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第三章
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しおりを挟むいつものように、ウィルキウスと彼の兄ベルナルドが囚われていた地下の部屋から、ベルナルドが邸の主人の所へと連れて行かれたその日。
東の空には、幾重にも重なる黒い雲が見えた。地下にどこからともなく吹き込んでくる風は、多分の湿気を含み、嵐の前触れを予感させた。そして、その予想は当たった。昼をすぎてしばらくした後、灯りのない室内が何も見えなくなる程に、外では土砂降りの雨が降り始めた。
天井近くの小さな明かり取りの窓には、大粒の雨が叩きつけ、風は悲鳴のような唸りをあげている。ただの嵐であるにも関わらず、ウィルキウスはとてつもない不安と胸騒ぎがした。いつもと何かが違うと、無意識に感じた、
そんな時、この地下に声を荒げながら二人の男女が降りて来たのがわかった。
二人が近づくにつれて、半狂乱のような口論が聞き取れるようになった。
そして、ウィルキウスがいる部屋の前で、扉の鍵を開けながら、二人は彼を今すぐ殺すかどうか、言い争っていた。
「こいつさえ殺して仕舞えば、リーベンデイルの生きた人形がここにいた事実は無くなる、今すぐ殺して湖に捨てに行けばいい」
時折この地下に兄を連れにくる男が叫んだ。だが、その声に女性が反論した。
「この子を殺した事がバレたら、私達は人殺しよ。でも生かしておけば、主人に言われるがままに、身寄りのない子供を世話していただけだと言える」
「だが、こいつは全部知っているぞ」
二人の会話からして、この邸で今まさに何かが起こっていると、ウィルキウスは察した。
「いま、邸の者が王弟殿下を呼びに行っている。こいつを殺さずにここでリーベンデイルの生きた人形の売買が行われていたと知られれば、俺達も同罪になる。だがこいつさえ殺して仕舞えば、今この屋敷にいるリーベンデイルの生きた人形は、侯爵の寝台にいる奴だけになる。一人なら、侯爵が個人的に知り合いの子供を預かり、手籠にしていただけだと言えるだろうが」
男は大声で話しながら、部屋の鍵を開け、ドアの取手を握ったまま、廊下にいる女性を見ている。リーベンデイルの生きた人形とは、自分達のような違法奴隷の隠語だろうと、ウィルキウスは思った。けれどなぜか、同時に時折庭で見かける美しいビスクドールのような青紫の髪の少女を連想した。
「あの切れ者と噂の王弟殿下よ?何もかも調べて、すぐに真実を突き止めるわ。それ以前に、侯爵の寝台にいるあの子が、王弟殿下に真実を話すに決まっているわ」
男女の会話から、侯爵が兄を連れ込んだ所で何かが起こったのだと推測できる。使用人ではどうしようもないような何かが。
だからこそ、この邸の主人よりも身分が上の王弟が呼ばれたのだろう。
そして、この二人は今、奴隷として売られるはずだった己を殺して、証拠を消すかどうかを言い争っている。
ゾクリとウィルキウスの背筋に冷たい物が走った。このままでは殺されると、本能で感じた。
だとすれば一刻の猶予もない。少なくとも侯爵の部屋に連れて行かれた兄は生きていて、すぐに殺される状態ではない。
ならば今1番危険なのは、ウィルキウス自身だ。
相変わらず男は扉の前に立ち、後ろを向いて廊下にいる女性と言い争っている。
それを確認した瞬間、ウィルキウスはそっと動き出した。部屋に置かれていた簡素な椅子を持ち、後ろを向いたままの男の後頭部に、椅子を叩きつけた。
瞬間、椅子の脚が折れ、野太い悲鳴が上がる。男は足元をふらつかせ、床に蹲った。折れた椅子の脚先は歪に尖り、真っ赤な血が付着していた。ウィルキウスは即座に男の隣をすり抜け、廊下にいる女性に向けて、折れた椅子の脚先を向ける。それは太く鋭い杭のようで、少年の力であろうとも容易に皮膚を貫く事が出来る形になっていた。
「どけ!!俺をここから出せ!!」
血が滴る椅子の脚先を向けただけで、あっけなく女性は後退り、通路をあける。
だが、その時血を流した男が起き上がり、怒りの形相でウィルキウスに手を伸ばして来た。そんな男の顔に向けて、ウィルキウスは折れた椅子の脚を、突き刺すように叩きつけた。
その鋭く尖った脚先は男の目に当たり、男は目を手で押さえ、絶叫した。指の間から血が滴る。多分折れて歪に尖った脚先が、男の目に刺さったのだろう。男はもはやウィルキウスを捕えようともせずに、痛みによる悲鳴をあげるだけだった。
ウィルキウスはそんな男など、気にも留めず、椅子を投げ捨て地下の通路を走った。地上に出るまでの道は覚えている。ここに連れて来られた時の、邸の外へと出られる、庭師がたまに出入りするだけの目立たない道も。
息苦しさに肺が張り裂けそうになりながらも、懸命に走り、なんとか邸の離れから出た。あの地下に来た男女が口論していた内容からすると、少なくとも兄の命は無事で、邸の主人の部屋にいる。そして、もうすぐ騒ぎを収める為、王弟がここに来る。
王弟が敵か味方かわからない。けれど、すぐさま口封じに兄を殺したりはしないだろう。であれば、今は己がここから逃げる事が先決だ。前も見えないような土砂降りの雨と、地を揺らす程の雷鳴の中、ウィルキウスはただひたすらに走った。追手がいる気配は無い。それでも邸を抜け出し、大通りを避けて、目立たない路地裏になんとか逃げ込む。
走りながらも、張り裂けそうな程の心臓を押さえ、必死に呼吸する。だがやがて、これ以上何処へ行けば良いのかもわからなくなった時、彼の走る足は止まった。
それでも歩き続けた先で、ウィルキウスは古びた木造の店の軒下に、座り込んだ。
彼の全身はぐっしょりと雨に濡れて、徐々に体温を奪われていく。だが、不意に彼の体の側面に温かいものを感じた。ぴくりと身体を揺らし、そちらを見ると、そこには鍵尻尾の黒猫が、ウィルキウスの腰に、身体を擦り付けていた。そして、黒猫と視線が合うと、黒猫は無理矢理彼の膝の上に登って来た。
ウィルキウスが必死に呼吸を整えながら、黒猫に手を伸ばしたその時。突然古びた店の扉が、ギギっと蝶番の音を響かせながら開いた。
「おやおや、これはこれは。また物珍しい客を連れて来たね」
古びた店の中から、老女が顔を出し、驚きに目を見開いているウィルキウスを見た。
「魔女の店にようこそ。私は魔女のベアトリーチェ。よく来たね、時渡りの旅人。さぁ、店の中にお入り」
自らを魔女だと名乗った老女は、軒下に座り込んだウィルキウスを、店の中へといざなった。
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