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リュミエール
そうと知ったら戦慄しないほうがおかしいにきまっている
しおりを挟む「な、なに言ってるの! わけのわかんないこといって……それにちっぽけな死ってどういうことよ! 馬鹿にしてるの、とんでもないわよ」とママ。
タロウは、はっと我に帰った。
「ご、ごめんなさい。今、ぼくなんて言ってました?自分でもわけがわかんないんですよ、勝手に口が動いちゃって……」
「何それ? ……ま、いいわ、気が動転するのも無理ないものね。あたしだったもうい気が狂いそうだもの。ね、わかるでしょ?」
「ええ。わかります、わかります」
「ね、とにかく話を聞いてちょうだい。あたし胸の内のありったけを喋り切らないとほんとに気が狂っちゃうわ。ね、お願い」
ママは、喋りはじめた。「あのね……」
ぼくに何が起こったのか、一体どうしたっていうんだ。頭がくらくらする。それにこめかみが、ずきずきしだした。痛い、痛い。ほんとうにどうなってるんだ。目がまわる、目が……
「ちょっと、聞いてるの? あん…ね…ば…に…て…ら…しょう…な…わ…で…さ…かかか…ね…よ…けっ…は…が…え…ね…ぼち…ね、ねて…る…しょお…いへ…んしよ…、わた…ばあ…な…んーなの、とー…ごおー…なん…てぇき…てれるかl…るて…んで…ちょっ…へん…じしよ…かわれ…ん…て…なさり…ぽってくん…でね…もさ…」
タロウはたまらなくなって一気に嘔吐した。幾度も幾度も。しまいには吐くものがなくなって血の混ざった胃液を口の端から垂らしながら、それでも受話器は固く握り締めたまま……そこで意識が途切れた。
気が付くと、薄い膜に覆われた視界には異様な物体が映っている。そのまま暫く見つめていると、それがなんであるのかがはっきりとわかってくる。
黄緑色した吐瀉物にまみれた白いスニーカー。そのなかにもたっぷりと小間物が詰まっている。そのすぐ横にはバキバキに割れた画面のスマホが転がっている。
そこからは誰だろう? そうかママだ、ママの声が洩れ聞こえてくる。ミツバチの羽音のように……ぶん・ぶん・ぶん・ぶん・ぶん・ぶぶん……頭のなかでそれは螺旋のごとく幾重にも折り重なって木霊している。
すると、猛烈な睡魔が襲ってきた。タロウは必死にいざってなんとかベッドに転がり込んだ。
どのくらい眠っていたのか、タロウは目覚めると無性にあの曲を聴きたがっている自分にきづいた。変な言い方だが実際そうだったから仕方がない。
まるで自分のなかにもうひとりの自分がいて、そいつがあの曲を聴きたくてたまらないという風に感じたのだ。するとタロウ自身も思い出したように、そうだそうだ、あの曲を聴かなくてはいけないんだっけ、ずっと以前から強くそう思っていたかのような自分に気づいたのだった。
タロウは未だにはっきりとしない頭でなんとかマイルスを見つけ出すと、左手だけで……右手は身体の下敷きになっていたのか、完全に麻痺していた……ターンテーブルに乗せた。
タイトル・チューンの『ラウンド・ミッドナイト』が静かに流れはじめる。
マイルスの囁くようなペットは、オーケストラの絢爛たる響きよりも、耳を聾さんばかりのファズ・ギターの絶叫よりも空気をふるわせ、タロウの心をふるわせた。
そして、タロウははらはらと涙を流して泣いた。とめどもなく涙は頬を伝い降りていった。でも、その涙は小森くんの死を嘆いて流したものではなかった。
どこかがぶっ壊れているタロウは、哀しい場面では決して泣かない人間なのだから……。
ではこの涙はいったい何のために流されている涙なのだろうか、タロウには見当もつかないのだった。
それからタロウは溢れ出る涙を拭おうともせずに、まるで息をひきとるかのように静かに寝入ってしまった。
再び目覚めたときには、部屋は闇に包まれ、つけっぱなしのステレオのちっぽけなランプだけが、オレンジ色の光りを寂しげに放っていた。
そのオレンジ色のちっぽけな光を見るとはなしに見ていると、不意にタロウはママに逢いたい、いや逢わなくてはならないという何かとっても切羽詰った思いにかられた。何故だかわからないけれど、今逢わなければ二度と逢えないような気がした。
タロウはベッドから這い出して吐瀉物がこびり付いたジーパンとTシャツを脱ぎ捨て着替えると、外に飛び出した。
渋谷へと向かう電車のなかでタロウはママに逢えることが待ち遠しくて、座ることさえ出来ないくらい苛々していたけれど、唐突にある思いに囚われた。
きっと小森くんは、さっきぼくがあの曲を聴きながらいつしか寝入ってしまったように、あの曲に身を任せて夢見るように安らかに死んでいったのだ。これは間違いないという確信めいた思いにタロウは慄然とした。
それは、死が小森くんにどのように訪れたのかがわかったとかいう、くだらないことではなく、タロウが小森くんの死を身をもって体験し、そして今蘇生したのだと思い至ったからだった。
つまりタロウは一度死んだのだ。死んで何故か再び甦ったのだ。そうと知ったら戦慄しないほうがおかしいにきまっている。
ではなぜ甦ったのか。あのまま眠るようにして死んだままでも全く不思議ではないはずなのに……。
その答えはママが教えてくれた。
◇
スウィングに着くと、タロウはドアを蹴破るようにしてなかに躍り込んだ。ちょうどそれは、ママがドアに一番近いシートに座っているお客のテーブルにコーヒーを置こうと差し出すところだった。
タロウを見たママは、いらっしゃいませといい終わらぬ内に悲鳴をあげて、持っていたトレイをコーヒーごとお客の顔にぶちまけた。
お客もママに負けじと悲鳴をあげる。ママは腰を抜かしたようにその場にへたり込んで、タロウを指差しながら酸欠したかのように口をぱくぱくさせている。
「な、な、なんで生きてるの!」
ママがやっとそう言ったとき、ドアが開いてタロウは一歩店の奥に押しやられた。見ると、それは客ではなくマスターだった。マスターはぼくを見るなり、いきなり激昂した。
「なんだ、おまえは! 出入り禁止と言ったはずだぞ、帰れ、帰れ!」
吐き捨てるようにそう叫ぶと、マスターはタロウの二の腕を掴み、思い切り引張った。タロウ はあまりにも意外な展開に抵抗することも忘れて、引っ張られるままたたらを踏んで店の前の剥き出しのコンクリートに激突した。
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