25 / 61
Ⅰ.トーキョー・ファントムシーフ
(23)護ルベキモノ
しおりを挟む
……正直、信じられなかった。
こんな、吹けば飛びそうな婆さんが、格闘術の先生、だと……?
いやいやいや、いくらなんでもそれはないだろう。
どう見ても八十は過ぎている。薄い白髪を小さな団子結びにし、シミとシワだらけの顔は、昔話に出てきそうなおばあさんだ。
それが、小さな体をモンペで包んで、杖にもたれて立っている姿は、庭先で大根を干しているのが似合いそうな雰囲気……。
しかし、そんな婆さんに、ヒカルコは緊張した面持ちで頭を下げた。
「ご無沙汰しています、先生」
「元気そうで何よりじゃ、そこの四人も」
すると、コワモテ系女子の四人が一斉に畏まった。
「はっ、先生!」
……なんか、ヤバそうな気がする。
目立たないよう、トウヤがソロリと後ろに退がると、すかさず先生の声が飛ぶ。
「話は聞いている。探偵だそうじゃな」
「は、はい! エンドー・トウヤと申します」
「エンドー、じゃと?」
先生の反応に、トウヤは首を傾げる。
「はい、それが何か?」
「同じ名の知り合いが昔おった。まぁ、たまたまじゃろうて――さて、早速じゃが、腕が鈍っておらんか確認するぞい。組手をやる。かかって来い」
……そこでトウヤは、先生とツワモノ五人による組手を見学する事になったのだが……
まず、先鋒のヨキが空手の型で飛びかかる。
さすがにマズいんじゃ……と思えるほどの気迫のこもった一撃を、だが先生は軽く避けた。
「軸がぶれておる! 次!」
次鋒のコトは、ムエタイだろうか、特徴的な構えからの回し蹴りを飛ばすが、杖で軽くいなされてしまった。
「気迫が足らん! 殺すつもりでかかれ! 次!」
中堅のキクは、ブラジリアン柔術のような何か。
誘うような体の動きから突如飛びかかるも、掴む事すらできずにねじ伏せられる。
「実戦なら首を折られたわ! 次!」
副将のタマヨ。
圧倒的体格差からの一本背負い狙いの構えは、だが驚くべき柔軟性で体位を入れ替えられ、巴投げに持っていかれた。
……あの巨体が婆さんに投げ飛ばされたのだ。信じられないのもを見たトウヤは硬直した。
「手加減は身を滅ぼすぞ! 次!」
そして、主将のヒカルコ。
徒手武術の構えから、一気に踵落としを繰り出す。
だが必殺の一撃は、シワだらけの片手で簡単に止められた。
「鍛錬を続けていたのは分かった。じゃが、まだまだじゃの」
――そして。
「まとめてかかって来い!」
の檄と同時に始まる乱取り。
ヨキの蹴りが飛び、コトの拳が舞い、キクが体当たりを試み、タマヨが掴みかかる。
同時の攻撃を一歩も動く事なく処理してから、ヒカルコの飛び蹴りもまた軽く転がす……化け物だ、この婆さんは。トウヤは目を剥いた。
そんな彼女たちの攻撃を見ながら、トウヤは腑に落ちた――ヒカルコの超攻撃的な戦闘スタイルに、である。
攻守併せ持つ盾四枚を展開しながらの主砲の一撃――これが、彼女たちの戦闘スタイルなのだ。
だがやはり、先生には指一本触れる事叶わずに、乱取りは終わった。
息を切らしてへたり込む五人を見下ろしながら、先生は言った。
「英国でも鍛錬を怠っていなかったのは分かった。そこは褒めてやろう」
「あ、ありがとうございます……」
――すると、先生がトウヤに顔を向けたから、彼はギクッとした。
「おまえの力量も見せてもらおう」
小さな老女の前に立つ。
見下ろす位置からの濁った瞳に覇気はない。
……だが、今のアレを見てしまっては、迂闊に手は出せない。
相手の動きを読むように身構えていると、先生はフムフムと呟いた。
「常に避ける事を意識しておるようじゃな……それと、右の肩を痛めておる」
ここまでくると、唖然とするしかない。
トウヤはあんぐりと口を開けた。
「な、何で……」
「そんな事も分からぬようでは、お嬢を守れはせぬぞ」
……ゾクッとした。
心の奥底まで見透かされている気がした。
先生は続ける。
「人を殺す覚悟はあるのか?」
トウヤは答えられない。
怪盗として、事の次第でやむを得ず死者を出す事はある。しかし、すぐに蘇生魔法を使える場面に限っている。
直接、この手で人を殺める場面は、考えた事がない。
濁った目は静かにトウヤを射竦める。
「手を汚す覚悟をなしに、どうやって大切なものを守れようか」
◇
格闘術の教練が終わってから、軽い昼食だ。
ベランダに置かれた英国式のアフタヌーンティーの並んだテーブルを挟んで、トウヤはヒカルコと向き合う。
だがヒカルコは落ち着かない様子で、ミルクティーに浸したビスケットを指で弄んでいる。
そして、意を決したように声を出した。
「お、お疲れになって?」
「あ……いや……」
守られるべき側から気を使われているとは。
トウヤは自分に呆れるばかりで顔を伏せる。
