六丁の娘

大純はる

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最終話 六百年の家族

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 毎夕店を閉めてから、その足で御所へ盆を取りにゆくのだが、むろんそこに手紙の返事などは添えられていなかった。
 もっとも、六つめの餅の中に忍ばせた短信も残ってはいない。きっとあの御所の内で、人の目には触れているのだろうと信じられた。
 ある雨の朝だった。
 進は首と肩の間で傘の柄を支えながら、硯箱を捧げ持っていた。件の女官が脇門の外まで出てきて、それを受け取る時に、
「なんでも渡辺殿には、幼い女の赤子がおられるとか」
 と声をかけてきた。
「左様、妹の子ですが」
内侍司ないしのつかさで、一度見てみたいものだ、と噂になっている。よろしければ明日の朝、この門の前まで連れてきてはもらえませぬか」
 進はしばらく考えてみてから、満面の笑みでうなずき返した。
 翌朝の日の出は、晩春らしい光の粒が躍って晴れがましかった。
 いつものように店のくりやで餅を六つ用意したが、今日ばかりは餡の中に懐紙は含ませなかった。
 一旦家の方へ帰ってくると、まほも上機嫌で目を覚まし、頬を膨らましながら体をよじっていた。
 おくるみで包み、おんぶ紐で背中へ結えつけると、耳元でくすぐったそうにキャッキャと笑った。
「今日はもしかしたら、遠くからでも、初めてお前の親父にお目見えできるかもしれんな」
 わけもわからないまま、ダーと小さな拳を振り回し、よだれでこちらの首筋をしとどに濡らした。
 平包ひらづつみをかぶせた硯蓋を馬の鞍に結わえ、東から照りつける朝日をいっぱいに浴びながら、進は正親町おおぎまち東洞院ひがしのとういんの角を曲がった。
 そこでいきなり、抜き身の刃先を喉元へ突き付けられた。
「ずいぶんとええ身分になったのう、おい」
 思わず息を詰め、足を止めた。
 路傍に煤の塊のような人影が立ち尽くしていた。
 欠けた黄色い歯と、血走った目だけが色を帯びている。あとは露出した禿頭、顔から髭、爪の先に至るまで黒々と汚れていた。
「餅屋の渡辺はんが、今朝も今朝とてお朝物の献上か。甲斐甲斐しいことよの。そういう今の立場も、元はと言えば誰のおかげじゃ、おい」
「為次郎」
 こちらの面差しを見やり、相手はニンマリと歯茎を剥き出した。思わず後ずさると、片足を引きずりながらじりじり詰め寄ってきた。
「生きておったのか」
「ん? 誰が死んだと言った、おい。お前に斬りつけられた古傷は、今でもじんじんと痛むがの」
 左手を突き出してくると、たなごころから腕にかけて、百足むかでのような傷跡が赤黒く走っていた。
「まあ、それはよかろうさ。あれから倍ほども苦労させられたんでの。大和衆と一緒になって、山城の国一揆を滅ぼす側へ回ったのはええが、結局は管領畠山の軍勢に追っぱらわれてこのざまじゃ。ところがその間にお前は何じゃ、ええ? 褐色の直垂なんぞ着込んで、まるでお公家様の使いっ走りじゃのう」
 手のひらにペエッ、とつばきを吐きつけると、赤子を背負って身動きのきかないこちらの袖へ、べったりとなすりつけてきた。
「渡辺の。海賊の魂をどこへ置き捨ててきた。おい、進よう」
 思わず顔を背け、相手の腕を振り払った。
「よしてくれ。お前の言う通りじゃ。俺は郷里を忘れた。だからもうお前のように生きてゆくことはできん。公家だの町衆だのと言っても、ここ六丁に住む者たちはみんな貧しい。お互いに助け合いながら、どうにか暮らしていっとるんじゃ」
「そうはいくかい」
 やにで固まった目を見開き、先の細長い舌をだらり、と垂らしてみせた。
「一人だけ脱け出して、今さらいい目を見ようってか、おい。地獄の果てまで引き込んだら。要は、こいつがお前の泣き所なんじゃろ」
 為次郎は、ふいにまほをこちらの背中から取り上げた。紐の間からするりと抜き取ってしまったのだ。骨張った指につかまれた赤子は、焚火へ放り込まれた栗のように激しく泣き始めた。
「こいつがお前に、そんなことを言わせとるんじゃろ。こんなもんがいなくなったら、すぐにお前とて、昔の飢えた野犬みたいな目つきを思い出すわい」
「よしてくれ、そいつは俺の子じゃないんだ」
「知ったことかい。お前の背中に取りついて、泣き言を言わせとるなら誰だって同じじゃ。昔もそうじゃったの。足手まといの妹に絡みつかれて、本物の鬼になりきれなんだ。それがお前の甘さじゃ、進。だがの、弱い者っちゅうのは、どこまでも際限なくお前の強さを吸い尽くすぞ。感謝なんぞ決してせん。自分よりも憐れだと思えるようになるまで、お前をどんどん小さくしてしまうんじゃ。それが弱い者の振り回す、裏ッ返しの暴力ちゅうもんじゃ」
 ぼろをまとった男は、ためらいもなく赤子を背後へ放り投げた。
 そちらには、昨日の雨で増水し、ごうごうと音を立てて流れる溝が開いていた。ちぎれそうな泣き声が、弓なりの線を描いて高々と舞い上がった。
 進は思わず硯蓋を取り落とし、とっさに駆け出したが、為次郎はにやにやと両腕を開き、目の前に立ちふさがってきた。
 それを弾き飛ばそうと体当たりすると、相手はしわぶきをしてよろめいたが、なおも直垂の袖をつかんで引き留めてきた。
「放せっ」
「放さんわい」
 短い問答の末、進は思わず腰に差した打刀を抜いていた。そして相手を左手で突き飛ばし、袈裟懸けさがけに斬り捨てていた。
 悪鬼のような末期の面差しが、歪んだ悲鳴を上げた。こちらの袖口から、頬にまで血しぶきが飛び散り、男の体はあっけなく膝元へ崩れ落ちた。
「ああ」
 進は愕然として目を閉じた。
 やってしまった。もう二度と、物の具など振り回すまいと決めていたのに。
 これではいずれ、まほにまで責められてしまう。
 いやそうだ、赤子は。
 瞼を下ろした闇の中で、泣き声はもう聞こえなくなっていた。
 目を見開くと、うろたえながら周囲を見回した。焼けつくような日差しの明るさで、眼前が真っ白くなって何も見えなかった。
 溝の向こう側に、どうやら一人の男が立っていた。
 二藍ふたあい冠直衣かんむりのうし姿で、片手に扇、片腕におくるみを抱いている。だんだんと目が慣れてきた。美しく整えられた髭と眉。一切動ずることもなく、この場にふさわしくないほどの朗らかさで笑っていた。
「さすがは滝口の家系だな」
 ずいぶん懐かしい声色だった。進は、眼裏まなうらに熱いものが滲んでくるのを止められなかった。
「安心したのか、すぐに寝入ってしまったぞ。この目元。しほより、お前によく似ているようだな」
 と、ウガヤは言った。

(了)
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