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愛の逃避行

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「なんだって?」
 エデンの言葉に、俺は耳を疑った。

『私と一緒にこの城を出てほしい』

 そう言ったか?
 飲み過ぎたか?
 酔っ払い過ぎたせいで幻聴が?
 でも目の前のエデンはリアルで、綺麗で、可愛くて、愛おしくて、まごうことなき本物だ。
 まさか──
「お前、カザンか?」
 からかわれてる?
 エデンかカザンか、当然ながら見た目には判らない。
「私は春臣と結婚する気はない」
「でもあんなに仲睦まじそうにしてたじゃないか」
「春臣自体は悪い奴じゃないよ。でも私に第1王子の妃なんて荷が重すぎる。それに春臣に取り入ったのはカザンで、私には止められなかった」
 それが本当だとしたら、今、城の脱出を打診しているのはエデン本人という事になる。
「カザンは?」
 2人は記憶や経験を共有しているんじゃないのか?
「今は疲れて眠ってる。ずっと動き回ってたからね。それに私の方が本体なんだから、心に隙が出来ない限りは乗っ取られたりしないよ」
「そう、なんだ……春臣の事が好きな訳じゃあなかったんだ」
 ホッとした。
「春臣には、もっと相応しい女性がいる筈だから……」
 そう言ってエデンは少し寂しそうな顔をした。
 本当に、心からそう思ってる?
 多少取っ掛かりはあったが、エデンが俺を選んでくれると言うなら目を瞑れた。
「俺の事、殺したい程憎んでたんじゃないの?」
「でも殺せなかった」
「そうだけど、俺を選ぶのがどういう事か解ってる?」
 これは謂わば駆け落ちだ。第1王子から奪う、逃げるとなると一生涯2人で身を寄せ合う事になる。その覚悟はあるのか?
「解ってる」
 エデンは真剣な顔で頷く。
「俺を憎んでたんじゃないの?」
 信用していいんだろうか?
「憎んでるよ。でもミクの事もあるし、背に腹は代えられないじゃない」
 1番しっくりくる答えだ。
 それに何より、俺自身がエデンを信じたいと思っていた。
「ミクを人質にしてて良かった。エデンが俺を選んでくれるならミクは解放するよ」
 エデンは黙って頷く。
「じゃあ、約束の証にキスしてよ」
「ゲロ吐いた口にしたくない」
 1番しっくりくる答えだ。
「それで、今すぐって訳じゃないんでしょ?言っとくけど俺、動けないよ」
 自慢じゃないが、地べたに座り込んで立てる気がしない。
「分かってる。春臣の即位式と同時に結婚て運びになるから、その前に」
「まあ、準備もあるからね」
 等と言いながらも俺は頭の中で脱走の計画を既に練っていた。
 おかげで酔いも覚めて頭が冴える。
「日中、俺が運転する車の荷台に隠れて関所を越えるのはどうかな?」
 花嫁奪還なんて俺にとってはリスクしか無いのに気分はルンルンだった。
「そうだね。王配様は荷物検査をパス出来るから」
「後は……2人であの無人島にでも逃げない?アダムとイヴみたいに葉っぱ1枚で暮らすんだ」
「……いや、居場所は転々とした方がいい。それに風邪をひく」
 葉っぱは冗談だったのに、割とガチ気味でエデンに引かれた。
「じゃあ、朝早くなら国定公園に人はいないから、1週間後の午前7時に私が国定公園をプラプラしてるから、そこで私を拾って関所を越えて。後の道筋はその都度考えよう」
「分かった。1週間後」
 待ち切れないな。
『じゃあ』と言ってエデンが個室を出ようとして、不意に立ち止まる。
「氷朱鷺、一つだけ言っておきたいんだけど、私が春臣から逃げるのは、杉山さん以外考えられないから、だから」
 あぁ、ね。
「──知ってるよ」
 それでもいいと、妥協するしかなかった。

