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第一章
14. 厩舎
しおりを挟む厩舎の入り口から内部を覗くと、任務に出ていない馬たちが馬房にいるのが見えた。馬房から顔を出す馬の首筋を撫でている兵士や、おがや藁の用意をしたり、馬房を掃除している兵士などが数人いた。
その中に意外な人物がいるのが見えた。シモン・ブラッスール隊長だ。
いや、決して意外ではない。この厩舎にはシモンの愛馬もいるので、彼が会いに来てもおかしくないし、出立の予定があれば自ら愛馬を迎えにも来ることもあるだろう。ただ、シモンが厩舎にいる様をレオンスが今まで見たことがなかっただけだ。
青毛の愛馬の首筋を撫でながら、シモンはその愛馬に向かって何やら話しかけているようだった。時折見かけるときの、指揮者然とした威厳のある雰囲気は消え、愛馬を見る目は穏やかだ。そんな黒髪のシモンと、彼の愛馬が並ぶ姿はまるで絵画のようで、レオンスは息をするのも忘れて見入っていた。
と、その穏やかな双眸が不意にこちらに向けられ、レオンスの瞳とぶつかった。
「あ……」
そんなつもりはなかったが、覗き見をしていると思われたかと、やや焦る。
シモンはそんなレオンスの内心を知る由もなく、愛馬の首をぽんぽんと優しく撫でたのち、なぜかレオンスのいる厩舎入り口の方へと歩いてきた。
「レオンスか。どうした? 君たち、今日は貯蔵庫の在庫確認ではなかったか?」
こんな末端兵の予定まで把握しているとは思わず、レオンスは驚いた。
それに、自分に話しかけてくるなんて思ってもなかった。たしかに先ほど目があったので何か声をかけられるのは道理ではあるが、レオンスの任務は彼と接点がほとんどないので直接話したのは数えるほどしかない。相談事は班長のジャンにすればいいし、第九部隊全体を指揮する隊長への報告はジャンから伝えられるからだ。
すれ違えば挨拶はするし、その際にはレオンスたちオメガを気にかけてくれるような言葉をかけてくれもした。不都合なことはないか? 困ったことはないか? といったような言葉を。隊を束ねる長ともなれば、不穏分子になりかねないオメガのレオンスの状態を把握するのは何らおかしなことではないけれど。
無論、そういう問いには丁寧に答えていたが、実のところ、レオンスはシモンが少し苦手だった。
気遣いの言葉と共に、彼はいつもレオンスに対して感情の読めない視線を向ける。それはほんの一瞬のことだけれど、レオンスは彼から向けられる視線に気づいてはいた。ただし、その意図は今なお、わからないままだ。
そのくせ、この軍人然とした男が放つフェロモンはレオンスの性を刺激して、彼に近づけば不思議と落ち着く心地がしてしまう。
シモンと接するときは、そういった相反する二つの感情が混じるので、レオンスはつい苦手意識を覚えていたのだ。
(ほんと、この感覚慣れないな……落ち着くけど、そわそわする)
今この瞬間も落ち着く匂いと裏腹に、感情の読めない視線を向けられている。相も変わらず、その意図はわからない。
ただ、いつもは一瞬だけ向けられては逸らされる視線がずっと絡まっていて。それでいて、疲れた体には彼のフェロモンが沁み入るようで。だからレオンスの心はざわついて、何も言えないでいた。
薄い氷が張ったような水色の双眸は目の前のシモンを静かに映し出し、無言で見つめていた。
「……レオンス?」
「え? あ……ああ、はい。貯蔵庫での作業は完了しました。何か手伝えることはないかと、こちらへ」
問いに答えずにぼーっとしていたレオンスに、シモンが不思議そうに名前を呼んだ。それでレオンスは、ようやく我に返った。
「ふむ。ジャンは何と?」
深い森のような色をした瞳が探るようにレオンスを見ている。
「今日はもう上がってよいと。……あの、もしかして邪魔をしたでしょうか?」
もしや今日厩舎に来るのはまずかっただろうかと、今さらながら思った。
任務如何によっては、担当者以外が特定の場所に近づくことを禁じられることもあるのだ。それは内容の秘匿性ゆえだったり、兵器を使用するための危険性ゆえだったり、理由は様々ではあるが、そういう禁止令が出る場合は班長などから通達がある。
