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呪い(謙一視点)
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呪い、だ──と。
そう思った。
階段から突き落とされた麻衣を見た瞬間に身体が動く。
(麻衣!)
彼女の身体を抱きしめて。
何度も段差にぶつかりながら、彼女が傷つかないようそれだけを祈りながら、鈍く鋭い痛みに耐えた。
その最中、一瞬だけ見えた彼の顔を見て気がつく。
(ああ、そうか)
彼にとっても──呪いだったのだ。
とても甘美だっただろう。
自分が麻衣にとって命の恩人であるという事実は。
それに縛られて──この10年、それは彼にとっても「呪い」であり続けた。
「謙一さん!」
遠のきかけている意識のどこかで、愛しいひとの声を聞く。ああ無事なのだなと──ホッとして、意識を手放しかける。
(君さえ無事なら、それでいい)
深い睡魔にも似たその感覚は、痛みを遠ざけて、むしろとても心地よいもので──。
だけれど、すぐに俺はそれを手放す。
「謙一さん、謙一さん」
ぼたぼたと落ちてくる温かな水滴。
(誰だ──麻衣を泣かせているのは)
むっとして、すぐに気がつく──泣かせているのは、俺だ。
「……麻衣」
うっすらと目蓋を持ち上げる。とても重い。痛みが再び襲ってくる。ぐわんと痛む後頭部、それから額にも熱がある。身体のそこかしこも──けれど、それよりも頬が熱い。麻衣の涙が、頬を伝う。熱くて──心地よい。
「大丈夫だ」
「ほ、ほんとう、に」
しゃくりあげる麻衣の頬に、手を伸ばす。
その双眸から溢れる涙は、ひどく熱いのに白露のように美しい。
「これくらいじゃ死なないさ」
死んでたまるか。
君を置いて──こんなところで。
「、っ、うう……」
泣きながら頷く麻衣に心配をかけないように、痛みを無視して起き上がる。肘と脛がやけに痛い。
階段を見上げる。階段の途中に、市原伸二。不倫相手の姿は──もう、なかった。
呆然と、動かない市原伸二を眺める。彼はもう──麻衣に付き纏うことは、ないだろう。
(「呪い」が解けたのだから)
呪い──麻衣と彼を縛り続けた、「市原伸二は市原麻衣の命の恩人である」という呪い。
麻衣はそれに縛られて──けれど、市原伸二もまた、それに縛られていたのだ。
自分は麻衣のヒーローであると、麻衣は自分からたとえ何をしようと離れないと、なぜなら自分は麻衣の命を救ったのだから──所有しているのだから、という思い込み。
だからこそ、彼は今回麻衣を迎えに来た。それが正しいと判断したから。自分と麻衣のあるべき形だと、そう判断したから。
(──最初は、違ったんだろう)
けれど、少しずつ、少しずつ──時計の針が少しずつずれるように。
市原伸二は麻衣を卑属させるようになり、歪んでいって──。
そこまでは、ずっと予想はできていたことだけれど。
(けれど、もう呪いは存在しない)
なぜなら、彼は麻衣を「避けて」しまったから。
今度は、落ち行く麻衣を、助けることが──できなかったから。
あの茫然とした表情。
自分が信じられないと、そう言わんばかりのカオ──彼は、本気で……麻衣を救けることができるつもりでいたのだ。
なにがあろうと。
でも彼は避けた。……本能的な反応だったんだろう。反射的な──。
(けれど、これで……市原伸二は、失った)
麻衣のヒーローたる資格を……失ってしまったのだ。
今、彼の中にあるのはなんだろう。
もはやアイデンティティと化していた、自分はヒーローなのだという矜恃を喪ったいま、彼はなにを軸に生きていくのだろうか?
「謙一さん」
わんわん泣きながら、俺にしがみついてくる麻衣。その背中をそうっとさする。
「怪我はないか?」
「……っ、はいっ、け、謙一さんが……庇ってくれたから……っ」
ぽろりぽろりと零れる白露。
ぼんやり見惚れながら、ざっと彼女の身体を観察して、本当に怪我はなさそうだと確認した。
そうして気がつく。
自分もまた、麻衣の「恩人」とやらになりかけているのではないか、ということに。
(それは、……いやだなぁ)
うまく言語化できないけれど──麻衣との関係がそんな風になったら、とても嫌だと俺は思う。
だから。
だから、伝える。
「怪我がなくて良かった、麻衣──ありがとう」
「……へ?」
ぽかん、と麻衣が俺を見上げる。可愛い表情で、こんなときなのに笑ってしまう。愛おしくて、可愛くて。麻衣の額にキスを落とす。
「守らせてくれて、ありがとう、麻衣」
静かにそう告げると──麻衣はまた、両目からこれでもかと涙を溢れさせて首を振る。でも言葉は全然出てきていなくて、それすらも愛おしくて、俺はただ彼女を抱きしめ続けたのだった。
そう思った。
階段から突き落とされた麻衣を見た瞬間に身体が動く。
(麻衣!)
