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逃亡生活

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「エデン……」

『逃げられた』

 ──そう思った。
 だってそうじゃないか。俺はこうなって当然の事ばかり彼女にしてきたから、当たり前と言えば当たり前だ。
 でも、いざ、こうして目の前から忽然と蒸発されると喪失感が半端ない。
 いつかはこうなるんじゃないかと思っていたのに、俺は目先の欲に駆られてエデンを信じた。その結果がこれだ。
 それでも、空になった腕の中には少しだけエデンの温もりが残っていて、今ならまだそう遠くへは行っていないと思った。
 王室に位置情報がバレる事を危惧してGPSやスマホ類は置いて来た。捜すなら足で捜さないと。
「エデン!」
 俺は裸足のまま車を飛び出し、朝靄の中、周辺を捜索した。
 キャンプ場やアスレチック、それこそ草の根掻き分けて林の中まで荒らし、そこで沢に下りる小道の方から水を絞る様な音がして、俺はそっちに下りてみた。
 すると苔むしる岩肌を流れる清流の脇にエデンが膝を着き、濡らしたハンカチで体を拭いているのが見えた。
「エデン!」
 俺が息せき切って駆け寄ると、普段通りのエデンが俺の方を見上げる。
「そんなに慌てて、怖い夢でも見たの?」
「ある……意味ね」
 俺は気が抜けて膝から崩れ落ちそだった。
「こんな朝早くから水浴び?お風呂やシャワーならどっかに入りに行くのに」
 エデンがシャツの裾から手を差し込み、自身の胸板を拭いていて、そこから垣間見える臍がちょっと新鮮でエロくて、俺は人知れずゴクリと生唾を飲む。
「いや、たまたま散歩で汗をかいたから。後できちんとシャワーさせて」
 散歩?
 汗をかく程の散歩を?
 体を拭くのが本来の目的じゃなかったってのは分かった。
 ふとエデンの脇に目をやると、そこに青い花の束が。
「それは?」
 エデンが花に興味を?
「散歩してて綺麗だったから気まぐれに摘んだんだよ」
「……車に飾るの?」
 逃亡中なのを忘れてるんじゃないか?
「昨日買った地図があるでしょ?あれに挟んで押し花にしようかなって」
 そう言ってエデンは本を閉じる様なジェスチャーをする。
「まあ、綺麗な花だし、いいんじゃない?」
 再度思う。
 エデンが花に興味を?
 情緒は大丈夫か?
「あの」
 俺はちょっと躊躇いがちに切り出す。
「ん?」
「また折り紙折ったりしないよね?」
 あのご乱心ぶりはちょっとしたトラウマでもある。しかもあの時はカザンの人格だった。
「折らないよ」
 エデンがフッと笑ったので俺も一安心する。
 良かった。本当に。
「今、靴を持って来てあげるから、川で足を洗うといいよ」
「えっ、あぁ、ありがとう」
 自分が裸足で、尚且つ泥だらけである事に今気付いた。
 こんなに慌てて、恥ずかしい。
 ちょっと姿が見えなくなっただけでこれだ。改めてエデンの事しか見えな過ぎて辛い。
 エデンがタオルと靴下と靴を持って来てくれて、俺は川岸にある岩に腰掛けて足を洗い、それを彼女にタオルで拭いてもらう。
「自分で拭けるのに」
「そうだね。でも、ほら」
 エデンが俺の足を拭いたタオルを広げて見せると、そこに僅かだが血がこびりついていた。
「あれ」
 エデン捜索に夢中で気付かなかった。
「足の裏を擦り剥いてる」
 エデンはズボンのポケットから消毒液と絆創膏を取り出し患部の処置をしてくれると、そのまま靴下と靴まで履かせてくれた。
「私が逃げたと思ったんだ?」
 そりゃこれだけ派手に動揺してたんじゃあバレるよね。
 恥ずかしい。
「思った。でも逆に今は、逃げられていなかった事に驚いてる」
「奇跡?」
 再びエデンがフッと笑う。
「奇跡」
「GPSもついてないのにね。他に行くとこがなかったんだよ。家族がいるのにおかしな話でしょ?」
 エデンの笑顔が自嘲気味に見えた。
「だから、あんなの家族じゃないよ。俺が家族にも恋人にも友人にも何にでもなってあげる」
「ペットは?」
「え」
 一瞬、エデンに足蹴にされる首輪姿の自分を想像した。
「それは──」
 恥ずかしい。
 俺は口元を押さえ、耳を赤くした。
 めっちゃ変態。めっちゃ恥ずかしい。無理無理。
「冗談だよ。私は最初からお前の事を家族だと思ってたよ」
「今は?」
 万里と杉山さんから引き離された今でも、同じ事を思うのだろうか?