今日、厩舎へ立ち寄り禁止の令は出ていなかった気はするが、レオンスは貯蔵庫にこもっていたし、今日は朝早くから行動していたので連絡を聞き逃してしまった可能性もある。しまったな、と思いながらレオンスはシモンの返答を待つ。
「レオンス、君は……」
「はい」
目の前の男を、レオンスは見上げていた。
立派な体躯をもつ上官。黒髪に、濃い緑の瞳を持つ美貌の軍人。彼の地位から察するに、アルファという性に相応しいエリート。その男が、頭一つ分以上も背が違うオメガの自分をじっと見ている。
沈黙が流れ、レオンスが居たたまれなくなってきた頃、シモンはそっと目を閉じて息を吐く。やはり何かやらかしたかと思っていると、シモンが口を開いた。
「……いや、何でもない。特に邪魔ということはないが、ジャンが上がってよいと言ったのなら、仕事を探さずとも休んでくれて構わないんだがな。例の抑制剤の副作用が出る日があると報告も受けている。休めるときに休むのも仕事のうちだ」
よくよく見ると、呆れたような視線がレオンスに向けられていることに気づく。
もしかしたら、副作用で十全と働けないオメガに呆れているのかもしれない……。
たしかにシモンの言うように、副作用で体調がよくない日があることはジャンにも報告してある。なので、ジャンからシモンへ共有がいっているのだろう。部隊をまとめ上げるシモンとしては、頭の痛い話に違いない。
しかし、休めるときに休むのも仕事のうちと彼は言うが、レオンスたちオメガ三人に与えられている仕事はアルファやベータの兵士から見れば負荷の低いものばかりだ。
発情期のこともあるし、オメガがいることでアルファとベータも何かと気を遣わなくてはならないのは、避けようのない事実として存在する。オメガがいないほうが任務を行いやすい面もあるだろう。
まして、彼はアルファ。エリートたる男が、劣る性と揶揄された歴史のあるオメガの自分を疎ましいと感じていても、なんら不思議はなかった。
なるほど、たまに投げられるあの視線は「嘘をつくな」という懐疑の視線だったのかもしれない。
そう思い至ったレオンスは妙な納得感と、それでいてどこか胸の奥をチクリと突き刺されたような感覚を覚えた。
「ありがとうございます、ブラッスール隊長。ですが今日は朝から体調も良いので、ご心配には及びません。俺にもできることがあれば、ぜひ手伝わせてください。みなさんが任務にあたっているのに休むのは性に合わなくて」
レオンスはなるべく丁寧に、しかして慇懃無礼にならないように気をつけながら答えた。
実際のところ、彼にどう思われているかはわからないが、要らぬ喧嘩は売るべきではない。まして目の前の男は、自分が所属する隊の長であり、アルファなのだ。雑兵でオメガのレオンスが何かしでかそうものなら、捻りつぶすことも可能だろう。
世辞に長けろとは言わずとも、当たり障りのない言葉で世を生き抜く大切さを知っている。
そんなレオンスの内心に気づいてか否か、シモンは小さくため息をついてから、レオンスに言った。
「それならば、しばし私に付き合ってもらえるか?」
「…………へ?」
呆れた視線からのため息。そんな彼から想像していない言葉が漏れ出て、レオンスは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「私の馬を少し走らせたくてな。馬具の取り付けを手伝ってくれ」
「あ、ええ……俺でよければ、もちろん」
なんだ、そういうことか、とレオンスは承諾した。
部隊隊長の手伝いとはなんとも緊張するが、手持無沙汰でだらだらと時間を潰すよりは、よっぽど有意義な時間を過ごせそうだ。
頷いたレオンスを見たシモンは、あの視線でも、呆れた表情でも、ため息でもなく、軍人には似合わぬ小さな笑みを浮かべ、愛馬のいる馬房へと戻っていった。
その小さな笑みを見て、レオンスの心に一瞬——ほんの一瞬だけ、強い風が吹いた気がした。
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