32 / 230
Case32.若女将の涙①
しおりを挟む
「少しお休みください」
気遣いのつもりで発した自分の声が、怒りに満ちていた。
理不尽に命を奪われた人間の姿ーーーー何度も目にしてきた光景だ。こんなに無惨な遺体なのに、恐ろしいとも感じないほど見慣れてしまった。
でも、この怒りは何だろう。今まで、犯人に対して怒ったことは何度もある。心の内だけでなく、ぶつけたことも。
それなのに、今抱いている怒りは、それらとは違うと分かる。何が違うのか、それは分からないけれど。
謎を解かなければならない。真実を見つけなければならない。私の心が、そう叫んでいる。
ーカイリ『若女将の涙』第1章ー
※
「我儘を聞いてくださってありがとうございます」
「礼を言うのは私の方よ。海里君が来てくれるなんて思わなかった。会えて嬉しいわ」
季節は初秋になっていた。葉が色づくのは先だったが、灼熱は過ぎ去り、秋らしい清涼さが訪れ始めていた。
海里は学生時代を過ごした京都を訪れ、友人・榊雪美の実家である月影旅館に来ていた。新しいフィクションの小説を出版するため、アイデア作りの場として落ち着ける旅館を探していた彼は、幼馴染みの雪美に連絡を取り、急遽旅行をすることにしたのだ。
「相変わらず立派な旅館ですね。子供の頃に何度か泊まりに来ましたが、成人してからは初めてです」
海里はソファーに体を預けたまま、ぐるりとロビーを見渡した。
紅葉や銀杏、柳の絵で彩られた襖。休憩スペースとして設けられた長椅子は、シンプルな茶色で真っ白な壁とバランスがいい。天井から吊り下げられた電球を覆うのは和紙で、ほのかな桃色や黄色が見える。大きな窓の外には閑静の2文字が似合う庭が広がり、苔や石、青葉が照明に照らされて美しかった。
海里の言葉に「そうね」と頷き、雪美は続ける。
「急に連絡が来て驚いたけど、海里君の近況が聞きたかったの。繁忙期がまだで、部屋の空きもあったし」
雪美はそこで一泊起き、消え入るような声で言った。
「何より・・・・会いたかったから」
「何か?」
呟きに反応した海里だったが、雪美は静かに首を振った。
「ううん。何でも」
雪美は穏やかで優しい女性だった。彼女は海里と中高が同じで、あまり同級生と懇意にしない海里には珍しく、仲睦まじかった。
しかし東京の大学へ行くために海里が上京し、雪美も家業を継ぐ準備があったため、高校卒業以来、疎遠になっていたのだ。
「真衣ちゃんはどう? まだ、意識は戻らない?」
「はい。幸い体調の変化はありませんから、命に別条はありません。しかし、かれこれ3年。同じ病院に居続けることも少し難しくなってきまして、転院も視野に入れようかと」
「そっか・・・・」
真衣は海里の妹の名前である。彼の幼馴染みである雪美は、当然真衣とも知り合いだった。天真爛漫な真衣は、雪美のことを姉のように慕っていた。
「現状が変わらない以上、何も言えません。私はただ、待つだけです」
「・・・・辛くない?」
遠慮がちに尋ねる雪美に対し、海里はキッパリと答えた。
「辛い、というより寂しいですね。探偵業をやり始めてから少しは賑やかになりましたが、人の命が消える現場を目撃するのは・・・・正直慣れません。本当、警察の方を尊敬しますよ」
海里は窓の外を見ながらそう呟いた。雪美は微笑を浮かべ、彼の手を握る。
「大丈夫。真衣ちゃんはきっと目覚めるよ。だから、そんな顔しないで」
「ありがとうございます、雪美さん」
海里は微笑んで礼を述べ、「そういえば」と話題を変える。
「ご結婚されたんですよね? おめでとうございます。お祝いが遅くなってすみません」
「・・・・うん、ありがとう。1年くらい前かな。忙しかったから、式は挙げなかったんだけど」
雪美がどこか悲しげな笑みを浮かべると、従業員専用の部屋から1人の男が顔を出した。
「雪美」
