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第18章 伏竜出廬編

第110話 孔明の出廬

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これまで、二度ほど隆中を訪れているがいずれも諸葛亮は、不在。
年が明けて吉日を選ぶと、劉備は三度目の隆中訪問を宣言した。
三度目となると、さすがに張飛だけではなく関羽でさえも異議を唱える。

「兄者ほどの人物が三度も訪れては、先方も気が引けて会うのを躊躇われるのではないでしょうか?」
「兄者ほどと立ててくれるが、俺はまだ、何者でもない」
実際、官位はあるものの定まった領地を有しているわけではない。そんな現状を打破するためにも諸葛亮の力が必要だと、劉備は力説した。

「はい、どうぞ」
関羽が振り返ると、簡雍から外套を渡される。劉備の意志が固い以上、結局、ついて行くしかないのだ。
外気は、まだ、寒く外套は必需品。関羽はしぶしぶ受け取るのだった。

出立する準備をした簡雍も思うところがないわけではない。
ただ、関羽や張飛とは、全く違う視点を危惧していた。
それは、これで劉備一家の諸葛亮を見る目が更に厳しくなるということである。

諸葛亮を無事に迎え入れることができたとしても、前任の徐庶との比較はされる。あの曹仁を一蹴した徐庶の差配は見事というしかなかった。
あれ以上の成果が求められるとしたら、相当、厳しいのではないかと心配になる。

劉備が、これほど執心するのであれば、諸葛亮の迎え入れは、必ず成功させなければならない。
諸葛亮という人物をしっかりと見極めて、必要であれば適切な手助けをすることを心に誓うのだった。


三度目の道中となると、さすがに景色に真新しさはなく、とにかく急いで到着することだけを考えた。
隆中に近づくにつれ、劉備の中には何か予感めいたものが沸き上がる。そのためか、足は自然と速まり、今までより、心持ち早く隆中に着く。

そして、幸いにもその予感は的中するのだった。
諸葛亮の草庵の手前、人が行きかう路上で、弟の諸葛均と出会う。

「これは劉備さま。丁度、兄が昨日の夜半に戻ってきております。まだ、出かけてないようでございます」
「本当ですか。それは、吉報だ」
諸葛均は、急用があるため、いつもの童子に申し付けてくださいという言葉を残して別れた。
劉備は承知したと、草庵へ急ぐ。

諸葛亮宅の柴門に着くと、童子を呼んだ。
「あ、また来たんだね。今度こそ、間違いなく先生はいるよ」
「良かった。先ほど、諸葛均殿に会って、諸葛亮殿がいらっしゃることは聞いていたが、僅かの時間の間でも行き違いがあってはと、急いできたよ」

劉備は、関羽、張飛、簡雍を門の前に待たせて、自分だけ敷地内に入る。
ところが、戻ってきた童子が浮かない顔しているため、劉備は困惑した。
もしや、今日も行き違いが生じたか・・・

「先生は、いらっしゃることはいらっしゃるんだけど・・・」
「何だ、いらっしゃるのか。・・・まさか、面会を断られたのか?」
「いや、そういうんじゃなくて」

童子の歯切れが悪い。よく話を聞くと、昨日、諸葛亮が戻って来た時間が、あまりにも遅かったため、今、昼寝をしている最中ということだった。
そこで、童子が諸葛亮を起こしていいものか、判断がつかないという。

「せめて、若先生がいらっしゃれば、相談ができたんだけど・・・」
「そんな事か。約束もしないで、やって来たこちらが悪い。それに諸葛亮殿に会うために、今まで散々、待ったんだ。今さら、数刻待たされようが問題ではないよ」

劉備の言葉に安堵すると、童子は、まだ、仕事が残っていると言って、去って行った。
その後ろ姿に、しっかり頑張れよと、声をかける劉備は、もう上機嫌となっている。
劉備は、興奮する自分を何とか抑えながら、外で待つのだった。


柴門の外で待つ、関羽、張飛、簡雍。
その待ち時間が、長くなるほどに張飛は退屈し、暇を持て余していった。
あまりにもすることがないので、垣根の隙間から中の様子を覗き込む。

すると、そこには驚くべき光景があった。
なんと主君たる長兄、劉備玄徳が、未だ室内に入れてもらえず、外でぽつんと一人、立たされているのだ。
あまりの衝撃に、思わず声が漏れ、関羽と簡雍を手招きする。

