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桜と真紅
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押せてないと思っていたスマホのエマージェンシーコールはできていて、ほかに誰もいないような気がしていた駐車場には他に人がいて──警察と救急車が、あっという間に駆けつけてくれた。
謙一さんと別の救急車で、私も病院へ搬送された。
自分の怪我より(そもそも大した怪我もしていない──謙一さんが、庇ってくれたから!)謙一さんのことが、心配でどうにかなってしまいそうで。
警察の人に、謙一さんは無事だと聞いて、やっとそれで、ほっと胸を撫で下ろして──。
それでも、不安だった。
目を閉じた謙一さんの顔が浮かぶ。私をかばって傷だらけで、……なのに「ありがとう」と言ってくれた彼の姿が。
(お礼を言うのは、──私のほうなのに)
病室の窓の向こうには、濃紺の空と金色の月。
(似たような、色なのになぁ……)
ぼうっと見つめる。金粉をはいたような月光。その金色に、私はあの日の風花を連想した。
舞い散る雪、風花の黄金を目蓋の裏に浮かべて、……それからそれをかき消した。
(「結婚しよう」って言ってくれた)
全力で、愛してくれた。
目を開く。涙で月が歪む。
心に決めたこれが、果たして正しいのかどうかは分からない。
分からない、けれど。
ぎゅっと布団を掴む。遠くで聞こえる看護師さんの足音が、なんとなく気忙しかった。
「もういいのか」
頭に包帯とガーゼ、それからそれの保護ネットという痛々しい姿で、でも割合に元気そうな姿で、ベッドの上の謙一さんは優しげに目尻に皺を寄せた。
「はい。精密検査もしたんですが、異常なしで」
「そうか」
お互い無言になる。窓の外は一月にしては少し暖かそうで、飛んでいく名前も知らない小鳥に春が近いことを知る。
「──謙一さんの怪我、は」
「俺も大したことはない。骨も折れてなかったし、打撲だけだ」
人間は案外と丈夫なんだなぁ、と謙一さんは笑う。笑うけれど、さっきから目を合わせてくれない。
「あの」
「──麻衣」
謙一さんが苦しげに言う。
「俺は麻衣と、一瞬だって、離れたくない」
「……私も、です」
私は小さく微笑んだ。
「愛してます、謙一さん」
「じゃあ」
謙一さんは私の頬に触れる。私は目を細めて彼を見つめる。悲しそうな顔をした、愛しいひとを。
「じゃあなんで、──そんな顔をしてるんだ」
そのあと彼に言った言葉を──後悔、している訳ではないけれど。
「別れて、ください」
私は、謙一さんの足枷になるわけにはいかないのだった。不倫してるなんて醜聞が、彼のこれからを閉ざしてしまうのは、耐え難くて。
「──いやだ」
その言葉が、悲しくて、──なのに嬉しくてたまらない私は、結局どこまでも利己的な人間なんだろう。
冬が終わって、桜が満開になったころ──私の新居、ちいさなマンスリーマンションの郵便受けに「それ」が届いた。
真新しい茶封筒、走り書きの住所。差出人の名前はない。それでもその字で誰だか分かった。分かるくらいには──「彼」と過ごしてきたから。
私は部屋に戻らず、その場で封筒を開けた。中に入っていたのは、小さく小さく折り畳まれた──離婚届。
それを、私はエントランスのテーブルに広げる。鞄からボールペンを取り出して、日付だけ書き足した。
あの晩秋に彼に渡したこれが、冬を越して春──いま、私の手の中にある。
思ったよりも、感慨みたいなものはなかった。
ただ、ひどく気が焦る。
(はやく、はやく)
部屋には戻らず、そのままマンションの玄関を出た。春の陽光に、目を細める。桜の花弁が、ちらりと落ちていく。桜色の向こうには、溶けたような水色の春空。
区役所で拍子抜けするほどあっさりと離婚が受理された帰り途──私は駅前の花屋さんに寄る。
「すみません」
笑顔で振り向く店員さんに、私は首を傾げた。
「あの、午前中までここにあったバラは……」
ガラスケースの中にいけられていた、真紅のバラ。
花言葉、は──。
「ああ、」
店員さんは申し訳なさそうに言う。
「それ、さっき全部売れてしまって」
「全部ですか?」
「ええ、同じ方が……」
「へぇ」
ガラスケースの中、空になったバケツを眺める。かなりの本数、あったような気がするけれど。
「残念」
小さく呟いて──お店を出た。
マンションまでの道のりを、ゆっくりと歩く。桜色を透かして落ちてくる、春の暖かさ。
マンションまでもう少し、といったところの川沿い、桜並木のその下に、鮮烈に飛び込んできた色彩。パステルに混ざり込んだヴィヴィッド。
(……紅い)
赤を溶かして煮詰めて、結晶にしたような、そんな色。
私は眉を下げた。
「……私が買おうと思っていたんですよ」
「済まない」
その人は、私を見て目を細めた。目尻に優しげに皺を寄せて。
久しぶりに会う、愛おしいひとの姿。
「君の元……旦那さん、から連絡をもらって」
「そう、でしたか」
「矢も盾もたまらず」
真紅の向こうで、その人は真剣に言う。
花束ごと、私はその人の腕の中に閉じ込められて。
「死ぬほど、」
彼は、謙一さんは私の耳元でそう低く言う。掠れた声色が、堪らなく狂おしい。
「死ぬほどあなたに焦がれてる」
私は謙一さんにしがみついて、そのかんばせに頬を寄せる。濡れていたのは私の涙なのか、彼のものなのか、もはや判然としなくて。
「愛してる」
聞きたかった言葉に、
「私も、」
胸が苦しい。
伝えたいことはたくさんある。
我儘で離れて、ごめんなさい。
たくさん傷つけて、ごめんなさい。
巻き込んでしまって、ごめんなさい──。
けれど、いま必要なのはそんな言葉じゃなくて。
「私も、愛してます」
死ぬほど、
死ぬほどあなたに焦がれてる。
「ずっと側にいて」
ため息のように零れた言葉に、謙一さんの腕の力が強くなる。
滲んでいく世界。
(ああ、)
チラチラと舞い落ちる桜色が、日差しに白く煌く。花束を抱きしめた私ごと、謙一さんは私を抱き上げる。
「麻衣!」
「はい!」
「結婚を前提に──これから100日間、俺と付き合ってください」
返事なんか決まってる。
これから始まる100日間のその先を、私たちはまだ知らない。
けれど、きっと──私たちなら。
真紅が、ほろほろと桜色に溶けていく。
世界は、思っているより、きっと、ずっと──美しい。
謙一さんと別の救急車で、私も病院へ搬送された。
自分の怪我より(そもそも大した怪我もしていない──謙一さんが、庇ってくれたから!)謙一さんのことが、心配でどうにかなってしまいそうで。
警察の人に、謙一さんは無事だと聞いて、やっとそれで、ほっと胸を撫で下ろして──。
それでも、不安だった。
目を閉じた謙一さんの顔が浮かぶ。私をかばって傷だらけで、……なのに「ありがとう」と言ってくれた彼の姿が。
(お礼を言うのは、──私のほうなのに)
病室の窓の向こうには、濃紺の空と金色の月。
(似たような、色なのになぁ……)
ぼうっと見つめる。金粉をはいたような月光。その金色に、私はあの日の風花を連想した。
舞い散る雪、風花の黄金を目蓋の裏に浮かべて、……それからそれをかき消した。
(「結婚しよう」って言ってくれた)
全力で、愛してくれた。
目を開く。涙で月が歪む。
心に決めたこれが、果たして正しいのかどうかは分からない。
分からない、けれど。
ぎゅっと布団を掴む。遠くで聞こえる看護師さんの足音が、なんとなく気忙しかった。
「もういいのか」
頭に包帯とガーゼ、それからそれの保護ネットという痛々しい姿で、でも割合に元気そうな姿で、ベッドの上の謙一さんは優しげに目尻に皺を寄せた。
「はい。精密検査もしたんですが、異常なしで」
「そうか」
お互い無言になる。窓の外は一月にしては少し暖かそうで、飛んでいく名前も知らない小鳥に春が近いことを知る。
「──謙一さんの怪我、は」
「俺も大したことはない。骨も折れてなかったし、打撲だけだ」
人間は案外と丈夫なんだなぁ、と謙一さんは笑う。笑うけれど、さっきから目を合わせてくれない。
「あの」
「──麻衣」
謙一さんが苦しげに言う。
「俺は麻衣と、一瞬だって、離れたくない」
「……私も、です」
私は小さく微笑んだ。
「愛してます、謙一さん」
「じゃあ」
謙一さんは私の頬に触れる。私は目を細めて彼を見つめる。悲しそうな顔をした、愛しいひとを。
「じゃあなんで、──そんな顔をしてるんだ」
そのあと彼に言った言葉を──後悔、している訳ではないけれど。
「別れて、ください」
私は、謙一さんの足枷になるわけにはいかないのだった。不倫してるなんて醜聞が、彼のこれからを閉ざしてしまうのは、耐え難くて。
「──いやだ」
その言葉が、悲しくて、──なのに嬉しくてたまらない私は、結局どこまでも利己的な人間なんだろう。
冬が終わって、桜が満開になったころ──私の新居、ちいさなマンスリーマンションの郵便受けに「それ」が届いた。
真新しい茶封筒、走り書きの住所。差出人の名前はない。それでもその字で誰だか分かった。分かるくらいには──「彼」と過ごしてきたから。
私は部屋に戻らず、その場で封筒を開けた。中に入っていたのは、小さく小さく折り畳まれた──離婚届。
それを、私はエントランスのテーブルに広げる。鞄からボールペンを取り出して、日付だけ書き足した。
あの晩秋に彼に渡したこれが、冬を越して春──いま、私の手の中にある。
思ったよりも、感慨みたいなものはなかった。
ただ、ひどく気が焦る。
(はやく、はやく)
部屋には戻らず、そのままマンションの玄関を出た。春の陽光に、目を細める。桜の花弁が、ちらりと落ちていく。桜色の向こうには、溶けたような水色の春空。
区役所で拍子抜けするほどあっさりと離婚が受理された帰り途──私は駅前の花屋さんに寄る。
「すみません」
笑顔で振り向く店員さんに、私は首を傾げた。
「あの、午前中までここにあったバラは……」
ガラスケースの中にいけられていた、真紅のバラ。
花言葉、は──。
「ああ、」
店員さんは申し訳なさそうに言う。
「それ、さっき全部売れてしまって」
「全部ですか?」
「ええ、同じ方が……」
「へぇ」
ガラスケースの中、空になったバケツを眺める。かなりの本数、あったような気がするけれど。
「残念」
小さく呟いて──お店を出た。
マンションまでの道のりを、ゆっくりと歩く。桜色を透かして落ちてくる、春の暖かさ。
マンションまでもう少し、といったところの川沿い、桜並木のその下に、鮮烈に飛び込んできた色彩。パステルに混ざり込んだヴィヴィッド。
(……紅い)
赤を溶かして煮詰めて、結晶にしたような、そんな色。
私は眉を下げた。
「……私が買おうと思っていたんですよ」
「済まない」
その人は、私を見て目を細めた。目尻に優しげに皺を寄せて。
久しぶりに会う、愛おしいひとの姿。
「君の元……旦那さん、から連絡をもらって」
「そう、でしたか」
「矢も盾もたまらず」
真紅の向こうで、その人は真剣に言う。
花束ごと、私はその人の腕の中に閉じ込められて。
「死ぬほど、」
彼は、謙一さんは私の耳元でそう低く言う。掠れた声色が、堪らなく狂おしい。
「死ぬほどあなたに焦がれてる」
私は謙一さんにしがみついて、そのかんばせに頬を寄せる。濡れていたのは私の涙なのか、彼のものなのか、もはや判然としなくて。
「愛してる」
聞きたかった言葉に、
「私も、」
胸が苦しい。
伝えたいことはたくさんある。
我儘で離れて、ごめんなさい。
たくさん傷つけて、ごめんなさい。
巻き込んでしまって、ごめんなさい──。
けれど、いま必要なのはそんな言葉じゃなくて。
「私も、愛してます」
死ぬほど、
死ぬほどあなたに焦がれてる。
「ずっと側にいて」
ため息のように零れた言葉に、謙一さんの腕の力が強くなる。
滲んでいく世界。
(ああ、)
チラチラと舞い落ちる桜色が、日差しに白く煌く。花束を抱きしめた私ごと、謙一さんは私を抱き上げる。
「麻衣!」
「はい!」
「結婚を前提に──これから100日間、俺と付き合ってください」
返事なんか決まってる。
これから始まる100日間のその先を、私たちはまだ知らない。
けれど、きっと──私たちなら。
真紅が、ほろほろと桜色に溶けていく。
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