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「本当に、いいのか」
この期に及んで、常務は寝室に入ることを躊躇した。むっと一文字に結んだ唇。
夕食後、お風呂も入って──例の「それとも」のセリフに合わせるなら「私」しか残ってない……という、そんな状況で。
「嫌じゃないか? 大丈夫か?」
「……あの、常務。最初に誘ったの私なんですけど」
「だが」
「したいんですか、したくないんですか」
常務の手を取る。
大きくて、ちょっと節のある、大人の男の人の手。どきりとする。ほんの少し、かさついていた。
「……したいです」
常務はしおらしくなって、私に手を引かれるまま寝室に足を踏み入れる。
表情はいまいち読めない。
……私、ちょっと積極的すぎる?
(でもなぁ、なんだろうなぁ)
うまく言葉にできない感情。本当にちょっと、よく分からない。こんなのは、珍しい──と、思う。行動に理由がつけられない。
あえて言うなら、やっぱりあの弱ってる常務が可愛かったから、とかになるのかなぁ。
(ギャップ萌え? 絆された?)
どちらにせよ──うん。
私が決めた。抱かれたいと、触れてみたいと、そう思ったのは事実。
まぁどうなるにせよ、……と、もう何回も思っているけれど……どうせ私に失うものはないのですから。
ふたりでベッドに腰かけた。常務はあからさまに目線を逸らしている。
「あの。……私、やっぱり、変なんでしょうか」
「なにがだ?」
目線をくれないまま、常務は答える。
「だってまだ、離婚してそんなに経ってないのに──他の男性と、こうして暮らしてるわけです。なんなら離婚当日から」
親が知ったらどう思うかな……みたいなのは時々頭に浮かぶ。
すでに伸二とは他人なのだけれど──独身で、法的にはなんの問題もないのだろうけれど──分別を持ちなさい、くらいは言われそう。
「市原。それは、俺が丸めこ……いや、誘ったからであって」
……いま「丸め込んだ」って言おうとしませんでしたか常務……? 自覚はあったんですね。
「その上、一月も経ってないのにセックスしようとしてます。尻軽ですか? 軽蔑します?」
「……! する、わけがない」
常務は私のほうを向いて、きゅっと眉根を寄せた。
「軽蔑……されるべきは俺の方だ。傷心の女性につけ込んだと言われたら、その通りすぎて弁明のしようがない」
「……まぁそう傷心でもなかったのですが」
そう答えた私の肩に、常務は額を乗せて呟く。
「君を、少しでも──癒せたらいいのにと。いつもそう願っている」
「……常務」
「頼ってくれればいいのに、と」
その声があまりに切なくて、心臓が勝手にどきんと高鳴る。
「……その」
常務はばっ、と顔を上げた。
「名前で呼んで、くれないか」
「名前……?」
「良ければ、だが。俺も君を名前で呼びたい」
常務の言葉に、きゅっと唇を噛む。
いいのかな。
それはあまりに──後戻りできないくらいに、甘えてしまう証左に思えて。
でもやっぱり、常務のその懇願するような視線に私はなぜだか弱くて、あっという間に陥落してしまう。
こくり、と頷いて口を開く。
「……っ、謙一、さん」
ぱあっ、と常務……じゃない、謙一さんは嬉しげに笑って私を抱きしめて。
「麻衣」
耳元で呼ばれる自分の名前に、頬が熱くなる。後頭部を、やわやわと撫でる謙一さんの手のひら。
「麻衣」
もう一度、なにかを堪えるような声で私の名前を呼んで──。
こんなふうに、名前に愛情をこめて呼ばれたことなんて、あったっけ。
名前を呼べることが嬉しい、とその声に滲ませて呼ばれたことなんか。
胸がぎゅっとする。
好かれてる。愛されてる──から。
だから、嫌われたくないと思ってしまった。
「……あの、謙一さん」
「なんだ?」
両頬を包まれた。覗き込んでくるその顔は、いまにも蕩けそうなほど幸せそう。
私は泣きそうになる。
「……っ、麻衣!?」
謙一さんは慌てて私から離れる。
「や、っぱり嫌だったか……?」
「ち、違います、違う……」
私は謙一さんの手を取って、ぎゅっと握り、首を振った。
「違うんです。多分、私、──私、そんなにセックス、上手じゃないです」
「……ん?」
謙一さんは不思議そうだったけれど、黙って私の言葉に耳を傾けてくれていた。
「け、経験も……っ、元旦那しか、ないですし」
「……うん」
「だ、だから、……っ、へ、へた、で? そういうのもあって浮気、されたのかもって」
「麻衣」
諭すような、柔らかで穏やかな声だった。目尻にキスが落ちてきた。こつん、とおでことおでこが重なる。
「君と──もしかしたら、君の以前の夫とも、俺の考えは違うようだ」
「……違う?」
「少なくとも俺は──君に触れるだけで、それだけで」
そのあとは言葉にしてもらえなかった。
頬に、おでこに、顎に、鼻に、耳に、繰り返される静かなキス。
うまく息が出来なくて、ぎゅっと謙一さんに抱きついた。
背中を謙一さんのおっきな手が撫でていく。
「君の辛い記憶なんか、全部上書きしてみせるから」
低く彼はそう呟いて──そのままとさり、とシーツに縫い付けられた。
「愛してる、麻衣」
私を見下ろすその視線に──私はこくりと頷いた。
この期に及んで、常務は寝室に入ることを躊躇した。むっと一文字に結んだ唇。
夕食後、お風呂も入って──例の「それとも」のセリフに合わせるなら「私」しか残ってない……という、そんな状況で。
「嫌じゃないか? 大丈夫か?」
「……あの、常務。最初に誘ったの私なんですけど」
「だが」
「したいんですか、したくないんですか」
常務の手を取る。
大きくて、ちょっと節のある、大人の男の人の手。どきりとする。ほんの少し、かさついていた。
「……したいです」
常務はしおらしくなって、私に手を引かれるまま寝室に足を踏み入れる。
表情はいまいち読めない。
……私、ちょっと積極的すぎる?
(でもなぁ、なんだろうなぁ)
うまく言葉にできない感情。本当にちょっと、よく分からない。こんなのは、珍しい──と、思う。行動に理由がつけられない。
あえて言うなら、やっぱりあの弱ってる常務が可愛かったから、とかになるのかなぁ。
(ギャップ萌え? 絆された?)
どちらにせよ──うん。
私が決めた。抱かれたいと、触れてみたいと、そう思ったのは事実。
まぁどうなるにせよ、……と、もう何回も思っているけれど……どうせ私に失うものはないのですから。
ふたりでベッドに腰かけた。常務はあからさまに目線を逸らしている。
「あの。……私、やっぱり、変なんでしょうか」
「なにがだ?」
目線をくれないまま、常務は答える。
「だってまだ、離婚してそんなに経ってないのに──他の男性と、こうして暮らしてるわけです。なんなら離婚当日から」
親が知ったらどう思うかな……みたいなのは時々頭に浮かぶ。
すでに伸二とは他人なのだけれど──独身で、法的にはなんの問題もないのだろうけれど──分別を持ちなさい、くらいは言われそう。
「市原。それは、俺が丸めこ……いや、誘ったからであって」
……いま「丸め込んだ」って言おうとしませんでしたか常務……? 自覚はあったんですね。
「その上、一月も経ってないのにセックスしようとしてます。尻軽ですか? 軽蔑します?」
「……! する、わけがない」
常務は私のほうを向いて、きゅっと眉根を寄せた。
「軽蔑……されるべきは俺の方だ。傷心の女性につけ込んだと言われたら、その通りすぎて弁明のしようがない」
「……まぁそう傷心でもなかったのですが」
そう答えた私の肩に、常務は額を乗せて呟く。
「君を、少しでも──癒せたらいいのにと。いつもそう願っている」
「……常務」
「頼ってくれればいいのに、と」
その声があまりに切なくて、心臓が勝手にどきんと高鳴る。
「……その」
常務はばっ、と顔を上げた。
「名前で呼んで、くれないか」
「名前……?」
「良ければ、だが。俺も君を名前で呼びたい」
常務の言葉に、きゅっと唇を噛む。
いいのかな。
それはあまりに──後戻りできないくらいに、甘えてしまう証左に思えて。
でもやっぱり、常務のその懇願するような視線に私はなぜだか弱くて、あっという間に陥落してしまう。
こくり、と頷いて口を開く。
「……っ、謙一、さん」
ぱあっ、と常務……じゃない、謙一さんは嬉しげに笑って私を抱きしめて。
「麻衣」
耳元で呼ばれる自分の名前に、頬が熱くなる。後頭部を、やわやわと撫でる謙一さんの手のひら。
「麻衣」
もう一度、なにかを堪えるような声で私の名前を呼んで──。
こんなふうに、名前に愛情をこめて呼ばれたことなんて、あったっけ。
名前を呼べることが嬉しい、とその声に滲ませて呼ばれたことなんか。
胸がぎゅっとする。
好かれてる。愛されてる──から。
だから、嫌われたくないと思ってしまった。
「……あの、謙一さん」
「なんだ?」
両頬を包まれた。覗き込んでくるその顔は、いまにも蕩けそうなほど幸せそう。
私は泣きそうになる。
「……っ、麻衣!?」
謙一さんは慌てて私から離れる。
「や、っぱり嫌だったか……?」
「ち、違います、違う……」
私は謙一さんの手を取って、ぎゅっと握り、首を振った。
「違うんです。多分、私、──私、そんなにセックス、上手じゃないです」
「……ん?」
謙一さんは不思議そうだったけれど、黙って私の言葉に耳を傾けてくれていた。
「け、経験も……っ、元旦那しか、ないですし」
「……うん」
「だ、だから、……っ、へ、へた、で? そういうのもあって浮気、されたのかもって」
「麻衣」
諭すような、柔らかで穏やかな声だった。目尻にキスが落ちてきた。こつん、とおでことおでこが重なる。
「君と──もしかしたら、君の以前の夫とも、俺の考えは違うようだ」
「……違う?」
「少なくとも俺は──君に触れるだけで、それだけで」
そのあとは言葉にしてもらえなかった。
頬に、おでこに、顎に、鼻に、耳に、繰り返される静かなキス。
うまく息が出来なくて、ぎゅっと謙一さんに抱きついた。
背中を謙一さんのおっきな手が撫でていく。
「君の辛い記憶なんか、全部上書きしてみせるから」
低く彼はそう呟いて──そのままとさり、とシーツに縫い付けられた。
「愛してる、麻衣」
私を見下ろすその視線に──私はこくりと頷いた。
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