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プロローグ

扉の向こう

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 見渡す限り一面に広がる赤。ツンと鼻につく異臭。
 それが血なんだということはせ返るほど濃厚な鉄の匂いですぐにわかった。
 
 しかしなぜこのような事態になっているのかは全くもってわからない。
 俺がこの扉を目指していた時にはこんな血溜まりなんてなかった筈だ。
 俺が意識を失った後に何かがあったとしか考えられない。

 ……もしかして俺がやったのか?

 しかしどうやって、という疑問が尽きない。
 俺は確かに死にかけだった。命は風前の灯。文字通り虫の息だ。腕は切断され、胴体は分断されていた。体から内臓がこぼれ落ちる感触。血が失われていく寒気は今でも鮮明に思い出せる。
 
 放っておいてもわずか数分後、いや次の瞬間には死んでいても不思議ではない状態だった。
 
 様々な死を経験した俺だからこそわかる。
 
 あの状態から助かる可能性は、万に一つもない。

……いや待てよ。

 たしか気を失う間際に鎧武者の肉片を飲み込んでしまったのだった。
 
 その後、全身に感じたことのないほどの激痛が走っていた。何度も残虐な殺され方を経験してきたが、あのような悍ましい感触はついぞ味わったことがない。
 
 例えるならば、身体の中で無数の蟲が這いまわっているような感触だった。
 それも身体中の隅々、それこそ頭のてっぺんから分断された下半身の爪先に至るまで全てだ。
 
 俺はその後すぐに意識を失った。
 あの後に何があったのかはわからないが今は切断されたはずの腕が生えていて、分断されたはずの胴体が元に戻っている。

 記憶がない空白の時間。
 そのときに何かが起こったことは間違いない。

 思えばヤツらは魔法のようなモノを使っていた。今思えばあれは魔術だったのだろう。ラナが使っていた物と同じだ。
 何もないところから火や氷、岩などを作り出していた。
 あれが本当なら分断された身体でさえ治せる回復魔術なんかもあるのかもしれない。
 しかし、殺した相手に使うのかと言われると疑問が残る。

 ……いやヤツらならやるか?

 痛ぶるためという目的であればやるかもしれない。そう思ったが、痛ぶられた記憶がない。

 考えれば考えるほど訳がわからなくなってくる。
 頭がパンクしそうだ。ここでいくら考えても答えなんて出ない。
 
 だから、そんな事は……。

 ――どうでもいい。

 視界が赤く染まっていく。
 
 本能がこんなものですら生ぬるいと告げている。見れば血溜まりの中にいくつか形の残ったモノがある。
 俺は幽鬼のような足取りで血の湖の中を歩いていく。
 
 小さな肉塊を踏み潰し、グチャリと不快な音がするが何の感慨も湧かない。いやむしろ心地良い。
 やがて湖の中央付近にたどり着いた。
 
 そこには棍棒が転がっていた。身の丈をゆうに超える巨大な棍棒。とても人間が使用する用途で造られたとは思えない。
 俺はこの棍棒を知っている。腕が丸太のように肥大化したバケモノが使っていたものだ。
 
 俺はそいつに何度も骨を折られ、肉を潰され、挽肉にされた。
 その忌々しい棍棒を手に取る。
 何十キロもするであろう棍棒が木の枝のように軽い。
 それを持ち、歩いていく。目的地は決まっている。数歩歩くだけで目的のモノに辿り着いた。
 
 俺はソレの前で棍棒を頭上に掲げ、容赦なく振り下ろした。
 グチャっという愉快な音がした。飛び跳ねた血が顔にかかる。だがそんな事は気にもならない。
 
 もう一度、棍棒を上げ、振り下ろす。もう一度、もう一度、もう一度。
 やがてソレは原型がわからないほどグチャグチャになり、血の湖に沈んでいった。

「……次」

 堪えきれずに笑いが漏れる。口の端が否応なく上がる。最高の気分だ。楽しくて仕方がない。
 周囲を見渡すと他にもかろうじて原型を留めているものがあった。
 
 フラフラと棍棒を引きずりながら歩く。
 ソレの前にたどり着くと、棍棒を振り下ろし粉々に、ぐちゃぐちゃに跡形も残らず轢き潰す。
 何度も何度も繰り返した。

「ハハハハハ」

 何度繰り返しただろうか。
 あたりに転がっていた肉塊は残り一つとなった。
 最高に気分がいい。いままでに感じたことの無い程の高揚感。全て思い通りになるという全能感が全身を満たす。
 
 これを潰せば最後だ。事が終われば今までにない興奮を味わえると全細胞が告げている。
 
 ……早く、早く潰さなくては!

 俺は棍棒を振り上げた。目の前にある肉塊へ向けて。
 
 そして本能に従い棍棒を振り下ろ…………。

「……?」

 胸が熱い。
 いや決して熱いわけでは無い。
 例えるならば太陽のように暖かな光だ。それが胸から溢れ出し全身に行き渡る。
 それが心底――。

「気持ち悪い!」

 思わず棍棒を投げ捨て全身を掻きむしる。
 気持ち悪さの源である熱を剥ぎ取ろうと、肌に爪を立てる。
 しかしどれほど強く引っ掻こうとも肌には傷の一つも付かなかった。
 そこで胸に何かがついているのを見つけた。

「なんだこれ?」

 胸の中心に見知らぬ紋様が浮かび上がっていた。氷の結晶のような蒼い紋様が胸を覆っている。
 それが薄らと暖かな輝きを放っている。そして次第にその光は強くなっていき、やがて一際大きく輝いた。
 次の瞬間には気持ち悪さは消えていた。

「は?」

 そこでふと我に帰った。
 
 そして両手が血に染まっている事に気付いた。
 当然と言えば当然だ。なにせヤツらの肉塊を潰して回ったのだから。
 肉を潰す感触が手に残っている。あれだけ心地の良かった高揚感はすっかり消えて、代わりに嫌悪感が湧いてくる。
 まるで自分が自分ではないみたいだ。

「うぇえええ」

 あまりの気持ち悪さに嘔吐した。
 胃の中には何も入っていなかったらしく、胃液だけが流れ出る。

「……これを…………俺が?」

 血溜まりに写る俺は全身が赤く染まっていた。どうしてこんな事をしたのかわからない。どうしてあの様な高揚感を抱いたのかわからない。
 
 確かに俺はヤツらを憎悪している。
 
 殺したいと思った事も数え切れないほどある。しかしあの高揚感は異常だ。
 もしあのまま最後の肉塊を潰していたらと考えるとゾッとする。

「…………戻ろう」

 この空間から一刻も早く離れたかった。俺はラナの元へ戻るべく歩き出した。
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