男は海里、雪美と同じ年代に見えた。整髪料で固められた短い茶髪と、優しげな黒い垂れ目が特徴的である。グレーの着物姿が様になっており、紺の浴衣を来た風呂上がりの宿泊客との違いが顕著に現れていた。
雪美は男の方を振り返り、打って変わって柔らかい笑みを浮かべる。
「渉さん。
海里君。この人が、私の夫の渉さん。渉さん。この人が、私の幼馴染みの江本海里君。小説家と探偵を兼業してるの」
「ああ、雪美がいつも話している彼だね。よろしく、江本さん。榊渉です」
「江本海里です。よろしくお願いします」
海里と渉は握手を交わした。
雪美は仕事があるからと従業員の元へ行き、渉は海里の前に座るなり口を開いた。
「江本さんのことは雪美から聞いています。小説も拝見させて頂きました」
「ありがとうございます。込み入ったことをお尋ねしますが、渉さんは婿入り、ですか?」
「はい。僕も旅館の息子なのですが、経営が傾いていて。同じ旅館を経営する榊家に婿入りして家を助けてもらうよう、幼い頃から両親に言われていました」
「ああ・・・そういえば昔、許嫁がいると聞いたことがあります。渉さんのことだったのですね」
渉は頷きながら言葉を続けた。
「ええ。あの・・・雪美は、どんな女性なのですか? 結婚してまだ約1年。こちらは婿入りの身ですから、あまり不躾なことは聞けなくて」
渉の質問に海里は少し考えてから口を開いた。
「どんな女性・・・ですか。一言で言えば、優しい女性ですよ。穏やかですし、一緒にいて安心します。正義感が強いので、学生時代は卑怯なことを許しませんでしたね」
海里は懐古を宿した瞳でそう言った。渉は納得したように深く頷く。
「やっぱり、そんな感じですか。ここ1年、偶に現れる理不尽なクレーム対応があまりにも見事なので、過去に何かしていたのかと、不思議に思っていました」
2人は長い間話をしていた。雪美という共通の存在がいるためか、性格が似ているためか、話が合ったのだ。途中でお茶を出しに来た雪美も交えて話が弾み、気がつけば日が傾いていた。
海里は友人との穏やかな時間を心から楽しんだ。妹が意識不明になって以来、ここまで楽しみに満ちていることは始めであった。
「長話に付き合って頂いてありがとうございました」
頭を下げる海里に対し、渉は笑って謙遜した。
「いえいえ。こちらこそ江本さんのお話が聞けて嬉しかったです。今夜はゆっくり休んで、日々の疲れを癒してください」
「そうさせて頂きます」
夕食と入浴を済ませて部屋に戻る途中で、海里は雪美を見つけた。廊下を掃除している途中なのか、箒を持っている。しかしその手は止まっており、ぼんやりと窓の外を眺めていた。彼女は海里に気がつくと、華やかな笑顔を見せた。
「お風呂、ゆっくり入れた?」
「はい。露天風呂も満喫しました。
お仕事中でしたか?」
「うん。でも、何だか集中できなくて。月が綺麗だからかな」
雪美は空に浮かぶ満月を指さした。海里は笑う。
「そうですね。しかも今夜は月が近い。明かりがなくても、満月の光で十分だと思うくらいですよ」
どこか恍惚とした視線で満月を見つめる海里を見て、雪美は笑った。
「海里君ったら、小説のこと考えてるでしょ。昔から印象的な風景を見たら、物思いに耽ることがあったけど、変わってないのね」
「寧ろ悪化しそうですよ」
海里は苦笑した。雪美はしばらく満月を見つめた後、小さな声で呟く。
「満月の夜って、不吉なことが起こるって言うよね。あれ、本当なのかな?」
唐突な話題だった。海里は少し驚きつつ、テンプレートのような答えを返す。
「確かに聞いたことはありますが、ただの都市伝説では? 少なくとも、私はそう解釈していますよ」
「・・・・そうだよね。何も起きたりなんてしない。ただの、美しい月夜。きっとそれだけ。それだけのはず・・・・」
「雪美さん・・・?」
刹那、雪美は切ない笑顔を浮かべた。しかし、海里の不安げな表情を見て、すぐに元の笑顔に戻る。