「共犯者、かな」
 そりゃそうか。そうだよな。俺はそれだけの事をしてきたんだから、友人とさえ言ってもらえないよな。
「さて、今日は私が運転するから、今度は海に行こう」
 エデンは反動をつけて立ち上がった。
「海?暫くここに滞在するんじゃないの?」
「そのつもりだったけど、もうここに用は無いし」
「用?」
 ここにはエデンに推されて来た。エデンは始めから何かしらの目的があって来たのか?
「国定公園に無い植物も見られたし、次は故郷の海とは違った海岸を見に行こう」
 エデンは観光気分なのか?
「なんか2人で世界を旅行してるみたいだね」
「楽しい?」
「エデンと2人なら何処だって楽しいよ。エデンは俺の楽園だから」
 捕まったらエデンと二度と会えなくなるリスクはあるけど、それでも、そのリスクを取ってでもエデンと一緒にいたかった。例え全世界を敵に回そうと、彼女から憎まれようと、俺はそれでも良かった。
「馬鹿だね、お前は」
「馬鹿かな?」
「私に執着しなかったら人並み以上に幸せになれたのに」
「俺は今が1番幸せだよ。好きな人とずっと一緒にいられるんだもん」
「幸せって、得られてからが不幸じゃない?」
「どういう意味?」
「いつ、その幸せが奪われるか、気が気じゃなくなるでしょ?」
「……」
 エデンがそんな風に思うのは、俺がことごとく彼女の幸せを奪ってきたからだ。
「俺、エデンが不安にならないくらいエデンを幸せにするよ?」
 これは決して罪滅ぼしじゃない。でも敢えて言うなら俺の独りよがり、か。
「氷朱鷺といたら不安にならないよ」
「それってどういう──」
「さあ、行こう。今日も沢山走るよ」
 エデンは俺の言葉を遮り、さっさと駐車場に行ってしまった。
「……」
 さっきの言葉が何を意味しているかなんていいんだ。俺はただ、エデンといられれば、それで──

 俺達は身支度を整え、エデンの運転で海へと走り出した。
 今朝は昨日の雨が嘘みたいにカラッと晴れ、ラジオから流れるポップな音楽が俺の気分を上げてくる。
「……」
「……」
 特に何を話すでもないのに、エデンの隣にいられるのが楽しい。
「エデン、チュロスでも食べる?」
 俺が助手席で鞄を漁ると、エデンはハンドルを握りながら微苦笑した。
「氷朱鷺が食べな」
「あっ!そうか、エデンは奥歯が……」
 はしゃぎ過ぎて失念していた。
「やっぱりギョニソー?」
「え、いいよ」
 エデンが嫌そうに助手席側の肩を持ち上げる。
「なんで?」
 何、その反応。
「何か嫌」
「何でさ?」
 頑なに拒否されると逆に面白くなってくる。
「なんか氷朱鷺の前で棒状の何かを食べたくない」
 棒状の何か……なるほど。
「エデン、意識の仕方が独特だよ」
「私、朝は食べないからいいんだよ。氷朱鷺が棒状の何かを食べなよ」
「そんな反応されたら俺も食べづらいじゃん」
「昨日は食べてたじゃん」
 こんなくだらないやり取りすら1秒後毎に美しい思い出になっていく。
 結局、俺達は昼まで飲まず食わずで、途中、コンビニでサンドイッチと弁当と飲み物を買って海岸でそれを食べる事にした。「結構、風が強いね」
 エデンは風で乱れた髪を束ね、ヘアゴムで留める。
「髪、伸びたね」
 カッコイイ女性が髪を束ねる姿はどうしてこう禁欲的なのにエロいのか。エデンの遅れ髪が風でなびいて、いつもより彼女に大人っぽさを感じる。
「ずっと切ってなかったからね」
「カラスみたいに真っ黒で、七色の光彩がすっごく綺麗だ」
 触りたい。
 俺はエデンの盾になる様に防波堤の風上に座り、その横に彼女が腰掛けた。
「一度、真っ白になったんだよね」
 エデンがポツリと言った。
「え?」
 風の音でよく聞こえなかった。
「いや、食べよっか」
「うん?」
 キラキラと光る波模様を見ながら、俺は弁当を、エデンはサンドイッチを食べる。目の前の砂浜にはカップルがいて、砂を掘ってみたり、スマホでツーショットを撮ったりと楽しそうにしている。
「……」
 普通のカップルだ。
 何処にでもいる、ごくごく普通の、平凡なカップル。当たり前に愛を語り合ったり、触れ合う、当たり前のカップル。
 羨ましい。
 逆に、俺等は周りからどんな風に映るのだろう?