二人も、まさかそのような状況にあるとは思いもしなかった。
張飛は、他に中を覗けるところはないかと、垣根沿いを歩いていった。

間もなく足を止めて、張飛が目にしたのは、草堂の窓。
その窓の隙間からは、寝台で眠る若者の姿あった。

「長兄を待たせて、眠りこけてやがる」
反射的に寝ているのは諸葛亮だと悟った張飛は、怒りで顔を真っ赤にする。
その憤りぶりに、関羽が止めに入るが、まったく言うことを聞かなかった。

「離せ、関兄。この家に火をつけてやる」
「益徳、馬鹿な真似はよせ」

張飛の導火線に火がつき、関羽といえど止めるのには骨が折れる。
駄々をこねているようで、まるで、取り付く島がないのだ。

「益徳さん、いい加減にして下さい」
そこに静かだが、凄みのある声色と鋭い視線を送り、簡雍が張飛をたしなめる。
簡雍とは旗揚げから兄弟同然の長い付き合いだったが、今まで感じたことがない雰囲気だった。
張飛はおろか、思わず関羽も固まる。

「今日は、きっと劉備一家の運命の一日になります。大将が、ああして待っているのですから、我々も大人しく待ちましょう」
戦場では怖いものなしの張飛だが、この時ばかりは簡雍の迫力に押されて、頷くのだった。

張飛は小声で、関羽に耳打ちする。
「憲和のやつは、怒らせない方がいいみたいだな」
「これからは、私も気を付けるとしよう」
猛将二人は、この後、黙って劉備を待つことにするのだった。


そんな騒動があった半刻後、ついに草堂で諸葛亮が目覚める。
寝台の上で、伸びをした後、外に人の気配があることを訝しんだ。
諸葛亮は鈴を鳴らして、童子を呼ぶ。

「どなたか来客でもありましたか?」
「はい。劉備さまが、先ほどからお待ちです」

その名前を聞くと、諸葛亮の大きな黒目が、更に大きくなった。
これまで、二度訪問して頂いたのは、承知している。また、置手紙も読ませてもらった。
諸葛亮に誠意や熱意は、もう十分に伝わっていた。

「どうして、私を起こさなかったのですか?」
「起こさなくていいって、言われたんで・・・」
「なるほど。・・・そういう方ですか」

諸葛亮は寝台から降りるとすぐに身支度を始める。冠を整えて、羽扇を持つと童子に書室に劉備を案内するように伝えた。
童子は、分かりましたと駆けていく。

こうして、劉備はようやく家の中に招かれたのだった。
部屋に入る手前、劉備が近づくと扉が勝手に開く。
不思議な仕組みに驚いていると、凛とした声が劉備に届いた。

「私の妻が考え出した、からくり扉です」
振り返り、声の主を見た瞬間、劉備の体が固まる。
そこには羽扇を持って、微笑みかける若者が立っており、新野城で見た白昼夢に登場した人物と重なったのだ。

『やはり、待ちに待った人物は、諸葛亮で間違いない』
劉備は、直感的にそう感じる。
絶対に諸葛亮を口説き落とさなければならないと誓うのだった。

「長らくお待たせして、申し訳ございません」
「約束もなく、勝手に訪問した身。大した問題ではありません」

お互い名を名乗り、挨拶を済ませると諸葛亮は、劉備に席を勧める。
劉備が腰を下ろすと、同時に童子がお茶を運んでいた。
諸葛亮も椅子に座り、お互いお茶をすする。

お供の関羽、張飛、簡雍も同室に招かれ、同じくお茶を渡された。
しばし、沈黙の時間が続き、劉備が、どう切り出すか思案しているところ、まず初めに諸葛亮が口を開く。

「本日を含め、この若輩者に対して三度の来臨。感謝の言葉に尽きません。」
「古来、賢者を迎えるにあたっては、どんな名君もへりくだり謙虚な姿勢で臨んだと聞きます。ましてや、私ごときが大賢者とまみえるとなれば、当然のこと」

劉備は精一杯、正直な気持ちを伝えた。しかし、諸葛亮の反応は分かりづらい。
もしや、崔州平のように世俗から離れたところに思考があるのか?
置手紙も読んだようで、劉備が漢王朝を想う気持ちも理解したというが、どうも煮え切らない様子だった。