「気にしないで。お休み。また明日ね」
「・・・・ええ、お休みなさい」
海里は理由の分からぬ不安を抱いたまま床に着いた。雪美の言葉が気にかかる彼は、あまり眠りたくなかったが、疲れていたのか酷い眠気が訪れ、布団を被るなり、すぐに深い眠りへ落ちた。
月夜の惨劇に、気がつかないほどの眠りへ。
※
海里がカーテンの隙間から差し込む朝日を浴びながら聞いたのは、鳥の声ではなく人の悲鳴だった。寝ぼけていたはずの彼は布団を跳ね除けて起き上がり、悲鳴が聞こえたロビーへ走った。
「江本さん・・・!」
「渉さん! 一体、何があったのですか? 今の悲鳴はーーーー」
その時、海里は若女将であるはずの雪美の姿が見えないことに気がついた。彼女の性格と立場からして、起きていないなどということはあり得なかった。
悪寒が走った。布団で暖まった体が一瞬で冷え、季節に合わぬ冷や汗が背中を伝ったような気がした。
「ま・・・さか・・・・」
海里は渉の制止を振り切り、ロビーの奥へ歩いた。従業員専用の部屋のドアノブに、血がべったりと付いている。手形はなく、ペンキを塗りたくったようである。真下に滴り落ちた血が、血溜まりを作っていた。
宿泊客や従業員は近づくのも恐ろしいらしく、不安を口にしながら遠目で扉を見ている。一際震えている女性の宿泊客が、悲鳴を上げたのだと推測できた。
海里は、ほぼ無意識に床に落ちている鍵を拾い、扉を開けていた。見たくないと思いつつ、浴衣の懐から取り出した手拭いに包んだ手で、真っ赤なドアノブを回していた。
扉は恐ろしいほどゆっくりと開き、惨状を海里の視界に映し出した。
「雪美、さん・・・・?」
部屋の中にあったのは、全身を包丁で刺された、無残な雪美の遺体だった。血の臭いが充満し、床は血溜まりどころではない。
包丁は胸、首、手足など至る所に突き刺さり、うっすら目が開いていても、一目で死んでいると分かる状態だった。
「・・・・嘘だ・・・昨日、笑って、話していた。昔と変わらない、笑顔と声音で・・・・。それなのに、こんな、こんなことが、あるなんて・・・・」
刹那、雪美の言葉が海里の頭をよぎった。
ーーーー満月の夜って、不吉なことが起こるって言うよね。あれ、本当なのかな?
不吉なことが起こると言った彼女が、今、目の前に遺体となって横たわっている。目を背けたくなるほどの無惨な殺され方に、海里は犯人への憎悪すら覚えた。
「渉さん」
どのくらい遺体を凝視してからか、海里は渉の名を呼んだ。彼は遺体から目を背けつつ、返事をする。
「・・・・何でしょうか」
「警察を呼んでください。私には、これ以上現場に踏み込むことはできない。警察の方と話し合って、探偵としての仕事を開始します」
海里の言葉を受け、渉は恐る恐る、というように口を開く。
「しかし江本さん。昨夜に起こったことだとしたら、犯人は・・・・」
途切れかけた渉の言葉を、海里は継いだ。
「ええ。旅館の中にいる可能性が高い。だからこそ、野放しにしておけない」
海里は、自分の言葉に全く感情がこもっていないことに驚いた。妹の真衣が事故に遭った時以来、ここまで怒ることなどなかったからだ。
「江本さん。京都府警の方々がお着きになりました」
10分ほど経って、ロビーに警察を案内した渉が告げた。海里は天井に注いでいた視線を渉に移す。
「ありがとうございます。渉さんは少しお休みください」
「は、はい・・・そうさせてもらいます。何かあったら呼んでください。奥にいますから・・・・」
渉は、憔悴しきった様子でフロントの奥へ姿を消した。無理もない、と海里は感じる。
私は、なぜこんなに怒っているのだろう。理不尽に人の命が奪われる光景に、完全に慣れたわけではない。それでも、見慣れてはいるはず。それなのに、なぜ?
雪美さんが、私の友人だから? あまりに、酷い殺され方だから?
何にせよ・・・急がなければ。彼女のためにも。
いや、彼女のために。
悲しき謎解きが、始まる。
気遣いのつもりで発した自分の声が、怒りに満ちていた。
理不尽に命を奪われた人間の姿ーーーー何度も目にしてきた光景だ。こんなに無惨な遺体なのに、恐ろしいとも感じないほど見慣れてしまった。
でも、この怒りは何だろう。今まで、犯人に対して怒ったことは何度もある。心の内だけでなく、ぶつけたことも。
それなのに、今抱いている怒りは、それらとは違うと分かる。何が違うのか、それは分からないけれど。
謎を解かなければならない。真実を見つけなければならない。私の心が、そう叫んでいる。
ーカイリ『若女将の涙』第1章ー
※
「我儘を聞いてくださってありがとうございます」
「礼を言うのは私の方よ。海里君が来てくれるなんて思わなかった。会えて嬉しいわ」
季節は初秋になっていた。葉が色づくのは先だったが、灼熱は過ぎ去り、秋らしい清涼さが訪れ始めていた。
海里は学生時代を過ごした京都を訪れ、友人・榊雪美の実家である月影旅館に来ていた。新しいフィクションの小説を出版するため、アイデア作りの場として落ち着ける旅館を探していた彼は、幼馴染みの雪美に連絡を取り、急遽旅行をすることにしたのだ。
「相変わらず立派な旅館ですね。子供の頃に何度か泊まりに来ましたが、成人してからは初めてです」
海里はソファーに体を預けたまま、ぐるりとロビーを見渡した。
紅葉や銀杏、柳の絵で彩られた襖。休憩スペースとして設けられた長椅子は、シンプルな茶色で真っ白な壁とバランスがいい。天井から吊り下げられた電球を覆うのは和紙で、ほのかな桃色や黄色が見える。大きな窓の外には閑静の2文字が似合う庭が広がり、苔や石、青葉が照明に照らされて美しかった。
海里の言葉に「そうね」と頷き、雪美は続ける。
「急に連絡が来て驚いたけど、海里君の近況が聞きたかったの。繁忙期がまだで、部屋の空きもあったし」
雪美はそこで一泊起き、消え入るような声で言った。
「何より・・・・会いたかったから」
「何か?」
呟きに反応した海里だったが、雪美は静かに首を振った。
「ううん。何でも」
雪美は穏やかで優しい女性だった。彼女は海里と中高が同じで、あまり同級生と懇意にしない海里には珍しく、仲睦まじかった。
しかし東京の大学へ行くために海里が上京し、雪美も家業を継ぐ準備があったため、高校卒業以来、疎遠になっていたのだ。
「真衣ちゃんはどう? まだ、意識は戻らない?」
「はい。幸い体調の変化はありませんから、命に別条はありません。しかし、かれこれ3年。同じ病院に居続けることも少し難しくなってきまして、転院も視野に入れようかと」
「そっか・・・・」
真衣は海里の妹の名前である。彼の幼馴染みである雪美は、当然真衣とも知り合いだった。天真爛漫な真衣は、雪美のことを姉のように慕っていた。
「現状が変わらない以上、何も言えません。私はただ、待つだけです」
「・・・・辛くない?」
遠慮がちに尋ねる雪美に対し、海里はキッパリと答えた。
「辛い、というより寂しいですね。探偵業をやり始めてから少しは賑やかになりましたが、人の命が消える現場を目撃するのは・・・・正直慣れません。本当、警察の方を尊敬しますよ」
海里は窓の外を見ながらそう呟いた。雪美は微笑を浮かべ、彼の手を握る。
「大丈夫。真衣ちゃんはきっと目覚めるよ。だから、そんな顔しないで」
「ありがとうございます、雪美さん」
海里は微笑んで礼を述べ、「そういえば」と話題を変える。
「ご結婚されたんですよね? おめでとうございます。お祝いが遅くなってすみません」
「・・・・うん、ありがとう。1年くらい前かな。忙しかったから、式は挙げなかったんだけど」
雪美がどこか悲しげな笑みを浮かべると、従業員専用の部屋から1人の男が顔を出した。
「雪美」
男は海里、雪美と同じ年代に見えた。整髪料で固められた短い茶髪と、優しげな黒い垂れ目が特徴的である。グレーの着物姿が様になっており、紺の浴衣を来た風呂上がりの宿泊客との違いが顕著に現れていた。
