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第二章
45. 冷たい水と高嶺の花
しおりを挟むレオンスの体調不良は、風邪として落ち着いた。
その日は結局救護室でお世話になって、一晩ぐっすりと寝たところでひどい吐き気や目眩は解消された。
市販の抑制剤との飲み合わせが問題ない風邪薬をクロードに処方されて、毎食後に飲むようになって三日目だ。五日分処方されているため、明日明後日も服用しなければいけない。
救護室で衛生班の兵士や軍医に代わる代わる看病してもらっていたが、熱や咳はなかったので、腹からくる風邪であろうというのが最終的なクロードの見解だった。ただ、久しぶりに抑制剤の服用を再開したタイミングだったので、そちらの副作用の可能性も捨てきれないらしい。そのため、しばらくは無理をしないようにと口を酸っぱくして言われた。
あの日あった強烈な吐き気は落ち着き、三日目にしてようやく胃の調子も戻ってきた。昨日と一昨日は、薬を飲むために食事をしなければならなかったが、なかなか固形物が喉を通らずスープを飲むのがやっとだった。それが今朝は、果実も口にすることができたので順調に回復していると言える。
なによりレオンスとしては、副作用の可能性はあれど抑制剤の服用を再び禁止されずにすみ、ほっとしていた。
「んんーっ、さすがに寒くなってきたねぇ」
両手をすり合わせながら呟いているのはオーレリーだ。彼の言うように、今日は朝から冷たい風が吹いている。発情期明けのオーレリーにとっては、いっそう身にしみる寒さだろう。
レオンスたちは要塞の一角にいる。屋根はあるが四方を囲む壁はない。あえていうなら背中側と右手側には要塞の外壁がある。つまりは、要塞の建物を出てすぐの屋外にいた。
ファレーズヴェルト要塞の周辺は、十一月にもなれば凍てつく風が吹き始める。十二月が始まれば雪もしんしんと降り、二月の終わりまでは一面雪景色となるらしい。そのため、雪が本格的に降る前に冬支度を終わらせる必要があるのだとジャンが言っていた。
そのジャンの言うとおり、十月に入ってからというもの支援班と整備班は日に日に多忙になり、十一月も半ばを迎えつつあるのにも関わらず一向に業務は落ち着かない。
「レオンス、病み上がりなんだから無理しないでよね」
「わかってるよ。そういうオーレリーも発情期明けだし、アメデはもう少しで発情期だろ。俺たち全員、無理は禁物ってタイミングだな」
「ふふ、違いないね」
三人で笑いながら、レオンスはほっと胸を撫で下ろしていた。
先日、ひどい風邪で救護室に世話にならざるを得なかったのが冬の足音が近づいてきた頃でよかったと思ったのだ。もし多忙が極まっている時期に倒れていたら、二人にも、支援班にも申し訳が立たないところだった。
この日、レオンスたち三人は屋外にある洗濯場で、冷たい水を大きな盥いっぱいに張って、ざぶざぶと洗い物をする予定でいた。洗うのは、十二月を前にして全兵士に配る予定のリネン類だ。本来は十一月に入ってすぐに配布するはずだった。それが他の業務に押される形で後回しになっており、ようやく倉庫から引っ張り出してこれた。それらは埃を払うだけでよいと指示を受けていたのだが、いざ出してみると随分と汚れが酷かった。
それでジャンにも相談したところ、さすがに不衛生を極めそうなシーツや毛布を初冬に配るのは色々よろしくないだろう、ということで大量の洗濯業務が発生したのだ。
汚れと埃まみれのベッドで寝て、先日のレオンスのように風邪でも引こうものなら目も当てられない。オメガや隊長などの上級士官の者は個室を与えられているが、多くの兵士は大部屋にベッドを詰め込むような形で寝起きをしている。そこで風邪が流行れば、あっという間に蔓延する。そこから違う病が広がることもあるだろう。
兵が動けぬ要塞ほど陥落しやすいものはない。
そういう訳もあって、不衛生は敵だ。衛生班からも日ごろの衛生管理については、口を酸っぱくして全兵に伝えられている。それでも男所帯の要塞では、どうしても目の行き届かないところはあるが。せめて日々の体を休める場所については、多少は気を遣いたい。
「レオンスはさ、どういう相手が好みなの?」
氷水とは言わないが冷たい水でざぶざぶとシーツや手巾、毛布などを洗っていると、アメデが訊ねてきた。
「突然なんだよ」
「まーまーいいじゃない。僕たちの惚気話にも、そろそろ飽きたでしょ。レオンスの話を聞かせてよ。こんなに冷たい水だけ相手にしてたら、気持ちまで凍っちゃいそうだし」
