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毒蜘蛛.1
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「痩せて老いぼれた蝶一匹。喰ったところで腹の足しにもなりゃしねえ。おまけに雄なんざ、筋張って喰い出もねえし、美味くもねえ。ここのところ、柔らかい蜂の子供ばかり喰ってきちまったからなぁ──。ま、それも無くなったら贅沢も言えねえ、か。」
「──ッ、嫌だ、離れろ…!あぁ、離せ、──離してくれ…っ!」
「は…。お前、そんなに蜘蛛が怖いのかよ。…まあ、餌の羽虫なら当然か。」
事も無げに言ってのけ、残酷な笑みを象って持ち上がる口許から覗くのは、二本の白い毒牙だった。この身を生かし続けながら貪り喰らうための毒を注ぎ込む鋭い牙を目の当たりにして、ムラサキの全身を蝕む恐怖はいよいよ増してゆくばかりだ。
嘗て、恐れるものなど何ひとつなくこの森の空を駆けた『蝶の王』は、今、蜘蛛以外の誰もが恐れる死に様として、若い毒蜘蛛の餌になって生涯を終えようとしている。それも、目一杯長い苦痛の時を味わった後で。
甘い蜜の罠に誘われた迂闊な己の運命からも、この森に棲むどの蜘蛛の糸よりも丈夫で残酷な拘束の糸からも逃れる術なく、宙吊りにされた全身を捩って激しく暴れ、纏う和装の裾が乱れることも気に掛けずに、濃紫に黄色の斑点を持つ翅で地を打ちながら力一杯羽ばたいた。
そんなムラサキの死に際の悪足掻きを、鮮烈な桃色の髪を持つ若い雄蜘蛛は、黒い隈に縁取られた嗜虐的な青い目を細めて、あたかも愉しいものでも眺めるかのように、嗤いながらじっと見下ろしている。
「モモイロドクグモの毒はな、ほんの少しばかりの間に羽虫どもの全身に回って、身体を麻痺させる。後は、自分の肉を喰われ、体液を少しずつ啜られていくところを、声も出せずに死ぬまで待ってりゃいい。──蜂の蛹は手間はかからねえし、まあ柔らかくて美味いが、ただそこに転がってるだけで泣きも怖がりもしねえ。……生憎、俺は羽虫っていう高慢な生き物が大嫌いでな。硬くて不味い雄の蝶でも、玩具代わりにするなら悪くねえか…。」
モモイロドクグモという種族など、とんと聞き覚えがない。故に、逃れる術も戦う術も、まるで見当がつかない。本来、この森には棲んでいない筈の悪夢のような蟲人にまともに太刀打ちする術を持つ蟲人など、恐らく、いないのだ。
その時になって、ムラサキは初めて無人の要塞の所以を、この恐ろしいまでに強い毒を持ち、強靭な糸を綯うことのできる若い毒蜘蛛が、たった一匹で蜜蜂の大群が護る強固な要塞を征服してのけたのだという事実を悟った。
降りしきる雪の粒より尚冷たい、驚愕交じりの圧倒的な畏怖が背筋を駆け降り、睫毛の長い面輪を、すらりと長い手足を、たちまちのうちにぴたりと凍り付かせる。
「なあ、どんな気分だよ。この歳まで生き延びて、我が物顔で俺の頭の上を飛び回ってきた羽虫が、ただ地面を這いずり回るだけの毒蜘蛛に喰われようとしてんだぜ…?」
「…嫌だ、嫌…ッ──!…頼む、殺すなら…いっそ、一思いに殺してくれ──!」
心底そう思えるほどに、毒蜘蛛に生きながらにして捕食されることへの筆舌に尽くし難い恐怖は、花の蜜や花粉を糧とする蝶の本能の更に根幹部分へと色濃く染み付いている。前髪の一房がすっかり白く染まった髪を強く掴まれて引き上げられる苦痛より、今から味わわされる捕食の苦痛への激しい怖れが遥かに勝った。色褪せて四隅が綻びているとはいえ、細身で背の高い全身を空に舞い上げるだけの力強い二対四枚の翅を激しく羽ばたかせて、粘つく残酷な糸からどうにか逃れようと只管、足掻く。
ムラサキの頭の中を満たすのは、混沌とした絶望と恐怖。木の壁に、床に、翅が当たって鱗粉が煌めきながらさらに剥がれ落ちようとも、翅の隅がさらに大きく裂けようとも、手足に靱やかな蜘蛛糸がきつく食い込んで痛もうとも、未知の恐怖から逃れようとして、無力な悪足掻きを続ける。或いは、このまま力を使い果たして命を擦り減らし、風に吹かれる桜の花弁のように儚く散ってしまえた方がどれほど幸いだろうかとも思えた。
ムラサキが闇雲に翅を広げて打ち付ける度、不規則な風が生じる。毳々しい桃色の髪を揺らがせて蝶の恐怖を喰らい、冷酷に嗤っていた若い雄蜘蛛は、不意に顔を顰めてムラサキの髪から手を離した。
蜘蛛は、眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな、しかし何かが解せないという風な表情で、膝を折り曲げる形で仰向けに宙吊りにされたムラサキの、すっかり怯え切った顔をまじまじと眺めていた。
「…イラつくな、羽虫。テメェ、何でそんな匂いをさせてやがるんだ──?」
「な…に──?」
一瞬、何を言われたのかが理解できなかった。
再び伸びてきた、黒革の洋風の上着に包まれた腕。黒く塗られた爪を持つ、無骨な銀の指輪を幾つも嵌めた指が、今度はムラサキの顎先を強く掴んで上向かせに掛かる。恐怖に耐えかねて反射的に羽ばたきで風を起こすと、蜘蛛は露骨に顔を歪め、ち、と鋭く舌打ちを鳴らした。
「──ッ、嫌だ、離れろ…!あぁ、離せ、──離してくれ…っ!」
「は…。お前、そんなに蜘蛛が怖いのかよ。…まあ、餌の羽虫なら当然か。」
事も無げに言ってのけ、残酷な笑みを象って持ち上がる口許から覗くのは、二本の白い毒牙だった。この身を生かし続けながら貪り喰らうための毒を注ぎ込む鋭い牙を目の当たりにして、ムラサキの全身を蝕む恐怖はいよいよ増してゆくばかりだ。
嘗て、恐れるものなど何ひとつなくこの森の空を駆けた『蝶の王』は、今、蜘蛛以外の誰もが恐れる死に様として、若い毒蜘蛛の餌になって生涯を終えようとしている。それも、目一杯長い苦痛の時を味わった後で。
甘い蜜の罠に誘われた迂闊な己の運命からも、この森に棲むどの蜘蛛の糸よりも丈夫で残酷な拘束の糸からも逃れる術なく、宙吊りにされた全身を捩って激しく暴れ、纏う和装の裾が乱れることも気に掛けずに、濃紫に黄色の斑点を持つ翅で地を打ちながら力一杯羽ばたいた。
そんなムラサキの死に際の悪足掻きを、鮮烈な桃色の髪を持つ若い雄蜘蛛は、黒い隈に縁取られた嗜虐的な青い目を細めて、あたかも愉しいものでも眺めるかのように、嗤いながらじっと見下ろしている。
「モモイロドクグモの毒はな、ほんの少しばかりの間に羽虫どもの全身に回って、身体を麻痺させる。後は、自分の肉を喰われ、体液を少しずつ啜られていくところを、声も出せずに死ぬまで待ってりゃいい。──蜂の蛹は手間はかからねえし、まあ柔らかくて美味いが、ただそこに転がってるだけで泣きも怖がりもしねえ。……生憎、俺は羽虫っていう高慢な生き物が大嫌いでな。硬くて不味い雄の蝶でも、玩具代わりにするなら悪くねえか…。」
モモイロドクグモという種族など、とんと聞き覚えがない。故に、逃れる術も戦う術も、まるで見当がつかない。本来、この森には棲んでいない筈の悪夢のような蟲人にまともに太刀打ちする術を持つ蟲人など、恐らく、いないのだ。
その時になって、ムラサキは初めて無人の要塞の所以を、この恐ろしいまでに強い毒を持ち、強靭な糸を綯うことのできる若い毒蜘蛛が、たった一匹で蜜蜂の大群が護る強固な要塞を征服してのけたのだという事実を悟った。
降りしきる雪の粒より尚冷たい、驚愕交じりの圧倒的な畏怖が背筋を駆け降り、睫毛の長い面輪を、すらりと長い手足を、たちまちのうちにぴたりと凍り付かせる。
「なあ、どんな気分だよ。この歳まで生き延びて、我が物顔で俺の頭の上を飛び回ってきた羽虫が、ただ地面を這いずり回るだけの毒蜘蛛に喰われようとしてんだぜ…?」
「…嫌だ、嫌…ッ──!…頼む、殺すなら…いっそ、一思いに殺してくれ──!」
心底そう思えるほどに、毒蜘蛛に生きながらにして捕食されることへの筆舌に尽くし難い恐怖は、花の蜜や花粉を糧とする蝶の本能の更に根幹部分へと色濃く染み付いている。前髪の一房がすっかり白く染まった髪を強く掴まれて引き上げられる苦痛より、今から味わわされる捕食の苦痛への激しい怖れが遥かに勝った。色褪せて四隅が綻びているとはいえ、細身で背の高い全身を空に舞い上げるだけの力強い二対四枚の翅を激しく羽ばたかせて、粘つく残酷な糸からどうにか逃れようと只管、足掻く。
ムラサキの頭の中を満たすのは、混沌とした絶望と恐怖。木の壁に、床に、翅が当たって鱗粉が煌めきながらさらに剥がれ落ちようとも、翅の隅がさらに大きく裂けようとも、手足に靱やかな蜘蛛糸がきつく食い込んで痛もうとも、未知の恐怖から逃れようとして、無力な悪足掻きを続ける。或いは、このまま力を使い果たして命を擦り減らし、風に吹かれる桜の花弁のように儚く散ってしまえた方がどれほど幸いだろうかとも思えた。
ムラサキが闇雲に翅を広げて打ち付ける度、不規則な風が生じる。毳々しい桃色の髪を揺らがせて蝶の恐怖を喰らい、冷酷に嗤っていた若い雄蜘蛛は、不意に顔を顰めてムラサキの髪から手を離した。
蜘蛛は、眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな、しかし何かが解せないという風な表情で、膝を折り曲げる形で仰向けに宙吊りにされたムラサキの、すっかり怯え切った顔をまじまじと眺めていた。
「…イラつくな、羽虫。テメェ、何でそんな匂いをさせてやがるんだ──?」
「な…に──?」
一瞬、何を言われたのかが理解できなかった。
再び伸びてきた、黒革の洋風の上着に包まれた腕。黒く塗られた爪を持つ、無骨な銀の指輪を幾つも嵌めた指が、今度はムラサキの顎先を強く掴んで上向かせに掛かる。恐怖に耐えかねて反射的に羽ばたきで風を起こすと、蜘蛛は露骨に顔を歪め、ち、と鋭く舌打ちを鳴らした。
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