5 / 61
毒蜘蛛.1
しおりを挟む
「痩せて老いぼれた蝶一匹。喰ったところで腹の足しにもなりゃしねえ。おまけに雄なんざ、筋張って喰い出もねえし、美味くもねえ。ここのところ、柔らかい蜂の子供ばかり喰ってきちまったからなぁ──。ま、それも無くなったら贅沢も言えねえ、か。」
「──ッ、嫌だ、離れろ…!あぁ、離せ、──離してくれ…っ!」
「は…。お前、そんなに蜘蛛が怖いのかよ。…まあ、餌の羽虫なら当然か。」
事も無げに言ってのけ、残酷な笑みを象って持ち上がる口許から覗くのは、二本の白い毒牙だった。この身を生かし続けながら貪り喰らうための毒を注ぎ込む鋭い牙を目の当たりにして、ムラサキの全身を蝕む恐怖はいよいよ増してゆくばかりだ。
嘗て、恐れるものなど何ひとつなくこの森の空を駆けた『蝶の王』は、今、蜘蛛以外の誰もが恐れる死に様として、若い毒蜘蛛の餌になって生涯を終えようとしている。それも、目一杯長い苦痛の時を味わった後で。
甘い蜜の罠に誘われた迂闊な己の運命からも、この森に棲むどの蜘蛛の糸よりも丈夫で残酷な拘束の糸からも逃れる術なく、宙吊りにされた全身を捩って激しく暴れ、纏う和装の裾が乱れることも気に掛けずに、濃紫に黄色の斑点を持つ翅で地を打ちながら力一杯羽ばたいた。
そんなムラサキの死に際の悪足掻きを、鮮烈な桃色の髪を持つ若い雄蜘蛛は、黒い隈に縁取られた嗜虐的な青い目を細めて、あたかも愉しいものでも眺めるかのように、嗤いながらじっと見下ろしている。
「モモイロドクグモの毒はな、ほんの少しばかりの間に羽虫どもの全身に回って、身体を麻痺させる。後は、自分の肉を喰われ、体液を少しずつ啜られていくところを、声も出せずに死ぬまで待ってりゃいい。──蜂の蛹は手間はかからねえし、まあ柔らかくて美味いが、ただそこに転がってるだけで泣きも怖がりもしねえ。……生憎、俺は羽虫っていう高慢な生き物が大嫌いでな。硬くて不味い雄の蝶でも、玩具代わりにするなら悪くねえか…。」
モモイロドクグモという種族など、とんと聞き覚えがない。故に、逃れる術も戦う術も、まるで見当がつかない。本来、この森には棲んでいない筈の悪夢のような蟲人にまともに太刀打ちする術を持つ蟲人など、恐らく、いないのだ。
その時になって、ムラサキは初めて無人の要塞の所以を、この恐ろしいまでに強い毒を持ち、強靭な糸を綯うことのできる若い毒蜘蛛が、たった一匹で蜜蜂の大群が護る強固な要塞を征服してのけたのだという事実を悟った。
降りしきる雪の粒より尚冷たい、驚愕交じりの圧倒的な畏怖が背筋を駆け降り、睫毛の長い面輪を、すらりと長い手足を、たちまちのうちにぴたりと凍り付かせる。
「なあ、どんな気分だよ。この歳まで生き延びて、我が物顔で俺の頭の上を飛び回ってきた羽虫が、ただ地面を這いずり回るだけの毒蜘蛛に喰われようとしてんだぜ…?」
「…嫌だ、嫌…ッ──!…頼む、殺すなら…いっそ、一思いに殺してくれ──!」
心底そう思えるほどに、毒蜘蛛に生きながらにして捕食されることへの筆舌に尽くし難い恐怖は、花の蜜や花粉を糧とする蝶の本能の更に根幹部分へと色濃く染み付いている。前髪の一房がすっかり白く染まった髪を強く掴まれて引き上げられる苦痛より、今から味わわされる捕食の苦痛への激しい怖れが遥かに勝った。色褪せて四隅が綻びているとはいえ、細身で背の高い全身を空に舞い上げるだけの力強い二対四枚の翅を激しく羽ばたかせて、粘つく残酷な糸からどうにか逃れようと只管、足掻く。
ムラサキの頭の中を満たすのは、混沌とした絶望と恐怖。木の壁に、床に、翅が当たって鱗粉が煌めきながらさらに剥がれ落ちようとも、翅の隅がさらに大きく裂けようとも、手足に靱やかな蜘蛛糸がきつく食い込んで痛もうとも、未知の恐怖から逃れようとして、無力な悪足掻きを続ける。或いは、このまま力を使い果たして命を擦り減らし、風に吹かれる桜の花弁のように儚く散ってしまえた方がどれほど幸いだろうかとも思えた。
ムラサキが闇雲に翅を広げて打ち付ける度、不規則な風が生じる。毳々しい桃色の髪を揺らがせて蝶の恐怖を喰らい、冷酷に嗤っていた若い雄蜘蛛は、不意に顔を顰めてムラサキの髪から手を離した。
蜘蛛は、眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな、しかし何かが解せないという風な表情で、膝を折り曲げる形で仰向けに宙吊りにされたムラサキの、すっかり怯え切った顔をまじまじと眺めていた。
「…イラつくな、羽虫。テメェ、何でそんな匂いをさせてやがるんだ──?」
「な…に──?」
一瞬、何を言われたのかが理解できなかった。
再び伸びてきた、黒革の洋風の上着に包まれた腕。黒く塗られた爪を持つ、無骨な銀の指輪を幾つも嵌めた指が、今度はムラサキの顎先を強く掴んで上向かせに掛かる。恐怖に耐えかねて反射的に羽ばたきで風を起こすと、蜘蛛は露骨に顔を歪め、ち、と鋭く舌打ちを鳴らした。
「──ッ、嫌だ、離れろ…!あぁ、離せ、──離してくれ…っ!」
「は…。お前、そんなに蜘蛛が怖いのかよ。…まあ、餌の羽虫なら当然か。」
事も無げに言ってのけ、残酷な笑みを象って持ち上がる口許から覗くのは、二本の白い毒牙だった。この身を生かし続けながら貪り喰らうための毒を注ぎ込む鋭い牙を目の当たりにして、ムラサキの全身を蝕む恐怖はいよいよ増してゆくばかりだ。