 今は、ね。
 1週間後、その日は薄曇りの中、朝から霧雨が降っていた。
 俺は高級そうな公用車を避け、使用人達が使う大き目の黒いSUVを拝借すると、約束の時間より少し早く国定公園に向かった。
 エデンは本当に来るだろうか?
 そんな不安はあったが、例え彼女が来なくても、最悪、誘拐する心構えではあった。
 国定公園の入口まで来て、ソロソロと徐行しながらエデンの姿を探す。すると林から傘もささずにエデンが顔を出し、俺を認識すると駆け足で車の後方まで寄って来た。
「あんなにびしょ濡れで」
 俺は急いで停車し、エデンをトランクに寝かせると、用意していた毛布で彼女の姿を隠す。
「なんで、傘もささずに」
「傘は目立つし、身軽な方がいい」
「だからって──」
 あれこれ小言は言いたかったが、今はとにかく早くここを出なければ、という思いで車に乗り、ハンドルを握った。
 車内の温度を上げ、関所へ向かう。

 関所へ着くと、俺はゲートの前で一時停止し、運転席側の窓を開けて警備の詰め所に向けて手を上げる。すると中にいた警備兵が窓から俺の顔を確認すると難なくゲートを開けてくれた。
 王配ともなると顔パスだよ。権力様々だな。
 暫く王室の敷地を走り、公道へ出ると、俺は遥か遠い農村部へと向けて走り出した。
「エデン、もう大丈夫だよ。前に来て体を暖めたら?」
 俺がバックミラーを見ながら声をかけると、ミラー越しにエデンがヒョコッと頭を出し、毛布を被ったままシートを跨いで運転席の後ろに座る。
「結構大きい車に、荷物も多いけど?」
「ん?ああ、逃走資金は多めに用意したけど、車中泊もするだろ?」
「そうだね。フルスモークだし、丁度いいかも」
「びしょ濡れだろ?着替えは?」
 バックミラーでエデンの姿を確認するが、運転席に隠れて彼女の肩くらいしか見えない。
「ほぼ手ぶらで来た」
「じゃあ、そこにある鞄に俺の着替えが入ってるからとりあえず着るといいよ。後は王室からだいぶ離れた所で買おう」
「ありがとう」
 そう言うとエデンはゴソゴソと着替えを始める。俺はバックミラーでその様子を覗き見るが、露わになったエデンの肩しか見えない。
 生殺しだ。
 見えそうで見えないのが逆に気になって運転に集中出来ない。衣擦れの音がやけにリアルに車内に響く。
 暑いな。いや、熱いな。
「ちゃんと前を見たら?」
 エデンから冷ややかに声をかけられ、俺は前方に視線を移す。
「気付いてたんだ?」
「あれだけガンミされたらね」
「男だから」
「何か食べる物、ある?」
 お、スルーされた。
「あるよ。暫く分の食料もくすねてきた」
 その言葉で、エデンが鞄を漁る様な音が聞こえてきた。
「氷朱鷺は食べた?」
「まだ」
 ガサガサ……
 何をしているんだろう?
 やっぱり気になる。
「ギョニソー」
「チョリソーみたいに言うね」
 んで、ギョニソーがどうした?
 ──そう思っていると、いきなり後ろからそのギョニソーで頬を刺された。
「あーん」
 いや、あーん、て。
「ハズしてるよ」
「え?あ、ほんとだ」
 エデンが後ろから身を乗り出して俺を確認し、今度はきちんと俺の口にギョニソーを与える。
 ここ最近、ご馳走ばかり食べていたせいか、魚肉ソーセージがやたら美味しく感じる。
「何か飲む?」
 俺がギョニソーを食べ終わったタイミングでそう聞かれた。
「え」
 まさか後ろから二人羽織みたいにして与えるつもりか?
「それは嫌な予感がするからやめておく」
 シャツやズボンの股間辺りをビチョビチョにする未来が見える。
「やけに甲斐甲斐しく世話をやいてくれるけど、どうしたの?」
 俺はエデンの仇だろ?
「気まぐれ」
 気まぐれかいっ。
 でも嬉しい。なんか恋人とピクニックでもしているみたいだ。
 行く末の不安が無い訳ではないけど、それを遥かに凌駕する程の期待の方がデカかった。
「エデンも食べたら?」
「うん。もう食べてる」
 ガリガリガリガリ……
 何を食べてるんだろう、ハムスターみたいだ。
 ガリガリガリガリガリガリ……
 かわいいなあ。
 バックミラーで見えない分、後方に気をとられてしまう。
「何を食べてたの?」
「ギョニソー」
 ──そのガリガリ音はどこから?
 駄目だ、気になる。運転に集中出来ない。目の届く所にエデンを置きたい。
「前に座ったら?」
「いや、ギアと間違えて手を握られる可能性もあるし、ガードレールすれすれに停められて逃げ場を失う可能性だってある。それにシートを倒されてそのまま覆い被さられる可能性だって無きにしもあらず」
「それは何処で学んだ教訓かな?」
 何となく過去の状況が読めてしまうのが嫌だ。
 杉山さんの野郎。

 それから俺達はこんな調子でずっと走り続け、1つの州を抜けた田舎町で給油して必要な物を揃え、エデンがチョイスした山奥のオートキャンプ場にある駐車場の端で車中泊する事にした。
「誰もいないね、エデン」
 車のライトを消すと一面何も見えなくなり、エデンが後ろの車内灯を点ける。
「シーズンオフだからね。暫くはここに居てもいんじゃない?」
「そうだね。特に宛もある訳じゃないし」
 俺は外から内部が見えないように車のフロントガラスにサンシェードをぴっちり貼った。それをエデンが後ろから緊張した目で見ているのに気付く。
 あぁ、そうか。
 変な意味で捉えられたかも。
 そうは思っても、俺は後部座席のシートを全て倒し、着々と就寝の準備を進めていく。
「あ」
 俺は思い出した様に運転席に行き、サイドブレーキをかける。
「何?」
「サイドブレーキ」
「な、何で?」
「揺れるかもしれないし」
 なんて、ね。
「……」
 エデンが気まずそうに俯いて拳を握り締めている姿が愛しい。
「ゆ、揺れる事はしないで」
 馬鹿力で、いざとなれば俺の事をぶん殴ってかわせるかもしれないのに、今日のエデンはやけに弱気で可愛らしい。
 何か意地悪したくなる。
「でもそれなりの覚悟で来たんだよね?俺は始めからそのつもりでエデンを城から連れ出したけど?」
 勿論期待はしてたさ。ワンチャンあるかもって。でも流石にしょっぱなから無理矢理関係を迫って逃亡先でエデンに逃げられたら本末転倒だから、我慢強く機会を待とうとは思っていた。
 けどそんな手の内を明かす程、俺は優しくない。
「分かってる」
「駆け落ちってそういう事だよ、エデン?」
 いや、逆にエデンはどういうつもりで駆け落ちを持ち掛けた?
「分かってる」
「いくら杉山さんしか愛していないって言っても、俺にここまでさせたんだから……分かってるよね?」
 俺がエデンのいる所まで行ってあぐらをかくと、車体がその重みで僅かに揺れる。
 エデンがギクリとしたのがわかった。
「分かってる。だから、月のものが終わるまで待って」
「え」
 いいの?
 絶対、一筋縄ではいかないと思っていたが、思わぬエデンが腹を括ってくれて、俺は拍子抜けすらしている。
「え、いいの?」
「うん」
 エデンが深く頷いた。
「本当に?」
「うん」
 その割、目を合わせてくれない。
「後悔しない?」
「してる」
 してるんかい。
「どのくらい?」
「1週間後」
 長いな。長いよ。
 まあ、いいか。
「途中でカザンになったりしない?」
 トラウマがぶり返すタイミングでも人格が代わるんだっけ。
「なるかも」
 なるんかい。
「優しくするからならないで」
「どっちでも良くない?」
 エデンは面倒くさそうに自身の首の後ろを揉んだ。
「いや、凄く大事な事だよ」
 最悪、カザンごとエデンを抱く事も否めないが、それは最悪のパターンであって、なるべくはオリジナルしか抱きたくない。
「分かった。悟られないようにする」
 そういう事じゃない。
「絶対ならないで」
「え、ぅん……」
 目を逸した。しかも自信無さげ。
「ミクは解放してくれた?」
「そろそろ退院だったし、親元に帰したよ」
「良かった」
「あのさぁ」
 この際だから前から聞きたかった事を真正面から聞いてみる。
 よく考えると、エデンとこうして落ち着いて話すのは久しぶりな気がする。
「ん?」
「なんでそんなに家族愛が強いの?」
「なんで……血の繋がりは無条件、だからじゃない?」
「無条件?」
「どんなに離れても、どんなに憎しみ合っても、血は無条件で繋がっているじゃない。一種の呪縛ではあるけど、断ち切れない物だからこそ、大事にしないといけないと思って」
「ふーん」
『断ち切れない物だからこそ』てのは、俺にも言えてるのかも。だからエデンは俺を殺せないんだ。
「俺とは全然考えが違うね」
「氷朱鷺にとっての家族って?」
「血の繋がりを超越した存在が家族で、愛の対象だよ。つまりエデンだ」
「へぇ」
 え、薄っ。
「でも氷朱鷺は私のカザンの部分が嫌いでしょ?」
「だってあれは後から付随してきたものじゃん」
「カザンは氷朱鷺と出会った時からずっとここにいた」
「まあ、そうなんだけど……」
「カザンも私なんだよ。それに、私が私だけだった頃の自分を思い出せない」
「辛すぎて?」
「そうだね。昔はどんな性格でどんな考え方をしていたか、今はもう朧気だよ。沢山人も殺したしね。氷朱鷺は私の綺麗な部分しか知らないでしょ?」
「どこが綺麗な部分で、どこが汚い部分か分からない。俺はただ、エデンだけが俺を救ってくれたっていう事実しか見てないから」
「ハァ、後悔してるよ」
 エデンは自身の胃の辺りを押さえ、ガックリと肩を落とした。
「でもエデンは何度過去をやり直しても俺を救ってくれたと思う」
 なんだかんだ、エデンは憐れなくらいそういう人だ。
「かもね」
 エデンは胃を労りながら言う。
「ねぇ、エデン」
「ん?」
「今でも俺の事が嫌い?」
「私は別に、お前を嫌ってなんかいない。凄く憎んでいるだけだ」
「人はそれを嫌ってるって言うんじゃないの?」
 それに直接『嫌いだ』と言われた事があるような、無いような……
「人の事は分からない。でも、殺したい程憎んでいるのに殺せないのはきっとそういう事だと思う」
 これは喜んでいいのか?
 だったら──
「ねぇ」
「ん?」
「そろそろ寝ない?」
 嫌いじゃないなら、一緒に寝ても問題ない筈だ。
「──」
「──」
 エデンの月のものが終わるまで手は出さないと約束したけど、初っ端、この超密室で2人並んで眠りにつくのはやはり互いに意識せずにはいられない。
 俺は後頭部をひと掻きした後、自分から横になって毛布を被り、その端を捲ってエデンを誘う。
「……」
 エデンは車内灯を消し、少し迷った末におずおずと俺の懐に入り、背を向けて横になった。
「……」
「……」
 車内には、車にしとしとと雨が当たる音だけが響き、その気鬱な雰囲気に変に気持ちが高ぶる。
「世界の終わりに、この世に2人だけになったみたいだ」
 俺は抱き枕を抱くみたいにエデンの腰に腕を回す。
「なんで、何もしないって言ったじゃん」
 でも、そのくせエデンは俺を拒む素振りを見せない。
「言ってないけど、しないって。こうでもしないと不安なんだよ」
 目覚めた時、ここにたった1人取り残されたらと思うと、エデンをきつく抱き留めておかないと眠れない気がした。
「今頃王室は大騒ぎかな?」
「さあ、少なくとも王女は大騒ぎしてるだろうね」
「春臣は?」
「分かんない」
「春臣はエデンの事が好きなんでしょ?」
「……分かんない。でも代わりは沢山いるから」
「いないよ、エデンは1人だ。俺にとってエデンの代わりがいない様に、春臣だってそうかもしれない」
「……どうでもいいよ」
 エデンは本当にそう思っているのかな?
 俺にはエデンの背中が落胆している様にも見えた。
「──寒くない?」
「寒い」
 そう言うとエデンは俺の体温を求める様にぐるりと体を反転させ、俺の胸板に身を寄せてきた。
 突き放したり、擦り寄って来たり、一体どういうつもりだろう?
「エデンも不安なの?」
 それか、春臣と離れて寂しくなったとか?
「違う。体を冷やしたくないから」
「そう、なん、だ」
 よくわからないけど、俺は安心して目を閉じた。
「このままずっと俺から離れないで」
 お互いに頼れる者は自分達だけだ。これから一生支え合って生きていくんだ。
「分かってる」
「約束して」
「約束する」
 そうして俺はエデンを抱いたまま深い眠りについた、が──

 ──朝方、腕の中から彼女がいなくなっている事に気付いた。 
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