「力量が違いすぎて、なんかこう、自信をなくしたと言うか……」
「お気になさらないで。先生は特別だから」
ようやくヒカルコはビスケットを口に入れる。
「母が亡くなってから、母代わりにお世話になった方よ。昔から全然変わらないの。あれで百歳を超えてるのよ」
「ひゃ、百歳!?」
思わず声が裏返る。
「やっぱり化け物じゃねえか」
「妖怪、かもしれないわね」
ヒカルコはフフフと笑う。
「どうやったら先生に一発当てられるか、って事だけ考えてると、何もかも忘れられていいのよ」
「そ、そういうモンなのか……」
ようやく気分が解れた様子で、ヒカルコはミルクティーに口を付けた。
「朝から慌ただしいと思ったでしょ? 何かしていないと落ち着かなくて」
「午後からは何を?」
「それがね、まだ日本に戻ったばかりで決まっていないの」
「そうだな……」
と、トウヤは腕を組む。
「ロンドンは見慣れていても、トーキョーを見るのは久しぶりだろ。街歩き、なんてのはどうだ?」
すると、ヒカルコはポカンとした。
「街歩き……とは、何をするものなの?」
この公爵様のご令嬢、庶民の感覚が全く理解できていないとみえる。長年、外部との交流のない生活を送ってきたから無理はない。
とはいえ、いくら崇高な志を掲げていても、庶民の感覚を知らなければ絵に描いた餅、机上の空論だ。
ここは、俺が教えてやる必要があるだろう。
トウヤは説明する。
「街をブラブラ歩きながら、買い物をしたり、パーラーでソーダ水を飲んだり、活動写真を観たり……」
「ソーダ水……活動写真……」
「ダンスホールも面白いかもな」
ヒカルコは目を丸くする。
「それらは、魔人が入って大丈夫なところなの?」
「もちろん」
「私でも入っていいの?」
「低下層のマヒトの溜まり場、ってところさ……ミソギがコッソリ遊びに来てる事もよくあるけどな。行ってみたいなら、付き合うぜ」
「でも……」
と、ヒカルコは声をひそめる。
「タマヨたちも一緒だと目立たないかしら?」
「二人で行けばいいじゃないか」
「ふ、二人、ですって……!」
ヒカルコが急に大声を出すから、トウヤはシッと口に人差し指を当てる。
「コッソリ抜け出すんだよ」
「どうやって?」
「変装すればいいさ」
トウヤはニッと笑う。
「三十分後に、二階の隅のあの部屋に行く。それまで待っててくれ」
こんな、吹けば飛びそうな婆さんが、格闘術の先生、だと……?
いやいやいや、いくらなんでもそれはないだろう。
どう見ても八十は過ぎている。薄い白髪を小さな団子結びにし、シミとシワだらけの顔は、昔話に出てきそうなおばあさんだ。
それが、小さな体をモンペで包んで、杖にもたれて立っている姿は、庭先で大根を干しているのが似合いそうな雰囲気……。
しかし、そんな婆さんに、ヒカルコは緊張した面持ちで頭を下げた。
「ご無沙汰しています、先生」
「元気そうで何よりじゃ、そこの四人も」
すると、コワモテ系女子の四人が一斉に畏まった。
「はっ、先生!」
……なんか、ヤバそうな気がする。
目立たないよう、トウヤがソロリと後ろに退がると、すかさず先生の声が飛ぶ。
「話は聞いている。探偵だそうじゃな」
「は、はい! エンドー・トウヤと申します」
「エンドー、じゃと?」
先生の反応に、トウヤは首を傾げる。
「はい、それが何か?」
「同じ名の知り合いが昔おった。まぁ、たまたまじゃろうて――さて、早速じゃが、腕が鈍っておらんか確認するぞい。組手をやる。かかって来い」
……そこでトウヤは、先生とツワモノ五人による組手を見学する事になったのだが……
まず、先鋒のヨキが空手の型で飛びかかる。
さすがにマズいんじゃ……と思えるほどの気迫のこもった一撃を、だが先生は軽く避けた。
「軸がぶれておる! 次!」
次鋒のコトは、ムエタイだろうか、特徴的な構えからの回し蹴りを飛ばすが、杖で軽くいなされてしまった。
「気迫が足らん! 殺すつもりでかかれ! 次!」
中堅のキクは、ブラジリアン柔術のような何か。
誘うような体の動きから突如飛びかかるも、掴む事すらできずにねじ伏せられる。
「実戦なら首を折られたわ! 次!」
副将のタマヨ。
圧倒的体格差からの一本背負い狙いの構えは、だが驚くべき柔軟性で体位を入れ替えられ、巴投げに持っていかれた。
……あの巨体が婆さんに投げ飛ばされたのだ。信じられないのもを見たトウヤは硬直した。
「手加減は身を滅ぼすぞ! 次!」
そして、主将のヒカルコ。
徒手武術の構えから、一気に踵落としを繰り出す。
だが必殺の一撃は、シワだらけの片手で簡単に止められた。
「鍛錬を続けていたのは分かった。じゃが、まだまだじゃの」
――そして。
「まとめてかかって来い!」
の檄と同時に始まる乱取り。
ヨキの蹴りが飛び、コトの拳が舞い、キクが体当たりを試み、タマヨが掴みかかる。
同時の攻撃を一歩も動く事なく処理してから、ヒカルコの飛び蹴りもまた軽く転がす……化け物だ、この婆さんは。トウヤは目を剥いた。
そんな彼女たちの攻撃を見ながら、トウヤは腑に落ちた――ヒカルコの超攻撃的な戦闘スタイルに、である。
攻守併せ持つ盾四枚を展開しながらの主砲の一撃――これが、彼女たちの戦闘スタイルなのだ。
だがやはり、先生には指一本触れる事叶わずに、乱取りは終わった。
息を切らしてへたり込む五人を見下ろしながら、先生は言った。
「英国でも鍛錬を怠っていなかったのは分かった。そこは褒めてやろう」
「あ、ありがとうございます……」
――すると、先生がトウヤに顔を向けたから、彼はギクッとした。
「おまえの力量も見せてもらおう」
小さな老女の前に立つ。
見下ろす位置からの濁った瞳に覇気はない。
……だが、今のアレを見てしまっては、迂闊に手は出せない。
相手の動きを読むように身構えていると、先生はフムフムと呟いた。
「常に避ける事を意識しておるようじゃな……それと、右の肩を痛めておる」
ここまでくると、唖然とするしかない。
トウヤはあんぐりと口を開けた。
「な、何で……」
「そんな事も分からぬようでは、お嬢を守れはせぬぞ」
……ゾクッとした。
心の奥底まで見透かされている気がした。
先生は続ける。
「人を殺す覚悟はあるのか?」
トウヤは答えられない。
怪盗として、事の次第でやむを得ず死者を出す事はある。しかし、すぐに蘇生魔法を使える場面に限っている。
直接、この手で人を殺める場面は、考えた事がない。
濁った目は静かにトウヤを射竦める。
「手を汚す覚悟をなしに、どうやって大切なものを守れようか」
◇
格闘術の教練が終わってから、軽い昼食だ。
ベランダに置かれた英国式のアフタヌーンティーの並んだテーブルを挟んで、トウヤはヒカルコと向き合う。
だがヒカルコは落ち着かない様子で、ミルクティーに浸したビスケットを指で弄んでいる。
そして、意を決したように声を出した。
「お、お疲れになって?」
「あ……いや……」
守られるべき側から気を使われているとは。
トウヤは自分に呆れるばかりで顔を伏せる。
「力量が違いすぎて、なんかこう、自信をなくしたと言うか……」
「お気になさらないで。先生は特別だから」
ようやくヒカルコはビスケットを口に入れる。
「母が亡くなってから、母代わりにお世話になった方よ。昔から全然変わらないの。あれで百歳を超えてるのよ」
「ひゃ、百歳!?」
思わず声が裏返る。
「やっぱり化け物じゃねえか」
「妖怪、かもしれないわね」
ヒカルコはフフフと笑う。
「どうやったら先生に一発当てられるか、って事だけ考えてると、何もかも忘れられていいのよ」
「そ、そういうモンなのか……」
ようやく気分が解れた様子で、ヒカルコはミルクティーに口を付けた。
「朝から慌ただしいと思ったでしょ? 何かしていないと落ち着かなくて」
「午後からは何を?」
「それがね、まだ日本に戻ったばかりで決まっていないの」
「そうだな……」
と、トウヤは腕を組む。
「ロンドンは見慣れていても、トーキョーを見るのは久しぶりだろ。街歩き、なんてのはどうだ?」
すると、ヒカルコはポカンとした。
「街歩き……とは、何をするものなの?」
この公爵様のご令嬢、庶民の感覚が全く理解できていないとみえる。長年、外部との交流のない生活を送ってきたから無理はない。
とはいえ、いくら崇高な志を掲げていても、庶民の感覚を知らなければ絵に描いた餅、机上の空論だ。
ここは、俺が教えてやる必要があるだろう。
トウヤは説明する。
「街をブラブラ歩きながら、買い物をしたり、パーラーでソーダ水を飲んだり、活動写真を観たり……」
「ソーダ水……活動写真……」
「ダンスホールも面白いかもな」
ヒカルコは目を丸くする。
「それらは、魔人が入って大丈夫なところなの?」
「もちろん」
「私でも入っていいの?」
「低下層のマヒトの溜まり場、ってところさ……ミソギがコッソリ遊びに来てる事もよくあるけどな。行ってみたいなら、付き合うぜ」
「でも……」
と、ヒカルコは声をひそめる。
「タマヨたちも一緒だと目立たないかしら?」
「二人で行けばいいじゃないか」
「ふ、二人、ですって……!」
ヒカルコが急に大声を出すから、トウヤはシッと口に人差し指を当てる。
「コッソリ抜け出すんだよ」
「どうやって?」
「変装すればいいさ」
トウヤはニッと笑う。
「三十分後に、二階の隅のあの部屋に行く。それまで待っててくれ」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
0
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる