小説探偵

夕凪ヨウ

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Case90.悲哀④

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「質問の内容はこのノートに書いてある。ゆっくりでいいから、質問に対する答えを筆記してくれ。」
「分かりました。」

 実に奇妙な取り調べだった。お互い一言も発さず、ただ文字を書く音だけが響く部屋。海里はさっきまでの修羅場が嘘のように思えた。

(私が残る意味すらない気がする・・・でも、九重さんはなぜ私を?警察官ではない私がこの部屋に入ることすら難しかったのに・・・・。普通に考えて玲央さんを残すべきじゃないのか?)

 その後、浩史は何度か質問を付け加えた。小夜はその1つ1つに時間をかけて答え、静かな取り調べは1時間半にも及んだ。

「これで終わりだ。協力ありがとう。」
「いえ・・・あの・・私が犯人でないことを証明することはできますか?」
「捜査次第だな。江本君、龍たちを呼んできてくれ。」
「は・・はい・・・。」

 海里は言われた通りに4人を呼びに行った。そして浩史は伊吹と洋治を見るなり、2人の頬を叩いた。

「今回は見逃すが、次に同じやり方をしたらお前たちでもそれなりの処置が下ると思え。」
「・・・はい。」
「分かったならいい。」

 浩史は伊吹にノートを渡した。4人が一斉にそれを覗き込む。そこには、本当に典型的な質問と、その答えが書いてあっただけだった。浩史は言う。

「泉龍寺君にはアリバイがある。職場から家までの距離を調べたが、とても仕事を抜け出して戻れる距離じゃない。この言葉がどういう意味か・・・“優秀”な君たちなら、分かるな?」

 洋治は何かを考えるように険しい瞳をして俯き、しかしすぐに顔を上げ、浩史に会釈をして部屋を出て行った。伊吹は興味がないと言わんばかりにノートから目を逸らし、玲央の横を通り過ぎる際、彼にしか聞こえないようにこう言った。

「随分と卑怯になりましたね。昔とは大違いです。」

 玲央はその言葉を聞くと安心したように息を吐き、答えた。

「その台詞、そっくりそのまま返すよ。」

 2人が出て行くと、浩史は長い息を吐いた。小夜に視線を移し、微かに笑う。

「これで良かったんだろう?」
「ええ。助かりました。あの2人には理屈が通じるとは思わなかったので・・・あちらが上の人間を出してきたのだから、こちらも同じことをするしかない・・と。」

 海里たち3人は、まるで状況が理解できなかった。すると、浩史が海里を見て尋ねる。

「江本君。さっきの私たちのやり取りで、何か不自然な点はなかったかな?」
「えっ?不自然な点・・・ですか?でもあれは、普通に取り調べをしていただけでは?」

 海里の言葉に浩史は曖昧に頷いた。

「まあ・・・そうだな。私がノートに書いていた質問には確かに答えてもらった。だが、初めから犯人じゃないと分かっている人間を本気で問い詰める必要はない。あの時、私たちは“別の話”をしていたんだよ。」
「別の話・・・?」
「私たちの手元を思い出してみたら、その違和感に気づくはずよ。」

 海里はさっきの光景を思い浮かべた。

 浩史が小夜にノートを渡し、彼女はノートに書かれた質問に答える。彼女はずっとペンを持ち、浩史は腕組みをしていた。
 だが・・そう、何度か彼にノートを渡して、彼も文字をーーーー

「あっ・・?」
「江本?」
「どうして・・・どうしてお2人が、“左手で”文字を書いていたんですか?お2人は、“右利き”ですよね。
 あの時、お2人はずっと右手を隠していた。小夜さんは左肘の内側に、九重警視長は腕組みの下側に。そもそも・・・初めに文字を書いていたのは九重警視長だった。あの時、小夜さん。あなたは少し驚いたような表情をしていました。大して気に留めませんでしたが、その後、九重警視長はあなたの行動を読んでいたかのように、“左側”にペンを置いた。あなたは何の迷いもなくそれを取り、左で文字を書いていた。」

 2人は笑った。全員、言葉を失くした。あの1時間の間に、そんな奇妙なことが行われていたなど、誰が想像できるだろう。

「ちょっと待ってください。そもそも、なぜ九重警視長はそんなことを?第一、右手で文字を書いていなかった説明が・・・・。」
「・・・・まさかとは思いますが、モールス信号・・ですか?」

 玲央の言葉に、2人は頷いた。3人は、滅茶苦茶な手段に頭が痛くなった。

「モールス信号は正確さが求められるからな。利き手の方がいい。字を書きながら手を動かしていても、見えなければ問題ないし、そういう癖だと認識されることが多い。現に、江本君も怪しまなかっただろう?」
「ええ・・・全く。しかし、一体なぜそんなことを?」

 小夜の瞳に影がかかった。彼女は声を潜めて言った。

「九重さんに過去の情報を共有する提案をされたの。私はさっきの取調べの最中、モールス信号でそれに答えていた。」
「過去の共有って・・・小夜、本気?」
「本気よ。あなたの言う通り、約束は守りたかった。でも、ここまでされたら黙っているのが難しい。今回の1件で、警察内部にも裏切り者がいることははっきりしたわ。正直言って、私はこの部屋にいる人間すら信用できない。」

 小夜の言葉に全員が険しい顔をした。彼女は溜息をつく。

「こんな事を言って申し訳ないと思ってる。でも、どうか許して欲しい。私は、この1件で全く人を信用できなくなった。」
「・・・・それでも過去を話す気になったのは、俺たちの反応を見るためか。」
「ええ。知りたいのでしょう?」

 海里と龍は、小夜の言葉を否定する気にはなれなかった。ただ、ここまで急だと混乱するのも無理はない。2人が答えに迷っていると、沈黙を破り、浩史が口を開いた。

「場所を変えるぞ。ここでは誰かに聞かれる。」
「どこに?」
「凪の酒場だ。もはや警視庁にいることすら危険になっている。」

 海里たちは足早に警視庁を出て凪の店に行った。凪は驚いたものの、小夜がいることから事情を察し、奥の個室に通した。

「誰も立ち入らないよう言っとくわね。」
「すまないな。」

 凪が人数分水を置いて出て行くと、彼女は颯爽と部屋を出た。扉が閉まるのを見届けた小夜は、一口水を飲み、息を吐く。

「さて・・・何から話しましょうか。まあ取り敢えず・・私が8年前に亡くした人物が誰なのか。そこから話しておきましょう。」

 小夜は驚くほど落ち着いていた。だが、微かに語尾は震えており、視線はずっと下を向いていた。

「江本さんは、二階堂雫さんをご存じ?」
「はい。玲央さんからお聞きしました。3年前に亡くなった、東堂さんと玲央さんの幼馴染み・・・ですよね。」
「ええ。そして、彼女には妹がいた。生きていれば、雫さん同様、警察官になっていたかもしれませんね。」
「は・・・?」

 龍が怪訝な顔をした。玲央の方を向き、彼は言う。

「雫に妹?そんな話、聞いたこともないぞ。」
「俺も8年前まで知らなかったよ。ほら彼女・・子供の頃に両親が離婚しただろう?その時、妹は彼女と離れ離れになったらしいんだ。」
「じゃあ兄貴は、8年前にその妹と会ったってことか?」
「うん。同時に、小夜にも会った。」

 小夜が頷き、続けた。

「私はその子を通して、玲央は雫さんを通して、私たち4人は出会った。姉妹仲が良かったからか、私たち4人は割とすぐに打ち解けたわ。4人で出かけたり、色々楽しんだ時期もあったわね。」

 小夜は懐かしむような笑みを浮かべた。が、すぐにそれは消え、再び瞳に影がかかった。

「でも、幸せな時間は長く続かなかった。雫さんの妹・由花が死んだ・・・いいえ、殺されたのは、出会って1ヶ月もしない、七夕の夜だった。」
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