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冬の森.3
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侭よ、とムラサキは思った。元より、死への旅に赴く足、先を何処に向けようとも変わらないのであれば、進む他にない。空腹を満たさんとする本能に吸い寄せられるように咽喉を鳴らし、ふらふらと、奈落にも似た昏さの枯木の洞の中を見詰めながら、吸い寄せられるように中に入り込んでいった。
暗がりに目を慣らすためにゆっくりと細め、瞬きをしながら、他の蟲人の気配というものを全く感じない真っ暗な空間の中を一歩一歩進んでゆく。巨木の内側は枯れ果てて風雨に浸食され、天井の見えない複雑で巨大な空洞が形作られていた。だが、枯れたとはいえ壁になっている木はまだ分厚く残っており、北風をしのぐには充分で、雪の積もりゆく外よりは遥かに暖かい。それより何よりムラサキの目を引いたのは、甘い匂いの根源になっている、無数に並んだ六角形の、蜜蝋で出来た花蜜の貯蔵庫だった。
どうやら、蜜蜂の番兵たちが堅牢に守るという蜜蔵の中に、ムラサキは迷い込んでいたのである。だが、そこには兵隊蜂の姿はおろか、他の働き蜂の姿さえ全く見当たらない。全ての母である女王を中心に群れを作り、蟲人一匹がすっぽりと花びらの内側に入れるほど巨大な花々から、せっせと蜜や花粉を集めるのが蜜蜂の習性であるのだが、そこにはどうしたことか、ただ一匹の蜂の仔の姿すらありはしないのだ。
「──あぁ、まさか、こんなことが…。」
歓喜の独白が、唇をついて出る。
何故、この完璧な貯蔵庫でもあり、快適な住処でもある蜂の要塞が無人のまま打ち棄てられているのか。その理由を深く考えられないほど、今のムラサキは飢餓という本質的な欲求に支配され、突き動かされ、酷く駆り立てられていた。
蕩けるほどの感嘆の息と共に規則正しく並ぶ六角形の貯蔵庫のひとつ、その表面を覆う薄い蝋の膜に指先を突き立てて破り、穿った小さな穴からとろりと溢れ出してくる琥珀色の蜜に、無我夢中で唇を押し当て、指先で掬い上げて舐め啜る。
それは確かに、働き蜂の手で濃縮された、春に咲く蓮華草の味がする花の蜜だ。こんなにも美味と感じる蜜を、ムラサキは生涯でただの一度も味わったことがない。たとえ今、この場に駆けつけてきた、住処を侵されて激怒する兵隊蜂に毒槍を突き付けられたとしても、数日ぶりに腹を満たしてくれる花蜜からすぐに口を離すことなど出来はしないだろう。
蜜蝋で出来た貯蔵室の壁に顔を押し付けるようにして、溢れ落ちる一滴の蜜さえ惜しんで余さず舌で絡め、恍惚の面輪で貪欲にこくこくと咽喉の高みを鳴らし続ける。
故に、ムラサキは気付かなかった。否、最も気に掛けなければならないことすら上書きするほどの酷い空腹に駆り立てられていた、という方が相応しい。朽ちかけた木の壁面にある暗がりには、気配を殺すことに長けた生き物が潜んでいる危険性がある。そんなことすら、今は埒外だった。
暗がりに目を慣らすためにゆっくりと細め、瞬きをしながら、他の蟲人の気配というものを全く感じない真っ暗な空間の中を一歩一歩進んでゆく。巨木の内側は枯れ果てて風雨に浸食され、天井の見えない複雑で巨大な空洞が形作られていた。だが、枯れたとはいえ壁になっている木はまだ分厚く残っており、北風をしのぐには充分で、雪の積もりゆく外よりは遥かに暖かい。それより何よりムラサキの目を引いたのは、甘い匂いの根源になっている、無数に並んだ六角形の、蜜蝋で出来た花蜜の貯蔵庫だった。
どうやら、蜜蜂の番兵たちが堅牢に守るという蜜蔵の中に、ムラサキは迷い込んでいたのである。だが、そこには兵隊蜂の姿はおろか、他の働き蜂の姿さえ全く見当たらない。全ての母である女王を中心に群れを作り、蟲人一匹がすっぽりと花びらの内側に入れるほど巨大な花々から、せっせと蜜や花粉を集めるのが蜜蜂の習性であるのだが、そこにはどうしたことか、ただ一匹の蜂の仔の姿すらありはしないのだ。
「──あぁ、まさか、こんなことが…。」
歓喜の独白が、唇をついて出る。
何故、この完璧な貯蔵庫でもあり、快適な住処でもある蜂の要塞が無人のまま打ち棄てられているのか。その理由を深く考えられないほど、今のムラサキは飢餓という本質的な欲求に支配され、突き動かされ、酷く駆り立てられていた。
蕩けるほどの感嘆の息と共に規則正しく並ぶ六角形の貯蔵庫のひとつ、その表面を覆う薄い蝋の膜に指先を突き立てて破り、穿った小さな穴からとろりと溢れ出してくる琥珀色の蜜に、無我夢中で唇を押し当て、指先で掬い上げて舐め啜る。
それは確かに、働き蜂の手で濃縮された、春に咲く蓮華草の味がする花の蜜だ。こんなにも美味と感じる蜜を、ムラサキは生涯でただの一度も味わったことがない。たとえ今、この場に駆けつけてきた、住処を侵されて激怒する兵隊蜂に毒槍を突き付けられたとしても、数日ぶりに腹を満たしてくれる花蜜からすぐに口を離すことなど出来はしないだろう。
蜜蝋で出来た貯蔵室の壁に顔を押し付けるようにして、溢れ落ちる一滴の蜜さえ惜しんで余さず舌で絡め、恍惚の面輪で貪欲にこくこくと咽喉の高みを鳴らし続ける。
故に、ムラサキは気付かなかった。否、最も気に掛けなければならないことすら上書きするほどの酷い空腹に駆り立てられていた、という方が相応しい。朽ちかけた木の壁面にある暗がりには、気配を殺すことに長けた生き物が潜んでいる危険性がある。そんなことすら、今は埒外だった。
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