嘗て、恐れるものなど何ひとつなくこの森の空を駆けた『蝶の王』は、今、蜘蛛以外の誰もが恐れる死に様として、若い毒蜘蛛の餌になって生涯を終えようとしている。それも、目一杯長い苦痛の時を味わった後で。
甘い蜜の罠に誘われた迂闊な己の運命からも、この森に棲むどの蜘蛛の糸よりも丈夫で残酷な拘束の糸からも逃れる術なく、宙吊りにされた全身を捩って激しく暴れ、纏う和装の裾が乱れることも気に掛けずに、濃紫に黄色の斑点を持つ翅で地を打ちながら力一杯羽ばたいた。
そんなムラサキの死に際の悪足掻きを、鮮烈な桃色の髪を持つ若い雄蜘蛛は、黒い隈に縁取られた嗜虐的な青い目を細めて、あたかも愉しいものでも眺めるかのように、嗤いながらじっと見下ろしている。
「モモイロドクグモの毒はな、ほんの少しばかりの間に羽虫どもの全身に回って、身体を麻痺させる。後は、自分の肉を喰われ、体液を少しずつ啜られていくところを、声も出せずに死ぬまで待ってりゃいい。──蜂の蛹は手間はかからねえし、まあ柔らかくて美味いが、ただそこに転がってるだけで泣きも怖がりもしねえ。……生憎、俺は羽虫っていう高慢な生き物が大嫌いでな。硬くて不味い雄の蝶でも、玩具代わりにするなら悪くねえか…。」
モモイロドクグモという種族など、とんと聞き覚えがない。故に、逃れる術も戦う術も、まるで見当がつかない。本来、この森には棲んでいない筈の悪夢のような蟲人にまともに太刀打ちする術を持つ蟲人など、恐らく、いないのだ。
その時になって、ムラサキは初めて無人の要塞の所以を、この恐ろしいまでに強い毒を持ち、強靭な糸を綯うことのできる若い毒蜘蛛が、たった一匹で蜜蜂の大群が護る強固な要塞を征服してのけたのだという事実を悟った。
降りしきる雪の粒より尚冷たい、驚愕交じりの圧倒的な畏怖が背筋を駆け降り、睫毛の長い面輪を、すらりと長い手足を、たちまちのうちにぴたりと凍り付かせる。
「なあ、どんな気分だよ。この歳まで生き延びて、我が物顔で俺の頭の上を飛び回ってきた羽虫が、ただ地面を這いずり回るだけの毒蜘蛛に喰われようとしてんだぜ…?」
「…嫌だ、嫌…ッ──!…頼む、殺すなら…いっそ、一思いに殺してくれ──!」
心底そう思えるほどに、毒蜘蛛に生きながらにして捕食されることへの筆舌に尽くし難い恐怖は、花の蜜や花粉を糧とする蝶の本能の更に根幹部分へと色濃く染み付いている。前髪の一房がすっかり白く染まった髪を強く掴まれて引き上げられる苦痛より、今から味わわされる捕食の苦痛への激しい怖れが遥かに勝った。色褪せて四隅が綻びているとはいえ、細身で背の高い全身を空に舞い上げるだけの力強い二対四枚の翅を激しく羽ばたかせて、粘つく残酷な糸からどうにか逃れようと只管、足掻く。
ムラサキの頭の中を満たすのは、混沌とした絶望と恐怖。木の壁に、床に、翅が当たって鱗粉が煌めきながらさらに剥がれ落ちようとも、翅の隅がさらに大きく裂けようとも、手足に靱やかな蜘蛛糸がきつく食い込んで痛もうとも、未知の恐怖から逃れようとして、無力な悪足掻きを続ける。或いは、このまま力を使い果たして命を擦り減らし、風に吹かれる桜の花弁のように儚く散ってしまえた方がどれほど幸いだろうかとも思えた。
ムラサキが闇雲に翅を広げて打ち付ける度、不規則な風が生じる。毳々しい桃色の髪を揺らがせて蝶の恐怖を喰らい、冷酷に嗤っていた若い雄蜘蛛は、不意に顔を顰めてムラサキの髪から手を離した。
蜘蛛は、眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな、しかし何かが解せないという風な表情で、膝を折り曲げる形で仰向けに宙吊りにされたムラサキの、すっかり怯え切った顔をまじまじと眺めていた。
「…イラつくな、羽虫。テメェ、何でそんな匂いをさせてやがるんだ──?」
「な…に──?」
一瞬、何を言われたのかが理解できなかった。
再び伸びてきた、黒革の洋風の上着に包まれた腕。黒く塗られた爪を持つ、無骨な銀の指輪を幾つも嵌めた指が、今度はムラサキの顎先を強く掴んで上向かせに掛かる。恐怖に耐えかねて反射的に羽ばたきで風を起こすと、蜘蛛は露骨に顔を歪め、ち、と鋭く舌打ちを鳴らした。
21
お気に入りに追加
41
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集
あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。
こちらの短編集は
絶対支配な攻めが、
快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす
1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。
不定期更新ですが、
1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
書きかけの長編が止まってますが、
短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。
よろしくお願いします!
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない
すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。
実の親子による禁断の関係です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる