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冬の森.4
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長い時間を掛けて学んだ筈の、身を守るための知恵すら忘れて、ただ渇いた咽喉と腹を満たすムラサキの腕が、脚が、突然粘りつく『何か』で絡め取られ、蜜の溢れる貯蔵庫の壁から強引に、ぐい、と凄まじい力で引き離された。
「──ッ、これは…っ…!」
肘や膝の関節に巻き付き、瞬く間に、決して小柄とは言えないムラサキの痩せた長身を宙吊りにするのは、信じられないほどに太く綯われた、頑強で透明な『糸』だった。
いくら衰えたとはいえ、並の蜘蛛糸ならまだ易々と引き千切ることのできる大きな翅をばたつかせて激しく藻掻いても、四肢に絡んだ粘る糸はびくともしない。
これは罠だ、獲物を捕らえるために張り巡らされた、狡猾な蜘蛛の糸だ、と気付いた時には、ムラサキの身体は仰向けの形で虚空に吊り下げられて、満足に手足を動かすことさえできなくなっていた。
巻き付いているのは、並大抵の蜘蛛の糸ならば翅の力で破り、自ら逃れることができるほど強い力を持つ種族の蝶人であるムラサキですら見たことも聞いたこともない、信じられないほど太く、頑丈な蜘蛛の糸なのだ。
「──何だ。太った黄金虫でも釣れたのかと思えば、ただの痩せた羽虫か。」
低く、若々しい声と共に暗がりから這い出てきたその姿に、ムラサキは目を見開いて息を飲む。
それは、額に六つの小さな複眼を持つ、一匹の若い雄蜘蛛だった。しかし、その雄蜘蛛は、ムラサキが今まで目にしてきたどんな蜘蛛とも、姿形がまるで異なっている。
泉の底よりも深い青い色をした眼の下はべったりと色濃い黒い隈で彩られ、眉尻が薄く細い、鋭い狂暴な顔立ちに酷薄さを増していた。
攻撃的なまでに尖った装飾がちりばめられた、頑丈な皮のような質感をした漆黒の洋装も、耳朶を貫いて幾つも留められた円状の銀色の耳飾りも、指に嵌められた銀色の指輪も、全く初めて目の当たりにする風変わりな装いだ。
何より、襟足を刈り上げた短髪の、毒々しいまでに派手な、桃色。
黒と黄色の絢爛な着物に金の帯を締めて着飾り、虚空で獲物を待ち受ける女郎蜘蛛たちとも全く異なる『警告色』は、その雄蜘蛛が紛うことなき毒持つ蜘蛛であることを無言で物語っている。
外来種。これは、この森に本来棲んでいる蟲人ではない。
そんな想いが脳裏を掠め、喉笛が無意識に、ひ、という掠れた音を振り絞る。恐怖におののく身体で幾ら激しく藻掻いても、背から生えた二対の翅を埃が舞い上がるほど打ち付けても、強靭な糸はキシリと軋む音を立てるだけで、びくともしない。
毒蜘蛛という生き物は、その毒を用いて捕らえた獲物を、時間を掛けて、生きながら嬲り喰らうものだということを知っていた。
空を翔ぶ蟲人が知る限り、最もおぞましい方法で捕食されようとしていることへの恐れに竦み、引き攣り、青褪めるムラサキの葡萄茶色の長い髪をグイと無造作に掴み、上向かせて、毒蜘蛛はさも拍子抜けだと言わんばかりに鼻を鳴らす。
「──ッ、これは…っ…!」
肘や膝の関節に巻き付き、瞬く間に、決して小柄とは言えないムラサキの痩せた長身を宙吊りにするのは、信じられないほどに太く綯われた、頑強で透明な『糸』だった。
いくら衰えたとはいえ、並の蜘蛛糸ならまだ易々と引き千切ることのできる大きな翅をばたつかせて激しく藻掻いても、四肢に絡んだ粘る糸はびくともしない。
これは罠だ、獲物を捕らえるために張り巡らされた、狡猾な蜘蛛の糸だ、と気付いた時には、ムラサキの身体は仰向けの形で虚空に吊り下げられて、満足に手足を動かすことさえできなくなっていた。
巻き付いているのは、並大抵の蜘蛛の糸ならば翅の力で破り、自ら逃れることができるほど強い力を持つ種族の蝶人であるムラサキですら見たことも聞いたこともない、信じられないほど太く、頑丈な蜘蛛の糸なのだ。
「──何だ。太った黄金虫でも釣れたのかと思えば、ただの痩せた羽虫か。」
低く、若々しい声と共に暗がりから這い出てきたその姿に、ムラサキは目を見開いて息を飲む。
それは、額に六つの小さな複眼を持つ、一匹の若い雄蜘蛛だった。しかし、その雄蜘蛛は、ムラサキが今まで目にしてきたどんな蜘蛛とも、姿形がまるで異なっている。
泉の底よりも深い青い色をした眼の下はべったりと色濃い黒い隈で彩られ、眉尻が薄く細い、鋭い狂暴な顔立ちに酷薄さを増していた。
攻撃的なまでに尖った装飾がちりばめられた、頑丈な皮のような質感をした漆黒の洋装も、耳朶を貫いて幾つも留められた円状の銀色の耳飾りも、指に嵌められた銀色の指輪も、全く初めて目の当たりにする風変わりな装いだ。
何より、襟足を刈り上げた短髪の、毒々しいまでに派手な、桃色。
黒と黄色の絢爛な着物に金の帯を締めて着飾り、虚空で獲物を待ち受ける女郎蜘蛛たちとも全く異なる『警告色』は、その雄蜘蛛が紛うことなき毒持つ蜘蛛であることを無言で物語っている。
外来種。これは、この森に本来棲んでいる蟲人ではない。
そんな想いが脳裏を掠め、喉笛が無意識に、ひ、という掠れた音を振り絞る。恐怖におののく身体で幾ら激しく藻掻いても、背から生えた二対の翅を埃が舞い上がるほど打ち付けても、強靭な糸はキシリと軋む音を立てるだけで、びくともしない。
毒蜘蛛という生き物は、その毒を用いて捕らえた獲物を、時間を掛けて、生きながら嬲り喰らうものだということを知っていた。
空を翔ぶ蟲人が知る限り、最もおぞましい方法で捕食されようとしていることへの恐れに竦み、引き攣り、青褪めるムラサキの葡萄茶色の長い髪をグイと無造作に掴み、上向かせて、毒蜘蛛はさも拍子抜けだと言わんばかりに鼻を鳴らす。
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