 やはりカップル?
 逃亡中の元調教師兼元献上品と王女の王配だなんて、誰が思うだろう?
 手を止めていちゃつくカップルを見ていると、俺は現状に満足していた筈が、単に我慢していただけで、不満だらけだった事に気付く。
 エデンとあんな風にカップルになれたら──
 目の前のカップルが妬ましい。
 これから長い時間を過ごすうちにエデンが心を許してくれる事は……あるのだろうか?
 弟と恋人を奪った男に?
 目の前のカップルがとても妬ましい。
「はたから見たら、俺等は何に見えるんだろう?」
「はたから見たら?」
 エデンはサンドイッチを食べながら聞き返した。
「うん」
「海見ながら昼ご飯食べてる人」
「うん、そうなんだけどさ」
「何?」
「どんな関係性に見えるのかなって」
「あぁ、昼ご飯を食べる恋人同士に見えるんじゃない?」
「やっぱり?」
 少し嬉しくもあったけど、実際は曖昧な関係なので手放しでは喜べない。
「でも実際は違うけど、エデンのさ、月のものが終わったら、何か少しでも変わる、かな、なんて」
 俺は一言一言、探る様に尋ねた。
「氷朱鷺は変わるの?」
 エデンはサンドイッチを食べ終え、ボトルのお茶に口をつける。
「変わるよ、凄く。もっとエデンが好きになる」
 俺はエデンの横顔に熱く語った。
「意外。やったら感情移入するタイプには見えなかったのに」
「エデンは違うの?」
 あぁ、でも、俺はヤサカ相手には感情移入出来なかったけど。
「身持ちは堅い方だけど、やる事を神聖視してないし、場合によっては蛮行の様にも思えるから……相手にもよるかな」
「あっ!ごめん。忘れて!」
 しまった。
 自分の事ばかり考えてエデンに凄惨な過去を思い出させしまった。
「大丈夫、こんな事でカザンにはならないよ」
 エデンはこちらを向いて微笑む。
「そんな心配してたんじゃないよ」
「別に腫れ物扱いしなくても平気だから。あれは私の身に起きた事じゃないし」
「エデン……」
 そんな事を言ってしまうエデンが悲しい。
 月のものが終わったとて、エデンを抱いていいものだろうか?
 エデンが可哀想で胸がギュッとなる。
「ごちそうさま。ちょっと釣具屋に行ってくるから、食べてて」
 未だ食が進まぬ俺を置いて、エデンは道向かいの釣具屋へ走り出した。
「え、釣り?」
 エデンは海沿いで暮らしていたから、意外と釣りが好きなのか。
 俺がエデンの動向を目で追っていると、彼女は釣具屋からまっしぐらに堤防まで行き、テトラポットに下りて何かしていた。
 竿を持っていなかったけど、針と糸と重りを買って……テトラポットでフナムシか何かを餌に穴釣りでもしてるのか。
 テトラポットに糸を垂らし、小刻みに上下させるエデンの姿が見える。
 時間がゆっくりして見える。
 逃亡中なのに、なんか平和だ。
 大型犬を散歩させるおじさんが目の前を通ったが、俺等の正体には全く気付かない。
 根無し草だけど、こういう生活も悪くないな。
 俺は釣りをするエデンを眺めながらマイペースに弁当を食べ進め、完食後に彼女の元へ様子を窺いに行った。
「晩御飯のおかずは釣れた?」
 エデンの背中に問い掛ける。
「クサフグが釣れたよ」
 ──とエデンが背中で答え、俺は背中に冷たいものを感じる。
「俺を毒殺しようとしてないよね?」
 俺が邪魔になったとか?
「大丈夫。海に戻したから。でも小さいのは食べれるのもいるんだよ」
 エデンはそう言いながらテトラポットの隙間を覗き込んでいる。
「なに、そのロシアンルーレット。絶対海に戻して」
 ※絶対食べないで。
「分かってるって」
「他には釣れないの?」
「根魚は釣れるかもしれないけど、重りが軽いし、この場所は今、クサフグの最盛期だから」
「ふーん、詳しいね」
「調べた」
 針と糸で即席的に釣りをしているエデンを見ると、こんな逞しい女性は他にはいないなと舌を巻いてしまう。
 惚れ惚れする。
「ねぇ」
「ん?」
「ミミズを触った手でチンチンを触るとちんこが腫れるって言うじゃん」
「え……うん……」
 なんでチンチンの話になった。
 俺は一歩引いてエデンの話に耳を傾ける。
「クサフグを触った手でチンチンを触ったらどうなるのかな?」
 今、全男性が震撼した。
「え、え、何、怖い」
 まさか俺で試そうってんじゃあ……
 俺は色んな所が竦み(縮み)上がった。
「いや、ふと思って」
 普通、ふと思わないでしょ。
「エデン」
 俺は真剣な面持ちでエデンの背中に話し掛けた。
「何?」
 エデンは釣りに夢中で生返事だ。
「終わったらちゃんと手を洗って」
「えー、うん」
 これは念押ししないといけない返答だ。
「ちゃんと洗ってよ」
「はいはい」
 凄い不安な返答だ。
「洗ってから触ってよ」
 これは本気半分。冗談半分。
「私が氷朱鷺のソレを触る時は切断する時だよ」
「こ……」
 なにそれ、怖……
「そろそろ帰ろっか」
 そう言うとエデンは店じまいし、さっさと車に戻ってしまう。俺は慌ててその後を追い、2人で車に乗り込んだ。
 エデンの運転でまた何処かへと走り出し、俺は助手席でウトウトとうたた寝する。そんな時、微音で流れるラジオから気になる情報が飛び込んできた。
『──現在、警察と王室では行方知れずとなった2人を捜索中──』
「えっ」
 一気に目が覚めた。
 断片的ではあるが、今の情報は明らかに俺達2人の事だとわかった。
「やっぱり捜されてるね」
 エデンが落ち着き払った様子でラジオの音量を上げたが、話題は既に次のニュースになり、詳細までは確認出来なかった。
「検問とかあるんじゃない?」
 俺はさっきまでピクニック気分でるんるんだったのに、今はだいぶ焦燥としている。
『行方知れず』という報道内容から、少なくとも表向きは誘拐ではなく、あくまで俺とエデンの行方不明という事なのだろうけど、これは多分、王室のヤサカへの配慮から俺の罪状が伏せられているだけと推察出来る。
「そうだね」
 エデンは真っ直ぐ前だけを見つめ、漁村の細い小道へとルートを変えた。
「いつまで、何処まで追いかけられるんだろう」
 今はまだ有り余る逃走資金で暮らせているけど、2人で幸せな一生を終えるまでに定住する家とか仕事とかが必要になる。そうなるとやはり王室の息が届かない遠い国に亡命しないと。なんとかそこまで逃げ切れればいいけど……
 俺は神なんて信じていなかったが、この時ばかりは神に祈った。
「氷朱鷺は後悔してる?」
「してないよ、全然。俺はエデンを手に入れる為だけに王配になったんだ。エデンと一緒にいられるならどんな事をしても逃げ切ってやる」
「心強いね」
 エデンがフッと笑う。
「エデンは後悔してる?」
「私から誘ったんじゃん」
「そうだけど、色々と考える事はあるでしょ?」
「ないよ。全然」
 俺と逃げる事に迷いはなかったって事か。こんな時だけどちょっと嬉しい。
「そんな辛気臭い顔してないで、どうせなら楽しんだら?」
 辛気臭い顔……してたかもしれない。しかし生真面目なエデンにしては楽観的だな。俺とエデンとでは誘拐犯とその被害者という立場の違いがあるからか?