彼女の身体を抱きしめて。
何度も段差にぶつかりながら、彼女が傷つかないようそれだけを祈りながら、鈍く鋭い痛みに耐えた。
その最中、一瞬だけ見えた彼の顔を見て気がつく。
(ああ、そうか)
彼にとっても──呪いだったのだ。
とても甘美だっただろう。
自分が麻衣にとって命の恩人であるという事実は。
それに縛られて──この10年、それは彼にとっても「呪い」であり続けた。
「謙一さん!」
遠のきかけている意識のどこかで、愛しいひとの声を聞く。ああ無事なのだなと──ホッとして、意識を手放しかける。
(君さえ無事なら、それでいい)
深い睡魔にも似たその感覚は、痛みを遠ざけて、むしろとても心地よいもので──。
だけれど、すぐに俺はそれを手放す。
「謙一さん、謙一さん」
ぼたぼたと落ちてくる温かな水滴。
(誰だ──麻衣を泣かせているのは)
むっとして、すぐに気がつく──泣かせているのは、俺だ。
「……麻衣」
うっすらと目蓋を持ち上げる。とても重い。痛みが再び襲ってくる。ぐわんと痛む後頭部、それから額にも熱がある。身体のそこかしこも──けれど、それよりも頬が熱い。麻衣の涙が、頬を伝う。熱くて──心地よい。
「大丈夫だ」
「ほ、ほんとう、に」
しゃくりあげる麻衣の頬に、手を伸ばす。
その双眸から溢れる涙は、ひどく熱いのに白露のように美しい。
「これくらいじゃ死なないさ」
死んでたまるか。
君を置いて──こんなところで。
「、っ、うう……」
泣きながら頷く麻衣に心配をかけないように、痛みを無視して起き上がる。肘と脛がやけに痛い。
階段を見上げる。階段の途中に、市原伸二。不倫相手の姿は──もう、なかった。
呆然と、動かない市原伸二を眺める。彼はもう──麻衣に付き纏うことは、ないだろう。
(「呪い」が解けたのだから)
呪い──麻衣と彼を縛り続けた、「市原伸二は市原麻衣の命の恩人である」という呪い。
麻衣はそれに縛られて──けれど、市原伸二もまた、それに縛られていたのだ。
自分は麻衣のヒーローであると、麻衣は自分からたとえ何をしようと離れないと、なぜなら自分は麻衣の命を救ったのだから──所有しているのだから、という思い込み。
だからこそ、彼は今回麻衣を迎えに来た。それが正しいと判断したから。自分と麻衣のあるべき形だと、そう判断したから。
(──最初は、違ったんだろう)
けれど、少しずつ、少しずつ──時計の針が少しずつずれるように。
市原伸二は麻衣を卑属させるようになり、歪んでいって──。
そこまでは、ずっと予想はできていたことだけれど。
(けれど、もう呪いは存在しない)
なぜなら、彼は麻衣を「避けて」しまったから。
今度は、落ち行く麻衣を、助けることが──できなかったから。
あの茫然とした表情。
自分が信じられないと、そう言わんばかりのカオ──彼は、本気で……麻衣を救けることができるつもりでいたのだ。
なにがあろうと。
でも彼は避けた。……本能的な反応だったんだろう。反射的な──。
(けれど、これで……市原伸二は、失った)
麻衣のヒーローたる資格を……失ってしまったのだ。
今、彼の中にあるのはなんだろう。
もはやアイデンティティと化していた、自分はヒーローなのだという矜恃を喪ったいま、彼はなにを軸に生きていくのだろうか?
「謙一さん」
わんわん泣きながら、俺にしがみついてくる麻衣。その背中をそうっとさする。
「怪我はないか?」
「……っ、はいっ、け、謙一さんが……庇ってくれたから……っ」
ぽろりぽろりと零れる白露。
ぼんやり見惚れながら、ざっと彼女の身体を観察して、本当に怪我はなさそうだと確認した。
そうして気がつく。
自分もまた、麻衣の「恩人」とやらになりかけているのではないか、ということに。
(それは、……いやだなぁ)
うまく言語化できないけれど──麻衣との関係がそんな風になったら、とても嫌だと俺は思う。
だから。
だから、伝える。
「怪我がなくて良かった、麻衣──ありがとう」
「……へ?」
ぽかん、と麻衣が俺を見上げる。可愛い表情で、こんなときなのに笑ってしまう。愛おしくて、可愛くて。麻衣の額にキスを落とす。
「守らせてくれて、ありがとう、麻衣」
静かにそう告げると──麻衣はまた、両目からこれでもかと涙を溢れさせて首を振る。でも言葉は全然出てきていなくて、それすらも愛おしくて、俺はただ彼女を抱きしめ続けたのだった。
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