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激情

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 ひどく無造作に包丁の柄を掴み、ぶらぶらと振りながら伸二が階段を上がってくる。

「だ、め」

 震える膝を無理矢理に動かして、私は謙一さんたちの前に立ちはだかった。

「麻衣……っ」

 謙一さんは私の名前を呼んで、それからリンカさんを取り押さえていた手を離し、私を抱きしめて腕の中に庇う。
 リンカさんは座ったまま俯いている。ボサボサになった、綺麗に巻いていたはずの茶髪で顔が隠れて、どんな表情までは伺えなかった。

「……ああ」

 伸二は踊り場には上がらず、階段をいくつか残して立ち止まる。
 それから包丁をぞんざいに目線の高さまで上げて──口の端を歪める。

「心配するなよ、麻衣。別に刺すつもりはないから。コレ、ウチのだから拾っただけ」

 そして目を細めて笑う。

「ないと困るだろ? 麻衣。料理作るとき」

 私は首を振る。……伸二が意図してる質問とは、全く別の考えでの、否定。
 伝わっているかはわからない──。

「……シン、ちゃん」
「リン。オレ、お前に何回もう別れるって言った?」
「で、でもリンカ、リンカは……」
「あまり困らせんなよ」

 ふたりの会話の最中、そっと謙一さんが私の腰に手を当てる。見上げると、目があった──こっそり逃げるチャンスを窺っているみたいだった。小さく頷く。

「リンカ、別れない! 絶対!」

 その間にも、2人の会話は続く。リンカさんがばっと顔を上げた。悲壮な表情に、思わず息を飲む。
 伸二がふうう、と息を吐き出した。苛立ちを抑えるかのような──と、私たちの方を見て大きく舌打ちをする。

「……逃げるなよ、麻衣」

 苛立ちを押し隠した笑顔を私に向ける。

「一緒に、帰ろう」
「──シンちゃん!」

 リンカさんが叫んだ。

「なんで! なんでその女なの!? リンカ、リンカのほうが、絶対──」
「うるさい」

 伸二の声が低く階段に響く。謙一さんが私を抱きしめる腕の力が、強くなる。

「だ、だってシンちゃん、リンカ」
「うるさいって、」

 包丁を右手で持った伸二が、左手で頭を掻き毟る。ぐちゃぐちゃになっていく髪の毛。

「うるさいって言ってるだろ……」
「だってシンちゃんが話聞いてくれな」
「黙れって言ってんだろうが!!」

 激昂した伸二が叫ぶ。そうして包丁を思いっきり踊り場の床に叩きつけた。ぐわぃん、と耳障りな音をたててその刃物は床を跳ねた。壁にぶつかり、床に落ちる。床を滑る鈍い銀色は割れていた。

「……ぁ」
「り、リンカさん!」

 包丁が壁にぶつかったときだろうか、その銀色はリンカさんの腕を傷つけていた。ぽたりと落ちる黒ずんだ赤。
 反射的に謙一さんの腕の中から駆け出した。

(リンカさん、殺されちゃう)

 緊張で肺が痛い。殺すつもりなんかないと、伸二はそんなことしないって信じたいけれど──いまの彼は、何をするか予想もつかない!
 おそらく、だけれど……少なくとも私を傷つけるつもりは無いようだし、とにかくリンカさんを守らなくては、と近づく。

「麻衣!」

 謙一さんの声が響く。私は伸二とリンカさんの間に立って──伸二と視線が絡んだ。

「やめて、伸二」
「──麻衣。大丈夫、オレたちの邪魔さえしなければそいつ傷つけたりしないよ」

 伸二の表情が、あまりにも「普通」でゾッとした。びくりと肩を揺らす。伸二は不思議そうに首を傾げた。

「──麻衣」

 謙一さんが私を引き戻そうと、手を伸ばす。その指先が私の腕に触れたとき──だった。

「邪魔っ、て──なに? リンカ、いらないの?」

 背後で、リンカさんが立ち上がる気配がした。次の瞬間に、背中に触れる、何か──。

「……え?」
「リンカいらないなら、──いるようにしてあげるね」

 奇妙な浮遊感。踊り場から、階段に……押し出された?
 やけにスローモーションに感じる。押し出された私から、階段にいた伸二が反射的に避けるのが見えた。驚いた──顔をしていた。
 私が階段から落ちようとしていることに、だけじゃなくて──「何か」に。
 何かに、酷く驚愕した表情。

「やっぱり奥さんいなくなったら、はリンカの場所になると思うの」

 その台詞をどの瞬間に聞いたのか──落ちながら、あるいは落ちた後。
 重力に従うように、身体に衝撃が走る。けれどそれは、思っていたものとは違って。

(あ、れ?)

 私を包み込む、温もり。

「──っ、」

 落ち切った階段の下、温かな腕の中から抜け出す。そこには、……力が無くて、私はその人を抱きしめながら叫ぶ。

「謙一さんっ……!」

 だらりと落ちる腕に、ひ、と息を飲む。

(私を、庇って……っ)

 階段はどれくらい高さがあっただろう? まさか死んじゃったり、しない、よね?

(やだ、やだ、やだ!)

 ゆるゆると首を振る。

(お願い)

 お願い、目を、目を開けて!

「謙一さん、謙一さん……っ」

 頭がぐちゃぐちゃで働かない。目からぼたぼたと涙が溢れて、目を閉じた謙一さんの頬にあたっては雨だれのように弾けた。
 
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