元禄大正怪盗伝

山岸マロニィ

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Ⅰ.トーキョー・ファントムシーフ

(23)護ルベキモノ

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 ……正直、信じられなかった。
 こんな、吹けば飛びそうな婆さんが、格闘術の先生、だと……?
 いやいやいや、いくらなんでもそれはないだろう。

 どう見ても八十は過ぎている。薄い白髪を小さな団子結びにし、シミとシワだらけの顔は、昔話に出てきそうなおばあさんだ。
 それが、小さな体をモンペで包んで、杖にもたれて立っている姿は、庭先で大根を干しているのが似合いそうな雰囲気……。

 しかし、そんな婆さんに、ヒカルコは緊張した面持ちで頭を下げた。
「ご無沙汰しています、先生」
「元気そうで何よりじゃ、そこの四人も」

 すると、コワモテ系女子の四人が一斉に畏まった。
「はっ、先生!」

 ……なんか、ヤバそうな気がする。
 目立たないよう、トウヤがソロリと後ろに退がると、すかさず先生の声が飛ぶ。
「話は聞いている。探偵だそうじゃな」
「は、はい! エンドー・トウヤと申します」

「エンドー、じゃと?」

 先生の反応に、トウヤは首を傾げる。
「はい、それが何か?」
「同じ名の知り合いが昔おった。まぁ、たまたまじゃろうて――さて、早速じゃが、腕が鈍っておらんか確認するぞい。組手をやる。かかって来い」

 ……そこでトウヤは、先生とツワモノ五人による組手を見学する事になったのだが……

 まず、先鋒のヨキが空手の型で飛びかかる。
 さすがにマズいんじゃ……と思えるほどの気迫のこもった一撃を、だが先生は軽く避けた。
「軸がぶれておる! 次!」

 次鋒のコトは、ムエタイだろうか、特徴的な構えからの回し蹴りを飛ばすが、杖で軽くいなされてしまった。
「気迫が足らん! 殺すつもりでかかれ! 次!」

 中堅のキクは、ブラジリアン柔術のような何か。
 誘うような体の動きから突如飛びかかるも、掴む事すらできずにねじ伏せられる。
「実戦なら首を折られたわ! 次!」

 副将のタマヨ。
 圧倒的体格差からの一本背負い狙いの構えは、だが驚くべき柔軟性で体位を入れ替えられ、巴投げに持っていかれた。
 ……あの巨体が婆さんに投げ飛ばされたのだ。信じられないのもを見たトウヤは硬直した。
「手加減は身を滅ぼすぞ! 次!」

 そして、主将のヒカルコ。
 徒手武術の構えから、一気に踵落としを繰り出す。
 だが必殺の一撃は、シワだらけの片手で簡単に止められた。
「鍛錬を続けていたのは分かった。じゃが、まだまだじゃの」

 ――そして。
「まとめてかかって来い!」
 のげきと同時に始まる乱取り。

 ヨキの蹴りが飛び、コトの拳が舞い、キクが体当たりを試み、タマヨが掴みかかる。
 同時の攻撃を一歩も動く事なく処理してから、ヒカルコの飛び蹴りもまた軽く転がす……化け物だ、この婆さんは。トウヤは目を剥いた。

 そんな彼女たちの攻撃を見ながら、トウヤは腑に落ちた――ヒカルコの超攻撃的な戦闘スタイルに、である。
 攻守併せ持つ盾四枚を展開しながらの主砲の一撃――これが、彼女の戦闘スタイルなのだ。

 だがやはり、先生には指一本触れる事叶わずに、乱取りは終わった。

 息を切らしてへたり込む五人を見下ろしながら、先生は言った。
「英国でも鍛錬を怠っていなかったのは分かった。そこは褒めてやろう」
「あ、ありがとうございます……」

 ――すると、先生がトウヤに顔を向けたから、彼はギクッとした。
「おまえの力量も見せてもらおう」

 小さな老女の前に立つ。
 見下ろす位置からの濁った瞳に覇気はない。
 ……だが、今のアレを見てしまっては、迂闊に手は出せない。

 相手の動きを読むように身構えていると、先生はフムフムと呟いた。
「常に避ける事を意識しておるようじゃな……それと、右の肩を痛めておる」

 ここまでくると、唖然とするしかない。
 トウヤはあんぐりと口を開けた。
「な、何で……」
「そんな事も分からぬようでは、お嬢を守れはせぬぞ」

 ……ゾクッとした。
 心の奥底まで見透かされている気がした。

 先生は続ける。
「人を殺す覚悟はあるのか?」

 トウヤは答えられない。
 怪盗として、事の次第でやむを得ず死者を出す事はある。しかし、すぐに蘇生魔法を使える場面に限っている。

 直接、この手で人をあやめる場面は、考えた事がない。

 濁った目は静かにトウヤを射竦める。
「手を汚す覚悟をなしに、どうやって大切なものを守れようか」




 ◇

 格闘術の教練が終わってから、軽い昼食だ。
 ベランダに置かれた英国式のアフタヌーンティーの並んだテーブルを挟んで、トウヤはヒカルコと向き合う。

 だがヒカルコは落ち着かない様子で、ミルクティーに浸したビスケットを指で弄んでいる。
 そして、意を決したように声を出した。

「お、お疲れになって?」
「あ……いや……」

 守られるべき側から気を使われているとは。
 トウヤは自分に呆れるばかりで顔を伏せる。
「力量が違いすぎて、なんかこう、自信をなくしたと言うか……」
「お気になさらないで。先生は特別だから」

 ようやくヒカルコはビスケットを口に入れる。
「母が亡くなってから、母代わりにお世話になった方よ。昔から全然変わらないの。あれで百歳を超えてるのよ」
「ひゃ、百歳!?」
 思わず声が裏返る。
「やっぱり化け物じゃねえか」
「妖怪、かもしれないわね」
 ヒカルコはフフフと笑う。
「どうやったら先生に一発当てられるか、って事だけ考えてると、何もかも忘れられていいのよ」
「そ、そういうモンなのか……」

 ようやく気分が解れた様子で、ヒカルコはミルクティーに口を付けた。
「朝から慌ただしいと思ったでしょ? 何かしていないと落ち着かなくて」
「午後からは何を?」 
「それがね、まだ日本に戻ったばかりで決まっていないの」
「そうだな……」
 と、トウヤは腕を組む。

「ロンドンは見慣れていても、トーキョーを見るのは久しぶりだろ。街歩き、なんてのはどうだ?」

 すると、ヒカルコはポカンとした。
「街歩き……とは、何をするものなの?」

 この公爵様のご令嬢、庶民の感覚が全く理解できていないとみえる。長年、外部との交流のない生活を送ってきたから無理はない。
 とはいえ、いくら崇高な志を掲げていても、庶民の感覚を知らなければ絵に描いた餅、机上の空論だ。
 ここは、俺が教えてやる必要があるだろう。

 トウヤは説明する。
「街をブラブラ歩きながら、買い物をしたり、パーラーでソーダ水を飲んだり、活動写真を観たり……」
「ソーダ水……活動写真……」
「ダンスホールも面白いかもな」

 ヒカルコは目を丸くする。
「それらは、魔人マヒトが入って大丈夫なところなの?」
「もちろん」
「私でも入っていいの?」
「低下層のマヒトの溜まり場、ってところさ……ミソギがコッソリ遊びに来てる事もよくあるけどな。行ってみたいなら、付き合うぜ」
「でも……」
 と、ヒカルコは声をひそめる。
「タマヨたちも一緒だと目立たないかしら?」

「二人で行けばいいじゃないか」

「ふ、二人、ですって……!」
 ヒカルコが急に大声を出すから、トウヤはシッと口に人差し指を当てる。
「コッソリ抜け出すんだよ」
「どうやって?」
「変装すればいいさ」

 トウヤはニッと笑う。
「三十分後に、二階の隅のあの部屋に行く。それまで待っててくれ」
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