雪美は男の方を振り返り、打って変わって柔らかい笑みを浮かべる。
「渉さん。
海里君。この人が、私の夫の渉さん。渉さん。この人が、私の幼馴染みの江本海里君。小説家と探偵を兼業してるの」
「ああ、雪美がいつも話している彼だね。よろしく、江本さん。榊渉です」
「江本海里です。よろしくお願いします」
海里と渉は握手を交わした。
雪美は仕事があるからと従業員の元へ行き、渉は海里の前に座るなり口を開いた。
「江本さんのことは雪美から聞いています。小説も拝見させて頂きました」
「ありがとうございます。込み入ったことをお尋ねしますが、渉さんは婿入り、ですか?」
「はい。僕も旅館の息子なのですが、経営が傾いていて。同じ旅館を経営する榊家に婿入りして家を助けてもらうよう、幼い頃から両親に言われていました」
「ああ・・・そういえば昔、許嫁がいると聞いたことがあります。渉さんのことだったのですね」
渉は頷きながら言葉を続けた。
「ええ。あの・・・雪美は、どんな女性なのですか? 結婚してまだ約1年。こちらは婿入りの身ですから、あまり不躾なことは聞けなくて」
渉の質問に海里は少し考えてから口を開いた。
「どんな女性・・・ですか。一言で言えば、優しい女性ですよ。穏やかですし、一緒にいて安心します。正義感が強いので、学生時代は卑怯なことを許しませんでしたね」
海里は懐古を宿した瞳でそう言った。渉は納得したように深く頷く。
「やっぱり、そんな感じですか。ここ1年、偶に現れる理不尽なクレーム対応があまりにも見事なので、過去に何かしていたのかと、不思議に思っていました」
2人は長い間話をしていた。雪美という共通の存在がいるためか、性格が似ているためか、話が合ったのだ。途中でお茶を出しに来た雪美も交えて話が弾み、気がつけば日が傾いていた。
海里は友人との穏やかな時間を心から楽しんだ。妹が意識不明になって以来、ここまで楽しみに満ちていることは始めであった。
「長話に付き合って頂いてありがとうございました」
頭を下げる海里に対し、渉は笑って謙遜した。
「いえいえ。こちらこそ江本さんのお話が聞けて嬉しかったです。今夜はゆっくり休んで、日々の疲れを癒してください」
「そうさせて頂きます」
夕食と入浴を済ませて部屋に戻る途中で、海里は雪美を見つけた。廊下を掃除している途中なのか、箒を持っている。しかしその手は止まっており、ぼんやりと窓の外を眺めていた。彼女は海里に気がつくと、華やかな笑顔を見せた。
「お風呂、ゆっくり入れた?」
「はい。露天風呂も満喫しました。
お仕事中でしたか?」
「うん。でも、何だか集中できなくて。月が綺麗だからかな」
雪美は空に浮かぶ満月を指さした。海里は笑う。
「そうですね。しかも今夜は月が近い。明かりがなくても、満月の光で十分だと思うくらいですよ」
どこか恍惚とした視線で満月を見つめる海里を見て、雪美は笑った。
「海里君ったら、小説のこと考えてるでしょ。昔から印象的な風景を見たら、物思いに耽ることがあったけど、変わってないのね」
「寧ろ悪化しそうですよ」
海里は苦笑した。雪美はしばらく満月を見つめた後、小さな声で呟く。
「満月の夜って、不吉なことが起こるって言うよね。あれ、本当なのかな?」
唐突な話題だった。海里は少し驚きつつ、テンプレートのような答えを返す。
「確かに聞いたことはありますが、ただの都市伝説では? 少なくとも、私はそう解釈していますよ」
「・・・・そうだよね。何も起きたりなんてしない。ただの、美しい月夜。きっとそれだけ。それだけのはず・・・・」
「雪美さん・・・?」
刹那、雪美は切ない笑顔を浮かべた。しかし、海里の不安げな表情を見て、すぐに元の笑顔に戻る。
「気にしないで。お休み。また明日ね」
「・・・・ええ、お休みなさい」
海里は理由の分からぬ不安を抱いたまま床に着いた。雪美の言葉が気にかかる彼は、あまり眠りたくなかったが、疲れていたのか酷い眠気が訪れ、布団を被るなり、すぐに深い眠りへ落ちた。
