠を模した髪飾りが輝き、首には瞳と同じ色の輝石が飾られている。
 淡く色を挿された顔は寄る辺なく、髪と同じように色を抜かれた眉はなだらかに線を描いて優しい。光に透ける睫毛は長く、瞬けばその下に覗く緑の瞳を扇のように隠そうとする。
 秘密を飲み込んで久しい唇に乗せられた色は肌を白く見せる色が選ばれて、今も心をひた隠しにするように結ばれていた。

 鏡を見ていれば、自分がどんな顔かたちをしているのかはわかる。
 でも、ドレスを着せ付けられて丁寧に化粧を施されないとわからないことも、わずかに残っていた。

 たぶんきっと。ヒルデガルトは綺麗な娘で、綺麗に生み落とされたことの幸いを知っているのだろう。
 鏡越しにヒルデガルトと視線を重ね合わせると、彼女が――自分がお母様に似ていることがよくわかった。
 
 私は意識して、肌の上に微笑みを形作る。
 ありがとうと囁くと、鏡の向こうでそわそわとを見守っていた女官たちが華やいだ声を上げて手を合わせた。

「お三時にいたしましょう、おいしいケーキがございますよ」
「お嬢様はどんなお茶がお好きですか? ちょうど春の茶葉が届いたばかりです」
「すぐに茶葉を持ってこさせましょう。一番お好きな香りのものをお淹れします」

 歌うように言葉を転がす女官に手を引かれて、私は頷いた。だって、それしか求められていないから。

 ああ、本当に。喉をせり上がってくるさみしさを飲み込んで、私はただ微笑んだ。

 ――ヒルデガルト、あなたには二度と会いたくなかったわ。

 胸の奥底で、また一つ錘が落とされる微かな気配がしたけれど、もちろん私のほかには誰も知ることはなかった。
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