「今夜は砂浜でキャンプファイヤーでもしよう。買っておいたマシュマロでも焼いてさ」
「緊張感無いなあ」
 それはもうびっくりするくらいに。
「捕まるかも、なんて思ってないからね。それに寂れた漁村で、後ろが断崖絶壁の海岸になんて捜しに来ないよ」
「そう、かな」
 不安は拭い去れないけれど、もし万が一、エデンと引き離される事があったら、俺はエデン諸共その場で心中する覚悟だ。
 俺は地肌に括り付けられた拳銃を服の上から確認する。

 これはエデンが調教師の時に配給されたあの拳銃だ。

 夜になり、俺達はエデンの宣言通り人気の無い海岸で焚き火しながら割り箸にマシュマロを刺して焼いていた。
 膨張するマシュマロ、緋色に照らされるエデンの真剣な顔、なんだかシュールだなと思った。
「いい匂い」
 エデンはマシュマロをくるくる回し、均等に膨らむ様、微調整している。
「キャンプなんてした事がなかったから、こうしてキャンプファイヤーでマシュマロを焼くなんて初めて」
 その割無表情だけど。
「俺も。普通の家庭だと父親が張り切って子供をキャンプに連れてくみたいだけど」
 俺もエデンを見習ってマシュマロを焼いていくが、割り箸が微妙に短くて指先が熱い。
「氷朱鷺の父親はどんな人なの?」
「つまらない人だよ。でも、まあ、キャンプというかサバゲーが好きな人ではあった」
 単に『サバゲーが好きな人』悪い意味で、それ以上でもそれ以下でも無い人だった。
「仲良かった?」
 父が戦場やサバゲー会場にいない時は、家で俺がモデルガンの標的になった。向こうは遊びのつもりでも、俺には苦痛の日々で、なんとか戦死してくれないものかと天に祈るばかりだった。
「全然。父は家に殆どいなかったから」
 人は、焚き火の前ではオープンになると言うが、確かに隠し事をする気にはならない。エデンも、普段、興味の無い俺に少しは感心がある様だった。
「そっか。友達はいた?幼馴染とか」
「いた様に見える?」
 残酷な質問だなあ。
「そうだね。ごめんね、寂しい思いをしたね」
「……」
 エデンの同情が俺の幼心を刺激する。
「何でそんな事を聞くの?」
「氷朱鷺が私に執着するメカニズムを知りたくて」
 エデンは燃え上がる炎を見つめ、マシュマロをうっすら焦がしていく。
「メカニズムって、俺はただ……」
「寂しい子供時代に、私が氷朱鷺を助けてしまったから、今、こうしてお前を苦しめているのかなって」
「俺はエデンに出会えて幸せだよ。一緒にいられない事の方が苦しいし」
「そっか。焦げてるよ」
 俺が熱くなりかけていると、それをかわす様にエデンが俺のマシュマロを顎で指した。
「あ、黒焦げだ」
 慌ててマシュマロを火から離したものの、その半分は黒焦げになり、煙を上げている。
「私のは良く焼けたから、これをあげる」
 エデンが程よく焼き上がったマシュマロを差し出し、俺はそれをそのまま受け取っていた。
「じゃあ、俺のはエデンにあげる」
 エデンに半分炭化したマシュマロを突き出すと、彼女は笑ってそれを拒絶する。
「嫌だよ、かりんとうじゃん。癌になっちゃうよ。もっかい焼いて」
「じゃあ、ピンクのマシュマロを焼いてあげる」
 俺は炭化したマシュマロを割り箸ごと焚き火にくべると、袋からピンクのマシュマロを取り出し、それを割り箸に刺して焼いていく。
「じゃあ私はソーセージを焼いてくね」
 エデンは傍らの保冷バックからソーセージを取り出し、それを割り箸に刺して焼いていく。
 俺はエデンから貰ったマシュマロを食べつつ、ピンクのマシュマロを焼いた。
「何か、テレビで見るスモア?って凄く美味しそうに見えたけど、単にニチャァってしたマシュマロだね」
 熱々のマシュマロをひと齧りしただけで歯に纏わりついてきて、甘さを増幅させたそれが口で溶ける。
「初めての焼きマシュマロ、不味い?」
 エデンが子供でも見守るみたいににこやかに微笑んだ。
「不味くはないよ、不味くはないんだけど、甘い歯磨き粉が口の中に広がる感じで……」
「嫌い?」
「嫌いとかじゃないよ、嫌いじゃあないんだけど、なんか、こう……」
 上手く表現出来ない。
「正直に言いなよ」
 クスクスとエデンが笑ってソーセージを焼いている。
「正直だよ。エデンが焼いてくれたマシュマロだもん、不味い訳ないじゃん」
「氷朱鷺はいつも私を全肯定してくれるね。ありがとう」
 最近ではずっと敵意を剥き出しにしていたエデンが、この時ばかりは優しくて嬉しい。これも焚き火効果か?
「だから不味い訳じゃないんだって」
 上手く伝えられないのが歯痒い。
「分かってるって笑、焼かない方が美味しいんでしょ?」
「まぁ……」
 それだ。
 そこで俺達2人は顔を見合わせて大笑いした。
 こんなに大笑いしたのはいつぶりだろう?
 こんなに大笑いしたエデンを見たのもいつぶりだろう?
 まるで楽しかった頃の献上品時代に戻ったみたいだ。
 ずっとこんな日々が続けばいい。この日常を守る為ならなんだってする。
「フグ以外が釣れてたら焼き魚にしたのにね」
 エデンは残念そうに膝に肘を着いた。
「子供の頃って、屋台やイベントで売られる魚の串焼きを、老人しか買わないだろって思ってたけど、成長したら、ちゃんとその味が解かるようになるんだもんね」
「そうだね、味覚は変わるかもね」
「子供の頃は何が好きだった?」
 この際、エデンの事を色々聞き出してみたい。
「奥歯が生えてた頃?」
「奥歯が生えてた頃」
「ええと……ゼリー?」
 暫く考え、絞り出した答えが『ゼリー』
「奥歯が生えててもゼリーなんだ笑」
 エデンがZ世代みたいでかわいい。
 俺は思わず目を細めてしまう。
「奥歯関係無いじゃん」
「好きかどうかは解らないけど、貧乏だったし、母が料理という料理をしなかったから、海から海藻を採って来て、その成分で砂糖水を固めて食べてた」
「あんみつのあの透明なやつみたいに?」
 俺がエデンを指差すと、彼女もそれに合わせてこちらを指差した。
「あ、そうそう、そんな感じ。でも成長して戦地で支給された携帯食を食べた時、こんなに美味しい物が世の中にあるのかと驚いて、下の子達の為に少しずつ溜めて持ち帰ったもんだよ。それが食べる物が豊かになった今、あのゼリーを食べたら、マズッて思うかもね」
「苦労したんだね」
 しみじみ思う。
「氷朱鷺は?」
 エデンは焼いているソーセージに視線を落とした。
「奥歯が生えてた頃?」
 俺がトンチをきかすと、エデンは持っていたソーセージを振り被るジェスチャーをして俺を威嚇する。
「ソーセージでぶん殴るよ?」
 俺は両腕で防御の体勢をとり、笑ってエデンに謝った。
「ごめんて。でも、そうだな……俺はね、エデンが作ってくれたオムレツかな?」
 あのブツブツしたオムレツは未だ鮮烈に記憶に残っている。
「そこまで子供の頃じゃないじゃん」
 でもぱっと思い浮かんだのがそれだった。
「でもそうなんだ。俺の思い出の味だよ」
「ふーん」
 エデンは気の無い返事でまたソーセージを焼く。
「また作ってよ」
「いいよ」
 それからエデンは何の前触れも無くいきなり切り出した。
「氷朱鷺の本名って?」
「え」
「本名があるんでしょ?」
「本名……」
 あるにはあるけど……
「言いたくない程変な名前なの?」
「いや、普通。いや、苗字は有りそうで無い、変わった苗字か。そのせいで改名を余儀なくされたんだけど」
 焚き火の前では人はオープンになると言うが、俺の本名に関しては、この世に存在しない名前になってしまったので言わなくていいもののように感じる。それに俺は白井氷朱鷺としてエデンに出会い、生きているのだから。
「なんで?」
「父親が犯罪者で、俺は世間から隠れる様に生きてたから」
「それを私が何も知らずに献上品にしてしまったんだ?」
「うん、ごめん、黙ってて。でも父親とは完全に縁を切って、名前まで変えてたから、もう関係ないよ。ただ杉山さんは探偵か何かを雇って俺を調べ上げたみたいだけど」
「杉山さんらしい」
「……」
 エデンと杉山さんの話をするのは気が引ける。
「つまらない名前だし、もう捨てた名前だから、変わらず氷朱鷺って呼んでよ」
「うん。ほら、ソーセージが焼けたよ」
 エデンが旨そうに焼けたソーセージを焚き火の脇から俺に差し出してきた。
「エデンは?」
 俺にばかり食べさせて、エデンは何も食べないのか?
 杉山さんの話をしたから?
 罪の意識が俺の胸を突き刺す。
「マシュマロ焼いてくれたでしょ?」
「えっ、あっ!」
 またやってしまった。
 ピンクのマシュマロも前回の二の舞いになってしまった。
「ごめん、また焼くよ」
 俺は失態でシュンと肩を落とす。
「いいよ、焦げてないとこだけ食べるし、後は焼いてないのを食べるから」
 エデンからマシュマロを奪われ、代わりにソーセージを持たされた。
 俺、ポンコツだ。
「私達って、スモアに憧れ過ぎてたかもしれないね」
 そう言って笑って許してくれたエデンが尊い。
「焚き火への憧れもあるよね。何か焼いて食べたくなるじゃん。テレビの影響かな。俺達恵まれた幼少期じゃなかったから、なんてこと無いイベントに挑戦したくなっちゃうのかも」
 エデンがマシュマロの焦げていない部分を食べているのを見届けて、俺もカリカリのソーセージにかぶりつく。
 旨っ。
 室内で食べるより美味しい気がしているのは、やはり外で食べるからか。
「それはあるかもね」
「夜の海で花火とか」
 エデンと恋人同士がする様な事もやってみたい。
「目立つよ笑」
「肝試しとか」
 怖がるエデンが俺にしがみついてくる妄想が止まらない。
「私、お化け怖くないよ」
 ──ですよね。そうだと思った。逆にエデンの怖いものとは?
「俺は信じてないけど。見た事無いし」
「見てるけど気付いてないだけだよ。普通の人と見分けがつかないとか言うし」
 意外だ。エデンはお化けを信じてるんだ。現実主義かと思ってた。
「そうかな?俺、霊感無いんだけど」
「例えば船幽霊とか、海だし、ここからでも視えるかもよ?」
「船幽霊?」
「海に出る幽霊だよ。柄杓を貸してくれ~ってやつ。この時、穴の空いた柄杓を渡さないと柄杓で水を盛られて船を沈められるんだよ。だから昔の漁師は船に穴の空いた柄杓を積んでるとか」
 怖い話をしているのに、エデンは日常会話でもするみたいに自然と語っている。
「漁師町に住んでたけど初耳だ」
「怖い?」
「別に。でも船に乗る時は穴の空いた柄杓を積む事にする」
「信じてないのに?」
 エデンはマシュマロの焦げた部分を残し、それを焚き火にくべる。
「信じてないけど、船にアシカとかラッコが乗船してきたらそれで追い払えるじゃん」
「いいじゃん、乗せてあげなよ」
 エデンは片膝をてこにして流木を折ると、それを焚き火にくべていく。
「獣の方が怖いよ。それにあいつら、思ったよりデカイらしいし」
「確かに。アシカに関しては鳴き声も衝撃的で怖いしね」
「野生は怖いよ」
 そんなこんな言いながら俺達はダラダラ夕食を食べ、雨が降り出したタイミングで海岸脇に停めていた車で床に着いた。
 寄せては返すさざ波の音に雨音が混ざり、その物悲しさに、より不安感を助長させられる。
「エデン、もう勝手に俺の腕から出て行かないでよ」
 後ろからエデンを抱く俺の腕に力がこもる。
「ん」
 エデンは自分の腕を枕に僅かに頷いた。
「こうして抱き留めてないと不安で堪らなくなる」
「……」
 俺が切々と懇願するも、エデンからは何のアクションも無い。それでも、言わずにいられなかった。
「お願いだからいなくならないで」
 俺はより強くエデンを抱き締め、その肩に顔を埋める。
「……」
「エデン」
「……」
「もう寝ちゃった?」
「……」
 その夜、波の音がずっと俺の不安を煽り続けた。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

社長の奴隷

星野しずく
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