おぼろ月

春想亭 桜木春緒

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第二章

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 月子は、山里の村に帰る前に買い物をするという美知江たちについて、さまざまな店のある港町へと向かった。
 薬種問屋がある。
 手代らしき青年に、母と弟の状態を説明し、それに合った薬を購った。代官と親しい、村でただ一人の医師が売りつける薬よりも、悔しいほどに安価だった。

 村に帰るまでの道のりでも、誰もがほとんど口など利かない。
 楽しい滞在をした女など一人も居ない。誰もがうつむいて、唇をかみ締めて、家に持ち帰るための何かの包みを落とすまいと抱えている。月子もそうだ。
 人の妻も居る。月子のように未婚の娘も居る。その中でも月子がひときわ若いのだが、それでも彼女よりわずかに上に過ぎない年頃の娘たちも居た。
 誰もが、何かを恥じるように、目を伏せてとぼとぼと歩いていた。
 思い出したくも無い経験である。
 それでも恐らくまた、と月子は唇を噛み締める。また再び、城下に行かねばならない日が来るのは確かなことだ。
 帰る前に月子には三両が渡された。
 愕然とした。
 月子の目の前で、あのとき源治は五両を払っていた。源治が去った日の晩から、別の客が二晩続けて月子に一両を払った。それなのに、手元には三両しかない。その上、借財の利息であると言って代官所の手附が月子の手からさらに一両を取り上げて行った。
 しかし、それでも周りの女たちよりはよほどの高額が残っていたのだということは、後で知った。

 源治が去った晩、辻に立った月子に、源治に横取りされたときに値を付けた武家の使用人が現れた。旦那様が、と彼は言った。
 駕籠に乗せられて連れ込まれたその屋敷は、大きく立派だった。
 初々しい、美しい、とその大柄な老人は月子を喜んだ。
 老人が喜んだ分、月子は、辛かった。
 気に入られてしまったのだと思う。
 船宿に戻されることも無く、老人は月子を執拗に弄び、華奢な肢体が苦しげに身悶える姿を見て、震える肌に触れて、愉しんでいた。
 泊まって行けと命じられて、そのとおりになった。空が白んでも老人は月子を手放さなかった。
 こういうことなのだと、乾いて皺ばんだ手に身体を触れられて、虫唾を走らせながら月子は納得した。
「若い娘はたまらぬな」
よだれでも垂らさんばかりのしわがれた嘆声が月子の耳を何度か犯した。
 心の中で源治の名を何度も呼び、彼を脳裏に蘇らせた。彼のしぐさや、吐息を必死で思い出して、耐えた。

 うつむいて歩きながら、月子はただ源治のことだけを思い出そうと努めている。


 あの、朝。
 
「今日はもう、発たねばならない」
「……はい」
 わずかな慄きの後に、月子は真っ直ぐな目で源治を見て、はい、と言った。

「何もかも捨てて」
 逃げましょう、とは、源治にはやはり言えない。
 何のために月子が、こんなところに来ているのか。
 彼女には、守らねばならない家族がある。そのためでなければどうして、金と引き換えに身体を男に委ねるような真似をしなければならないだろう。
 ここで逃げてしまえば、月子の弟妹は辛苦の中に沈む。
 それでもいいではないかと言いそうになって、止める。
 それを口に出せば月子が苦しむだけだ。否、苦しめたくないというのは言い訳だろう。
 それを言ってしまえば、月子に蔑まれるに違いない。源治は月子に蔑まれたくなかったために、沈黙した。
 ずるい感情なのかもしれない。

「ありがとうございました。……何もかも」
月子は源治を真っ直ぐに見て言った。背に光を浴びて、ほの白く頬を光らせながら月子は微笑んでいる。
「何を、馬鹿な」
瞬時、唖然としたあとに源治は鋭く言い放つ。

 馬鹿なことを言っている。
 源治が月子に何をしたか、月子は彼に何をされたのか。考えれば礼などありえない。操(みさお)を金で汚した男に、礼を言うなどありえない。月子の心の置き所が、源治には理解の外だった。
「そうですね……。少し馬鹿なことを言っています」
 唇をかみ締めて、月子はうつむいて少しだけ頬を赤らめた。
 だがうつむいたままではいない。
「外までお送りするものでしょうか?」
「いや、ここでいい。そこまでせずとも」
 それではまた、とは源治には言えない。また。再び月子を買おうとでも言うのか。この場に月子に来いとでも言うのか。それは、誤りである。
 二度と、会うべきではない。
 だが、源治は思う。会わずに居られるだろうか。いずれまた、この土地に来る。そのときに、源治は月子を探さずに、求めずに居られる自信が無い。
 昨夜から繰り返し同じことを思っていた。何もするべきではない、触れるべきではない。そう思いながら、そんな意志は容易に決壊した。
 深更まで月子を追い求め、何度となく溺れこんでいた。またそれを求めずに居られるのか、どうか。

 それではまた、とは月子も言えない。
 また自分を購えと、源治に要請するようで気恥ずかしい。
 そして暗澹とした思いがある。
 この次にもし会うことがあるとしたら、そのときにはもう自分は誰とも知れぬ男たちの手垢で穢れつくしているのではあるまいか。
 そんな姿を、彼に見られたいというのか。そんな身を彼に触れて欲しいのか。
 月子の答えは否である。

(ありがとう)
 その思いは真実だ。彼に伸ばした手を受け入れてもらえて、良かった。せめてまっさらな自分を、優しい彼の手に委ねることが出来て良かった。
「では、ここで」
「はい、ここで」
 膝の前に行儀良く付いた手の親指に鼻をつけるように月子が頭を下げた。下げるまでの月子が、笑顔だった。

「強い、な」
 つぶやいて、源治は少しだけ笑う。
 月子を汚したという罪の意識からわずかに救われたような思いがする。笑みを見せることで、月子が源治を救おうとしていると悟る。後ろ髪が引かれる。
 だが、振り切った。
 源治は、胸から血が流れるような痛みを覚えながら月子の元を去った。

 廊下を足音が遠ざかる。
 月子は顔を上げ得ない。声を出してはいけない。目蓋から涙が噴き零れる。両手で唇を押さえて嗚咽をこらえ続けた。

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