「あ、それいいね。僕も聞きたい」
別に惚気話を飽きてなどいないし、なんならレオンスとしては、二人がパートナーと仲良くしている話をいくらでも聞いていたかった。こんな陰鬱で殺伐とした環境で、二人が楽しそうに話をするのはレオンスにとって癒しだったからだ。
けれど、そう考えているのはレオンスだけのようで、アメデとオーレリーは「早く早く」と、レオンスから様々な話を引き出そうと目を輝かせ始めていた。
「昔の恋人は? 一人もいなかった、なんてことはないんでしょ?」
「まあ、それはそうだけど……そんな話より、手をちゃんと動かせよ」
「ちゃんと動かしてるって。手も口もね」
ここ最近、ファレーズヴェルト要塞は比較的穏やかな状況が続いていた。穏やかといっても、東に連なる森や山を越えれば敵国ではあるし、大河の下流で繰り広げられているという戦火は勢いを増すばかりだ。
それでもこの要塞は、他の地域に比べたら断然平穏なほうである。
それゆえか、最近では些か緊張感のない会話を広げる兵も増えている。以前から不用意な会話を咎められるほど厳しく行動を制限されていたわけではない。非番であればカードゲームや酒などの余暇も許されていたし、任務中であっても——任務の内容次第ではあるが——私語を一切慎むように言われているわけではない。
だが、ここ最近はとくに『無駄話』に花を咲かせる傾向が要塞全体に漂っていた。むしろ、雑談や冗談の一つでも交わさないと……という空気ができつつある。
それに関しては、レオンスもわからなくはない。要塞周囲を取り巻く状況とは相反して、他愛もない話でもしていないと正気でいられなくなってしまうのでは……という不安が、主に徴兵で集められた兵士の中に流れて始めているのだ。
昨年の秋頃に始まったブランノヴァ帝国とベルプレイヤード皇国との戦争は、一年が過ぎた。
「レオンスは綺麗だから、いろんな人が放っておかなかったんじゃない? モテたでしょ」
「そんなことないよ。どちらかと言えば、近寄りがたいって言われる」
「あー、それは納得。高嶺の花って感じだもんね」
レオンスは観念して、アメデとオーレリーの話に付き合うことにした。
モテたかと問われれば、よくわからない。『高嶺の花』というのも自分としてはしっくりこない。声をかけられることはあったし、告白を受けたこともある。相手がいない独り身になってから六年以上が経っているが、過去に恋人もいた。時期は重なっていないが、今まで二人と付き合ったことがある。その状況をモテるとか高嶺の花とか呼ぶのなら、そうなのかもしれないが自分で自分を、しかも恋愛の側面を評価するのは少し難しい。
けれど、あえて言うのなら、自分よりも多くの人から恋慕を向けられている友人知人はいっぱいいた。だから特別、レオンスがモテているわけではないと思う。
それにレオンスの身近には、かなりモテる人物がいた。弟と妹だ。どちらもアルファだからなのか、かなりモテていた。身内贔屓ではあるが、二人とも見目が良いだけでなく愛嬌も愛想もいいのだ。
二人と比べて、レオンスは無愛想というわけではないが、かといって誰ともにこやかに話せるような性分でもない。自分の容姿が冷たい雰囲気を帯びている自覚はあるので、黙っていると「冷たい人」やら「不機嫌そう」といった評価をされる。その分、にこやかにすればいいのだが、どうにもそれが難しい。そうなるとレオンスに気さくに声をかけてくる人は少なかったし、レオンスだって気さくな性格でもなかった。
そういったところからか、「モテるよね」という言葉よりは「どうにも近寄りがたい」と言われるほうが多かった。
「高嶺の花って、なんだよそれ。モテてたら今でも相手がいるだろ。だから俺はモテてはない」
「そうかなぁ。レオンスのお眼鏡に適う相手が少ないだけでなく?」
さぁ、どうだろう、とレオンスは肩を竦めた。
お眼鏡と言われると、自分の狭量さを感じるような気がしたが、決してそういう訳ではないと思う。……自分では、そう思っているだけかもしれないが。
「で? 好みの人は?」
どうやらアメデは、レオンスをこの話題から逃がしてくれないらしい。
意外と押しの強いアメデは、こういうときは特に強い。きっとどんなに話をはぐらかしても、何か答えぬ限り同じ質問をされ続けるであろう。
仕方なしに、レオンスは当たり障りのない——けれど嘘偽りもない回答をすることにした。
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