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第三章
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「ねぇ、ウィルキウス。もしかしてまた背が伸びた?」
「いくらなんでも、もう伸びてはいないと思うけれど、どうかしら?」
久しぶりに会った異母姉に抱きしめられ、ベアトリーチェは珍しく身体の力を抜き、その身を姉に預ける。
同じ王宮にいながら、互いの事情からあまり関わる事のない姉と弟は、周囲に一切の人目がない事で、本来の親しさで接していた。
「最近の兄さんの様子はどう?」
薄暗い廊下で声を顰めて、ベアトリーチェがソニアに問う。その質問に、ソニアは僅かに困ったように口籠った。
「…そうね、普通に過ごしているわ。外を散歩したり、静かに本を読んだりしている。買い物や代筆の仕事もちゃんとこなせているわ。だけどまだ時々、赤い色に反応して、混乱することはある。本人はなぜそうなるかを覚えていないから、少し不安そうね。でも、貴方の作ってくれた薬を飲むと落ち着くから、問題はないわ」
「そう、とりあえず日常生活を送れているようで良かったわ」
「そうね。記憶を消してしまう前のように四六時中部屋の隅で震えていたり、突然発狂したように悲鳴をあげたり、音に怯える事はなくなったわ。夜も悪夢にうなされて目を覚ます事もない。けれどその代償に、ベルナルドは己の人生をかけてまで守った、大切な弟である貴方を忘れてしまった……」
ソニアは彼女のもう一人の異母弟を想い、普段は柔らかなその表情を曇らせた。
「そればかりはどうしようもないわ。魔女の薬でも、完全に壊れてしまった心を治す事は出来ない。出来るのは、表面上の記憶を全て消し去る事だけ。あの時、あの邸で一緒に捕らえられていた私ごと、記憶を消し去る以外に、兄さんを助ける方法はなかった。あのままでは、きっと兄さんは自ら命を絶っていたわ」
「貴方はそれでいいの?今なら弟のウィルキウスではなくとも、『ベアトリーチェ』として、あの子に会う事も出来るのではないの?」
「どうかしら。人の脳は複雑過ぎるもの。魔女の薬であの邸での記憶を消し去ったけれど、記憶というものはいろんな場所に断片的に散らばり、消し去れなかったかけらがどうしても存在するの。だから、ふとした事で記憶の回路が繋がってしまう事もある。私と言う存在は、その可能性を引き起こすかもしれない」
ベアトリーチェは秀麗な顔に、少し悲しげな微笑を浮かべた。その表情は彼の姉と、今はもう彼の事を忘れてしまった兄にしか向けられない、彼の本心からの表情だった。
優しい姉の温もりに包まれながら、不意にベアトリーチェの脳裏には、あのおぞましいローヴェル邸の離れに囚われていた時の記憶が浮かび上がった。
兄であるベルナルドは、弟である己を庇い、陵辱されるとわかっていながら自ら邸の主人の元へと行った。
ウィルキウスは自分が行くと必死に兄に訴えたが、兄はウィルキウスを地下の部屋から出そうとはしなかった。
ウィルキウスはそんな兄が本館に連れて行かれるたびに、無事に生きて戻って来る事をただひたすらに願い、地下の部屋の明かり取りの窓の外を見ていた。
そんな地獄のような日々の中、ある日彼は彼の光を見つけた。手入れされた庭園のはるか先で、幻想的に舞う幾匹もの青い蝶に囲まれた、精巧なビスクドールのように美しい少女。
青紫がかった銀糸の髪の少女は、この汚らわしく残酷な世界のものと思えない程に、神秘的で何の穢れもないように見えた。
ウィルキウスは地下の部屋から声が届く事は無いと知りながらも、少女に向かって何度も助けを求め叫んだ。
何故かあの時の彼は、あの少女だけが、この地獄に残された最後の光に思えたのだ。
けれど少女は彼の声に気づく事はなかった。そして少女はウィルキウスの視線の先で、幼いながらも人を惹きつける美しい相貌に、花が咲き誇るような艶やかな笑みを浮かべ、兄によく似たプラチナブロンドの髪の少年の方へと、走り去ってしまった。
その時の絶望感と、切り裂かれるような心の痛みは、今も忘れる事はない。
それでもその日から、ウィルキウスはただひたすら明かり取りの小さな窓から、青紫がかった銀の髪の少女の姿を探し続けた。
このおぞましい邸の中で、ただ一人、異質なまでに美しい少女。あの少女なら、きっとここから兄を助け出してくれる。そんな根拠のない希望と共に、時折庭園に姿を見せる少女の姿を祈るように見ていた。
少女の周囲に人がいる時は、声をあげる事はできない。それでもどうか、ここに囚われている自分に気づいて欲しいと、ただ願いながら。
けれど、少女が離れの屋敷の、地面ギリギリにある小さな窓に気づく事は、ついぞ無かった。ウィルキウスの祈りの声は、誰にも届かなかった。
それでも彼は、少女の姿を探し続けた。
まるで真っ暗なこの世界の中、たった一つの希望のように、ただ彼女を望んだ。
全ての終わりであり始まりである、あの嵐の日まで…。
「いくらなんでも、もう伸びてはいないと思うけれど、どうかしら?」
久しぶりに会った異母姉に抱きしめられ、ベアトリーチェは珍しく身体の力を抜き、その身を姉に預ける。
同じ王宮にいながら、互いの事情からあまり関わる事のない姉と弟は、周囲に一切の人目がない事で、本来の親しさで接していた。
「最近の兄さんの様子はどう?」
薄暗い廊下で声を顰めて、ベアトリーチェがソニアに問う。その質問に、ソニアは僅かに困ったように口籠った。
「…そうね、普通に過ごしているわ。外を散歩したり、静かに本を読んだりしている。買い物や代筆の仕事もちゃんとこなせているわ。だけどまだ時々、赤い色に反応して、混乱することはある。本人はなぜそうなるかを覚えていないから、少し不安そうね。でも、貴方の作ってくれた薬を飲むと落ち着くから、問題はないわ」
「そう、とりあえず日常生活を送れているようで良かったわ」
「そうね。記憶を消してしまう前のように四六時中部屋の隅で震えていたり、突然発狂したように悲鳴をあげたり、音に怯える事はなくなったわ。夜も悪夢にうなされて目を覚ます事もない。けれどその代償に、ベルナルドは己の人生をかけてまで守った、大切な弟である貴方を忘れてしまった……」
ソニアは彼女のもう一人の異母弟を想い、普段は柔らかなその表情を曇らせた。
「そればかりはどうしようもないわ。魔女の薬でも、完全に壊れてしまった心を治す事は出来ない。出来るのは、表面上の記憶を全て消し去る事だけ。あの時、あの邸で一緒に捕らえられていた私ごと、記憶を消し去る以外に、兄さんを助ける方法はなかった。あのままでは、きっと兄さんは自ら命を絶っていたわ」
「貴方はそれでいいの?今なら弟のウィルキウスではなくとも、『ベアトリーチェ』として、あの子に会う事も出来るのではないの?」
「どうかしら。人の脳は複雑過ぎるもの。魔女の薬であの邸での記憶を消し去ったけれど、記憶というものはいろんな場所に断片的に散らばり、消し去れなかったかけらがどうしても存在するの。だから、ふとした事で記憶の回路が繋がってしまう事もある。私と言う存在は、その可能性を引き起こすかもしれない」
ベアトリーチェは秀麗な顔に、少し悲しげな微笑を浮かべた。その表情は彼の姉と、今はもう彼の事を忘れてしまった兄にしか向けられない、彼の本心からの表情だった。
優しい姉の温もりに包まれながら、不意にベアトリーチェの脳裏には、あのおぞましいローヴェル邸の離れに囚われていた時の記憶が浮かび上がった。
兄であるベルナルドは、弟である己を庇い、陵辱されるとわかっていながら自ら邸の主人の元へと行った。
ウィルキウスは自分が行くと必死に兄に訴えたが、兄はウィルキウスを地下の部屋から出そうとはしなかった。
ウィルキウスはそんな兄が本館に連れて行かれるたびに、無事に生きて戻って来る事をただひたすらに願い、地下の部屋の明かり取りの窓の外を見ていた。
そんな地獄のような日々の中、ある日彼は彼の光を見つけた。手入れされた庭園のはるか先で、幻想的に舞う幾匹もの青い蝶に囲まれた、精巧なビスクドールのように美しい少女。
青紫がかった銀糸の髪の少女は、この汚らわしく残酷な世界のものと思えない程に、神秘的で何の穢れもないように見えた。
ウィルキウスは地下の部屋から声が届く事は無いと知りながらも、少女に向かって何度も助けを求め叫んだ。
何故かあの時の彼は、あの少女だけが、この地獄に残された最後の光に思えたのだ。
けれど少女は彼の声に気づく事はなかった。そして少女はウィルキウスの視線の先で、幼いながらも人を惹きつける美しい相貌に、花が咲き誇るような艶やかな笑みを浮かべ、兄によく似たプラチナブロンドの髪の少年の方へと、走り去ってしまった。
その時の絶望感と、切り裂かれるような心の痛みは、今も忘れる事はない。
それでもその日から、ウィルキウスはただひたすら明かり取りの小さな窓から、青紫がかった銀の髪の少女の姿を探し続けた。
このおぞましい邸の中で、ただ一人、異質なまでに美しい少女。あの少女なら、きっとここから兄を助け出してくれる。そんな根拠のない希望と共に、時折庭園に姿を見せる少女の姿を祈るように見ていた。
少女の周囲に人がいる時は、声をあげる事はできない。それでもどうか、ここに囚われている自分に気づいて欲しいと、ただ願いながら。
けれど、少女が離れの屋敷の、地面ギリギリにある小さな窓に気づく事は、ついぞ無かった。ウィルキウスの祈りの声は、誰にも届かなかった。
それでも彼は、少女の姿を探し続けた。
まるで真っ暗なこの世界の中、たった一つの希望のように、ただ彼女を望んだ。
全ての終わりであり始まりである、あの嵐の日まで…。
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