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さようならの後のキス

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「えっ! じゃあ、今日で終わりなの?」
「うん。……エミリー、ごめんね。なんだか色々助けてもらったりしたのに。でも、ありがとう」
「ううん。そんなのいいの!」

 食後のお茶を勢いよくあおり、エミリーは白い歯を見せて笑った。けれども、アリアナは平民出の騎士と大商人の娘、エミリーがその後も続いていることを知っていた。幸せそうに破顔するエミリーの将来が幸せであれと願う以外ない。

「……アリアナは、どうするの?」
「……デビューの時期は過ぎちゃったけど、社交界で婿探し」
「え! もう!?」
「まあ、妥当よね」

 ルドルフと別れろと言われた後、考えを改めたアリアナは、社交界に『出席する』と両親に伝えた。両親は渋っていたが、務めを果たしたいというアリアナの気迫に両親はやっと首を縦に振った。


『私達の勝手でアリアナの気持ちを蔑ろにしているんだ。無理はしないでいい。私たちの縁故がある所だけにしよう』

 そう言ってくれた両親に、アリアナは涙を見られないように頭を下げた。

「そっかぁ。寂しいなぁ」
「しばらくは王都の屋敷にいるから。いつでも遊びに来て」
「うん! 手紙も書くよ」

 底抜けに明るいエミリーに、アリアナは沢山救われた。アリアナは、もう一度気持ちを込めてお礼を告げた。



□□

 月が天辺に昇ったら、会いに行くよ。

 細い細い、糸のような約束。それでも、月が明るい日にアリアナは約束の場所に向かっていた。
 秘密の宝物に囲まれながら、口づけを交わし、子供のように笑いあった。
 ルドルフはアリアナを望み、アリアナもまた、ルドルフを望んでいた。
 そう思っていたのは、アリアナだけか。
 アリアナは『アリアナ』として生きていかねばならない。理解しているようで、全く理解していなかった。
 けれども今はもう違った。
 『湯元麻衣』としての恋を終わらせ、『アリアナ』として生きていく。
 きつく結われた髪を解き、薄茶の髪を月明かりの下に晒す。さらさらと夜風が髪をさらう。この風に乗って、恋ごころをどうか遠くへ運んでほしい。と、叶いもしない願いをしながら。


「アリアナ!」

 小さな墓石の前に佇むアリアナの背中に声がかけられた。小さなランプを持ったルドルフが息を切らしながらこちらに駆け寄ってくる。
 訓練所で会った以来だった。
 視察に出ていた夜でもわかるほどにルドルフは日に焼けていた。恐らくあちこちに回っていたのだろう。その姿が容易に想像出来て、アリアナの口元は自然と緩んだ。

「ルドルフ様」
「……いつもの所にいない、から。こんな時間に一人で来ては危ない。次からはきちんと待っているように」

 こつん、と額を叩かれる。アリアナは返事をせず、小さく笑った。次など無い。知っているのはアリアナだけだ。
 息を整えたルドルフが額の汗を拭う。たった一週間前程顔を合わせなかっただけで、全く違う人物に見えた。

「日に焼けましたね」
「ああ。向こうは日差しが強くてな。あまりの暑さに騎士達と水浴びなどしていたら、焼けてしまった」
「ふふっ。なんだか精悍な表情になりましたね」
「……なんだか今日は、アリアナもいつもと違うように見えるな」

 解いた髪を掬われ、毛先にキスを落とされる。ルドルフは、アリアナの髪に触れるのが好きなようだ。時々乱され、こうしてキスをされることも珍しくなかった。

「遅くなってしまった。ほら、行こう」

 いつもように、手を取られ、いつものように、秘密の場所に向かう。けれども、アリアナはその手を払った。

「……アリアナ?」
「ルドルフ様は……神の森の本当の意味を知っていますか?」

 夜の空気に、ルドルフが息を呑んだ音が小さく響いた。沈黙が二人を包む。聞くまでもない。それが答えだった。

「アリアナ、俺はアリアナを利用しようなんて思ってもいない」
「ルドルフ様」

 手を伸ばしてきたルドルフにアリアナは抱きついた。夜の風がアリアナの髪をさらい、お互いの表彰を隠した。

「ありがとうございました。私は……『湯元麻衣』として、あなたが好きでした」
「アリ、アナ」
「私はアリアナ・グラティッドとして生きていきます。コレット様とお幸せに」

 別れの意味を込めて、ルドルフの頬に唇を落とす。背中に回していた腕を解き、

「さようなら」

 さようなら。ルドルフ様。
 さようなら。湯元麻衣。
 さようなら。私の恋心。

 風が吹いていたため、アリアナの髪が乱れる。涙も悲愴感漂う表情も全て、薄茶に覆われた。まるで、風がアリアナを護ってくれているようだ。

「……それでいいの?」
「はい。予定より少し早くなりましたが、婿探しを始めます」

 泣くな。泣くな。口元に力を込めて、自身に言い聞かせる。風が強く吹き、二人の会話を時折遮る。

「そう。じゃあ、諦めるよ。君のことは・・・・・

 ルドルフが淡々とそう告げる。安堵したと同時に、深い絶望がアリアナを襲った。引き止めてくれるのではと心のどこかでそう思っていた。

「……っ」

 すんなりと諦めるということは、やはり『神の森』の使用権が欲しかったということだ。アリアナは唇噛み締め悲しさと悔しさに耐えた。夜風は変わらずアリアナの髪を巻き上げ、ルドルフからアリアナを守っていた。

「……そう、なら、いいんです」

 声が震える。
 泣くな、泣くなと自分に言い聞かせる。その時、悪戯に夜風がルドルフとアリアナの間を鋭く通り抜ける。お仕着せのスカートを捲り、過ぎ去っていく。
 瞬間、風が止み、二人は月光の下に晒される。日に焼けた大きな手がアリアナの頬に触れた。
 瞳からこぼれ落ちた雫を、ルドルフの長い指が掬う。以前のように唇ではないことに、アリアナはルドルフとの距離を感じた。

(見られてしまった)

 泣き顔をみられることなく別れるつもりだった。けれども、夜風と月がそれを許してくれなかった。
 瞳の色が変わる、というのであれば今の自分は何色なのだろうか。アリアナは、次から次へ雫を落としながら、ルドルフの指から伝わる小さな熱を感じながら、そう思った。

「……瞳は赤を映しているよ。怒っているのかな……? それとも、」

 悲しい?

 ルドルフの問いに、アリアナは答えることが出来なかった。悲しみを隠していた風は止んでいた。
 唇を噛み締め、耐える。
 本当は離れたくない。わかったフリをしていても、アリアナの心がついて行かなかった。

「悲しいと赤を映すんだね……感情が高ぶるのかな」

 ルドルフがまじまじとアリアナの顔をのぞき込む。ルドルフがアリアナの瞳に興味を持っていたことを思い出した。ここのところそういった変態行為はなりを潜めていただけに、失念していた。

「……やめてください」
「『ユモトマイ』との恋は諦めるよ。けれども、」

 アリアナはもう一つ失念していた。
 瞳を覗き込まれる。それは、顔が近くにあるということ。あ、と思った時には唇が重ねられていた。

「っ、んぅ!」

 予想だにしないキスに、アリアナは思わず口を開いてしまった。すると、それを見越してか、ルドルフの舌がずるりと侵入する。後頭部と腰を抱きとめられ、密着してしまった。逃げようとするアリアナを、ルドルフ逃がさない、と全身で絡め取られる。
 舌が絡み、二人の熱い吐息が漏れる。気温の下がった夜の空気に触れた吐息は、白みを帯び、二人を囲んだ。
 離れなければいけない。頭ではそう思っても、アリアナの身体は言うことを聞かなかった。

「……っ、ん、るど」

 ルドルフの唇が離れた瞬間に、名前を呼ぼうとするが、すぐさま唇を絡め取られる。ルドルフの強い力で固定された腕は何の役にもたたなかった。

「俺のキスを忘れるな。……必ず、アリアナ・・・・を手に入れてみせる」

 アリアナの足の力が抜けたのを見計らい、ルドルフはアリアナの瞳を真っ直ぐに見据え、そう言った。

「……無理です。私は」

 アリアナの否定にルドルフの瞳がすっと細められた。力の抜けたアリアナを墓石前に座らせ、背を見せた。

「従者が迎えに来ているようだな」
「……え?」
「……忘れるな。必ず、手に入れる」

 ルドルフが去ってから数分後。遠くからマートンの声が聞こえた。

「お嬢様。申し訳ありません……バジリオ様が……」
「ううん……いいの」

 アリアナを信じきれなかったのか、バジリオはマートンを見張りに付けていたらしい。しかし、アリアナは別のことで頭がいっぱいだった。

(忘れるなってなに? どうしてキスなんかしたの?)

 頭の中をぐるぐる巡る思いに、答えは出なかった。
 月明かりに導かれたルドルフへの想いはこの日を持って断ち切らねばならない。

「お嬢様」

 マートンの声で我に帰ったアリアナは、まっすぐ前を向く。

「今、行きます」


 この日を持って、アリアナは王城を予定よりも早く辞した。
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