どうしたら、この自分の気持ちが諸葛亮に届くのだろうか・・・
ずっと、考え続けた劉備は、次第に頭の中が真っ白になる。

「ああ、もう面倒くさい」
「ふふふ。面倒くさいですか?」
外行そとゆきの仮面を外した劉備に諸葛亮は微笑みかける。最初に部屋に入って来た時と同じ笑顔だ。

「劉備さま、私は貴方と腹を割って話したかったのです。やっと、叶いました」
「そう言うことか。いや、俺としては、こっちの方が助かる」
同席した簡雍は、一瞬、劉備が切れたのかと冷や汗をかいたが、いい方向に進んだようでほっとする。
そのまま、二人の成り行きを見守った。

「劉備さま、この荊州をどう見ますか?」
「意外と人口も多く、経済力も豊かだ」
「その通り。荊州は今まで大きな戦乱がなかったため、自然と人が集まりました」

そう言えば、諸葛亮も荊州出身ではなく、移住してきた人間だったはずだ。
劉備は水鏡の言葉を思い出した。

「この荊州を基盤として、同じく動乱から逃れている益州を掌中にし、東の孫権と和を結べば、劉備さまが望む曹操に対抗する勢力に成りえると思います」
「天下を三つに分けるのか?」
「そうです。二つの大きな勢力となった場合、互いに争うばかり。ところが、これが三つになれば、誰もが漁夫の利を得ようと考えるもの。そうなると迂闊に手は出せず、均衡は永く保たれるものです」

後ろで聞いていた簡雍も思わず唸る。問題は荊州も益州も、劉備と同族の劉表と劉璋りゅうしょうが治めている地だということだ。
このことを劉備本人がどう考えるかだが、とりあえず劉備がとるべき道は、諸葛亮の示す道しかないように思える。

「目から鱗が落ちた気分だ。問題はあるかもしれないが、俺が進む道は、今、定まった」
「ようございました。これが私にできる今までの劉備さまの誠意に対する答えです」
「これからも助けてくれないのか?」

劉備の問いに諸葛亮は返事をしなかった。羽扇を顔に当てて、考え込む。
「私の知恵は、所詮、書生の空論。実際に、お役に立てるかどうか・・・」
「いや、あんたの学問は応用することに真髄がある。先ほどの天下三分の計、実際に実現可能か試したくて、本当のところは、うずうずしているはずだ」
「これは、私のことをよくお調べになっていますね」

諸葛亮の劉備を見る目に興味の色が灯ったのを簡雍は見逃さなかった。
『でも、諸葛亮さん違いますよ』

劉備が諸葛亮のことをよく調べているから、貴方の気持ちが動いたのではない。
相手を惹きつける話術、空気感を自然と劉備が滲み出すから、貴方は興味を持ったのだ。
これが、『稀代の人たらし』たる所以なのだ。

「正直、あんたが漢王朝に興味を持とうが持つまいが、どっちでもいい。俺に対する忠誠ですら、どうだっていい。ただ、俺の元で、その大いなる叡智えいちを揮ってみないか?」
「これは仕官のお誘いですよね?忠義もいらないとおっしゃるのですか?」
「ああ、そうだ。そんなものはどうでもいいから、とにかく俺について来てくれ」

劉備の言い分が、あまりにも飛び抜けていて、諸葛亮は笑うしかなかった。
言っていることは無茶苦茶だが、何故か、痛快で仕方がない。

「承知いたしました。この諸葛亮孔明。劉備さまに生涯、付き従います」
「その言葉だけが、聞きたかった」
伏竜がついに立ち上がる。その瞬間に立ち会った簡雍は、劉備の前に明るい未来が開けたと運命めいたものを感じた。

「らしくないな。何、泣いてんだよ。いつもの劉備教、云々はどうした?」
劉備に言われて、自分が涙していることに簡雍は気づく。

「いや、さすがですよ。・・・これで、楼桑村での約束が近づいた気がしたものですから」
二人が、初めて会った幼き頃の約束。
劉備が皇帝となったあかつきには、その車に乗せるというもの。
劉備も感慨深げに、当時のことを思いだした。

「諸葛亮さん、大将のこと、よろしくお願いいたします」
簡雍が頭を下げると、諸葛亮が慌てて立ち上がる。
こちらこそ、よろしくお願いしますと簡雍と諸葛亮が手を結んだ。

「いや、普通、そこは俺とじゃねぇのか?」
二人の手の上に劉備が自分の手を重ねる。自然と関羽と張飛もその上に手を乗せた。
こうして、この日、諸葛亮が草庵から出廬することになるのだった。
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