月夜の惨劇に、気がつかないほどの眠りへ。
※
海里がカーテンの隙間から差し込む朝日を浴びながら聞いたのは、鳥の声ではなく人の悲鳴だった。寝ぼけていたはずの彼は布団を跳ね除けて起き上がり、悲鳴が聞こえたロビーへ走った。
「江本さん・・・!」
「渉さん! 一体、何があったのですか? 今の悲鳴はーーーー」
その時、海里は若女将であるはずの雪美の姿が見えないことに気がついた。彼女の性格と立場からして、起きていないなどということはあり得なかった。
悪寒が走った。布団で暖まった体が一瞬で冷え、季節に合わぬ冷や汗が背中を伝ったような気がした。
「ま・・・さか・・・・」
海里は渉の制止を振り切り、ロビーの奥へ歩いた。従業員専用の部屋のドアノブに、血がべったりと付いている。手形はなく、ペンキを塗りたくったようである。真下に滴り落ちた血が、血溜まりを作っていた。
宿泊客や従業員は近づくのも恐ろしいらしく、不安を口にしながら遠目で扉を見ている。一際震えている女性の宿泊客が、悲鳴を上げたのだと推測できた。
海里は、ほぼ無意識に床に落ちている鍵を拾い、扉を開けていた。見たくないと思いつつ、浴衣の懐から取り出した手拭いに包んだ手で、真っ赤なドアノブを回していた。
扉は恐ろしいほどゆっくりと開き、惨状を海里の視界に映し出した。
「雪美、さん・・・・?」
部屋の中にあったのは、全身を包丁で刺された、無残な雪美の遺体だった。血の臭いが充満し、床は血溜まりどころではない。
包丁は胸、首、手足など至る所に突き刺さり、うっすら目が開いていても、一目で死んでいると分かる状態だった。
「・・・・嘘だ・・・昨日、笑って、話していた。昔と変わらない、笑顔と声音で・・・・。それなのに、こんな、こんなことが、あるなんて・・・・」
刹那、雪美の言葉が海里の頭をよぎった。
ーーーー満月の夜って、不吉なことが起こるって言うよね。あれ、本当なのかな?
不吉なことが起こると言った彼女が、今、目の前に遺体となって横たわっている。目を背けたくなるほどの無惨な殺され方に、海里は犯人への憎悪すら覚えた。
「渉さん」
どのくらい遺体を凝視してからか、海里は渉の名を呼んだ。彼は遺体から目を背けつつ、返事をする。
「・・・・何でしょうか」
「警察を呼んでください。私には、これ以上現場に踏み込むことはできない。警察の方と話し合って、探偵としての仕事を開始します」
海里の言葉を受け、渉は恐る恐る、というように口を開く。
「しかし江本さん。昨夜に起こったことだとしたら、犯人は・・・・」
途切れかけた渉の言葉を、海里は継いだ。
「ええ。旅館の中にいる可能性が高い。だからこそ、野放しにしておけない」
海里は、自分の言葉に全く感情がこもっていないことに驚いた。妹の真衣が事故に遭った時以来、ここまで怒ることなどなかったからだ。
「江本さん。京都府警の方々がお着きになりました」
10分ほど経って、ロビーに警察を案内した渉が告げた。海里は天井に注いでいた視線を渉に移す。
「ありがとうございます。渉さんは少しお休みください」
「は、はい・・・そうさせてもらいます。何かあったら呼んでください。奥にいますから・・・・」
渉は、憔悴しきった様子でフロントの奥へ姿を消した。無理もない、と海里は感じる。
私は、なぜこんなに怒っているのだろう。理不尽に人の命が奪われる光景に、完全に慣れたわけではない。それでも、見慣れてはいるはず。それなのに、なぜ?
雪美さんが、私の友人だから? あまりに、酷い殺され方だから?
何にせよ・・・急がなければ。彼女のためにも。
いや、彼女のために。
悲しき謎解きが、始まる。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
恋愛
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる