元禄大正怪盗伝

山岸マロニィ

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Ⅰ.トーキョー・ファントムシーフ

(22)ノノミヤ家ノ朝

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 ――翌朝。
 使用人の一日は朝食から始まる。

 主一家が起床する前。
 使用人用の食堂で全員がテーブルを囲み、ミーティングがてらに会食をするのだ。

「今日の公爵の予定は、午前十時に内務省の定例会議に……」
 パンをかじりながら、まずワカバヤシ主任執事が口を開く。
「では次。エンドー君、君の予定は?」
「え……あ、俺、ですか?」
「使用人の序列順に発表する事になっている」
 トウヤは天井を見上げて、考えてから答えた。
「特に、ありません……」
「では、侍女頭のタマヨ君」
「ヒカルコお嬢様はいつも通り、朝食後はジョギング、十時からは体幹トレーニングをされ、十一時にお越しになる格闘術の先生をお待ちに……」

 ……マジか。めちゃくちゃストイックだな。
 トウヤは内心青くなった。

 その後、料理長から今日のメニューの発表があったり、掃除係から立ち入り禁止区画の説明があったりして、全員が発表し終わる頃には皿が空になっていた。

「では、今日も一日よろしく頼む――解散」


 ……と言われても、トウヤはやる事がない。
 時刻は八時。ちょうどヒカルコの起床時間だ……さすがに、淑女の寝起きを見に行かない程度のマナーは心得ている。

 この屋敷にいるのなら、ヒカルコの歓心を買っておく必要がある。
 昨夜、リュウに突っ込まれた時には、正直、自分の気持ちが分からなくなった。だが一晩よく寝て、彼が為すべきはひとつしかないと理解した。

 ……信用させておいて、裏切る。

 トウヤが怪盗ジュークである以上、それは避けられない宿命なのだ。
 怪盗が彼女に捕まったのでは話にならない。その結末は、出会った時から決まっている。

 彼女の心を――それが、今のトウヤのやるべき事だ。

「多分、九時頃からジョギングだよな。それには付き合うとして……」
 さすがに、マンセイ橋の隠れ家へ、怪盗道具を取りに行くだけの時間はない。
 さて、どうしたものか……。

 皆が忙しそうに動き回っている中、ぼんやりと突っ立っているのもはばかられて、トウヤは庭を散策する事にした……誰にも気付かれずに、自室から屋敷の外へ出入りするルートを探る目的もある。

 使用人の居住区画は、屋敷の裏口に近い部分。裏門までは近い。とはいえ、そこを通れば使用人部屋から一目瞭然。
 なら、恐らく天井裏から繋がっていると思われる通気孔。ここなら、庭木の影を伝えば屋敷から死角になる。問題は、屋敷をぐるりと囲む鉄柵……。

 と目を向けると、柵の向こうからじっとこちらを睨んでいる視線と目が合って、トウヤはギクリとした。
「……あ、おまえ……」
「礼を言いに来たぞ――怪盗ジューク!」

 ――テラダ衛兵長だ。

 大声を出されても困るため、トウヤは慌てて彼に駆け寄る。
「その名は言わない約束だぜ?」
 この男にだけは誤魔化しが効かない。トウヤは柵に顔を寄せる。
「釈放されたのか?」
「今朝な……仕事はクビになったがな!」
「そう言うなよ。元々辞めるつもりだったんだろ?」
「元はと言えば貴様のせいだ! せめて貴様の首があれば、仕官の口もあったのだがな」

 テラダはそう言うと、柵の隙間に手を突っ込んでトウヤの襟首を掴む。
「俺はこれから、同じくクビになった部下を集めて私立傭兵団を作る」
「…………」
「そして必ず、貴様をブッ殺してやる!」

 血走った目に睨まれて、トウヤは引きつった笑みを浮かべた。
「なら、今殺せばいいだろ」
「これでも恩には恩を返す主義でな。これまでの事は忘れてやる」
「それはありがたい……」
「馬鹿を言うな。貴様が怪盗ジュークであるという動かぬ証拠を揃えて、ノノミヤ公爵にチクってやるんだよ。貴様のプライドのズタズタにしてから、じっくりとなぶり殺しにしてやる」
「おー怖っ……」

 トウヤが首を竦めると、テラダは襟を離して突き飛ばした。
「首を洗って待ってろ……と、もうひとつ。俺がお嬢様に片思いしてる設定はやめろ。恥ずかしいだろ!」
「あ、本当に片想いしてるんだ……」
「うるさい! ――ヒカルコお嬢様に手出ししてみろ。ノノミヤ公爵が許しても、俺は絶対に許さない」

 ……路地の向こうに去った後ろ姿を見送り、トウヤは手の甲で額の冷や汗を拭った。
 あの男はこれから、事あるごとにトウヤの前に立ちはだかるに違いない。
「これは参ったね……」
 襟を直しながら、トウヤは溜息をついた。

 ◇

 予想通り、九時の鐘が鳴ると同時に、ヒカルコは玄関に現れた。
 髪を後ろでひとつにまとめ、額に白い鉢巻はちまきをしている。セーラー襟のシャツにチョウチンみたいな膝丈のブルマー、長靴下と紐靴という格好は、トウヤからしたら斬新すぎた。

「おはようございます、ヒカルコ様」
 トウヤが声を掛けると、ヒカルコは飛び上がらんばかりに慌てた。
「あああ挨拶をなさるなら、その前に一声お掛けになって!」
「では、改めて――これより、朝のご挨拶をさせていただきます。おはようございます、ヒカルコ様」

 すると、自分が言った事が滅茶苦茶だと気付いたのだろう、ヒカルコは顔を真っ赤にして目を逸らした。
「お、おはようございます……トウヤ」
「ジョギングのお供をさせていただきます」
「……か、勝手にすればいいわ」

 ――いつものジョギングコースは、帝立競技場を一周するものらしい……朝から走るには、なかなかの距離だ。

 そして護衛に、ヒカルコと同じ格好をした四人の侍女が伴走する。
「前にいるのがヨキ、左がコト、右がキク。で、殿しんがりが……」
「タマヨさんはよーく知ってる」

 清楚な名前をしているが、皆、タマヨに負けないほど鋭い目付きを周囲に投げる。タダモノではないオーラを放っているから、誰もが道を空けていく。

 トウヤと並んで走りながら、ヒカルコが紹介する。
「みんな英国留学に付き添った、信頼の置ける侍女よ。親衛隊を名乗っててね、面白い子たちなのよ。でも、それだけじゃないの」

 角を曲がる時は先導のヨキが先に行き周囲を確認する。左右のコトとキクは、すれ違う通行人全てに視線を送る。
 タマヨは言わずもがな。

「彼女たちはみんな、タマヨに負けないくらいのツワモノよ。だから……」
 と、ヒカルコは妖しげな目をトウヤに向けた。

「優しくしてあげてね」

「こ、こちらこそ……」
 トウヤは引きつった笑顔を返すしかない。


 ……ジョギングの途中、帝立競技場に隣接した広場で小休憩をする。
 完璧に整えられた芝生広場は、暗黙の了解として上流階級しか入れない場所。犬の散歩をする使用人の傍で、貴婦人が人力車を並べて談笑しているのが目に入る。

 平然とストレッチを始めたヒカルコと親衛隊の横で、息が上がったカイトは芝生に倒れ込んだ。まさか、この程度でバテるとは思わなかった……怪盗をしている時の走り方と違うから、体力の消費が激しい上に、昨日の今日だから肩の傷がやはり痛む。

 青空を見上げて胸で息をしていると、サヨが水筒を差し出した。
「あと三分で出発です。行けますか?」
「……大丈夫、ありがとう」
 けっこう優しいところがあるんだなと、トウヤは思った。

 上着を脱ぎ、何とか屋敷まで走り切る。
 すると、水分補給を挟んですぐに体幹トレーニングだ。

 庭に面したサンルーム。
 三方を広いガラス窓に囲まれ、天井はすりガラスの模様張り。テラスとしても使えるようにだろう、タイル張りの床が斬新だ。

 そこで、太極拳とヨガを合わせたようなものをやるのだが、これがけっこう難しい。
 見よう見真似で動いてみるが、体のバランスに自信があるトウヤでも、お嬢様と親衛隊の五人のようにいかない。
 フラフラとよろめいた末、疲れ果てて床にのびた。

 体幹トレーニングが終わると、しばしのお茶の時間。
 テラスの片隅のテーブルを囲み、薬草茶を飲むのだが、これが驚くほどマズい。
 閉口しながら何とか飲み終えた頃に、執事が「格闘術の先生」の到着を告げにやって来た。

 教えを受ける場所は中庭。広い屋敷の中央の、明かり取り的に作られている場所だ。

 五人とトウヤをそこで待っていたのは、杖をついた老女だった。
 彼女はヒカルコの姿を見ると、金歯を見せてニヤッとした。

「久しぶりじゃな、お嬢」
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