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二十二話
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熱い塊が肉を裂いて押し入ってくる。
「いやっ、あ、ひうっ……!!」
生木を裂くように下肢を引き裂く激痛に理性が蒸発、かすれた悲鳴が迸る。
フックに掛けたシャワーが生温かい雨を降らし、うつ伏せの後頭部と剥き出しの背中を叩く。
「痛ッ、ひ、小金井さんやめ、お願いだから……あっ、うあ、や」
「死なないよこれっぽっちで。まだ先っぽしか入れてないじゃん」
耳の裏側に吐息の湿り気を感じ、背筋にそってぞくりと悪寒が這い上がる。
何がどうなってるんだ?
ぼくの位置からは見えない、見えないからおぞましい想像が働く。
目の前には無機質な正方形のタイルを貼った殺風景な壁。
浴室に乳白の湯気がこもる、タイルを叩くシャワーの音が規則的に鼓膜に響く。
排水口に渦巻き飲み込まれていく大量の水が裸の足裏を浸す。
タイルと向き合い肘を付き、尻を突き出す屈辱的な格好で悲鳴を上げる。
何度も何度も行為の中断を訴える、恥も外聞もプライドもかなぐり捨て哀願し謝罪する、お願いだからもうやめてくれと良心に縋る、この一ヶ月ぼくが見てきた小金井の残像に縋り付く。
「嘘だ、こんなの……小金井さ、んが、こんなことするはずない」
激痛と熱で朦朧とする頭で、呂律の回らぬ舌でうわごとを口走る。
小金井がこれまでぼくに見せてきた顔は芝居か、演技か、ぼくを騙し部屋に居座るための仮の姿か、これが小金井の本性?
指三本で慣らしたってまだきつい。
当たり前だ、排泄器官に異物をねじこまれるのは生まれて初めて簡単に慣れるはずない、よくなるはずがない。
挿入は激痛を伴う。
小金井は慣れた動作で律動的に腰を使う。
ぼくの腰を掴み手前に引き、速いペースで容赦なく腰をぶつけてくる。
「痛ぐっ………や、ぁう」
タイルに爪を立てる。
喉の奥で悲鳴が泡立つ。
今自分が強いられている行為を現実と認めたくない、認めたら最後壊れてしまう、心が打ち砕かれてしまう。
「すっげ……絞まる、きっつ」
内腿をなまぬるい水が伝う。
床を叩くシャワーに薄赤いものが一筋混ざる。血。
内臓を抉られる痛みと負荷に背骨が軋み、背中が撓る。
「は……ははっ、男とヤんの初めてだけど……意外とイケるもんだね。女の締め付けと違って新鮮」
タイルにぎりっと爪を立てる、ひっかく、血が滲むほど唇を噛む。
気持ちよくない、全然。
痛いだけだ、すごく痛い、痛くて痛くて気持ち悪い。
セックスなんか妄想の中だけで十分、ぼくには二次元があればそれで十分なのに高望みした罰だ、身の程知らずに恋なんかした罰だ、人を好きになった罰だ『気持ち悪いんだよオタク、死ねよ』『なに勘違いして学校きてんだよ、うじうじしたメガネづら晒して不快にさせんじゃねーよ』『生きてる資格ねえよ』そうだ、ぼくには生きてる資格がない、こんな根暗でうじうじして気持ち悪いヤツはたちすぎてアニメ漫画を卒業できずすぐべそかく女の腐ったようなヤツが人を好きになるなんて身の程知らずもいいところだ。
須藤さんだってぼくを見捨てた、見殺しにした、自分の保身のために切り捨てた。なら出会って一ヶ月の小金井がぼくを利用するのは当たり前で、ぼくは小金井にとって都合のいい道具にすぎなくて、なのにおめでたい頭で勘違いしていい気になって強烈なしっぺがえしをくらった。
自業自得だ
「許してください、ごめ、んなさい、お願いだから抜い、て……」
八王子東は死んだほうがマシな人間だ。
「なんでもする、から、お金払うから、ひっ、ふあ、中入ってるの抜いて、ひあぅ、も、ッ、こんなの死ぬ……」
「お金なんかいらないよ。体で楽しませてよ」
ぼくは被害者で。小金井は加害者で。その加害者に、お金を払うから見逃してくれと涙ながらに頼むぼくは、どこまで卑屈なんだろう。
見下げ果てた人間。
死んだほうがいい人間。
そのお金だってぼくが苦労して稼いだもんじゃない、親から貰ったものだ、あの部屋の中で一体自分が働いて稼いだ金で買ったものがあるか?
ないだろうひとつも。
「……痛ッ、あ、うあ、こがねいさ、おねがいだから、やめて、たすけて、いたい、動かさないで……」
「そそる声で泣いてもだーめ」
小金井が乱暴に突き入れてくる。
熱い塊が中の粘膜をえぐり、穿ち、鋭い激痛が脳天まで貫く。
肉と肉がぶつかりあう音、タイルを浸す水を蹴散らす音、獣じみて荒い劣情の息遣いに性急な衣擦れが混じり合う。
どうすればいい、どうすればやめてくれる、土下座すればいいのか、ぼくが口ですればいいのか、黒田はどうした、八年前を思い出せ。
八年前中学のクラスメイトは何がきっかけでぼくをいじめるのをやめた、きっかけ?そんなものない、始まるのも終わるのも気まぐれで突然だった、飽きるまで延延続いた、じゃあ今も?小金井が遊び飽き嬲り疲れるまで悪趣味な行為に付き合わされるのか、それしかないのか?
固く閉じた瞼の裏にちらつくかつてのクラスメイトの顔、のっぺらぼうの顔下半分に刻まれた嘲笑。
いつしかそののっぺらぼうの目鼻立ちがくっきりとして、小金井の顔に変化していく。
「ぐちゃぐちゃ音鳴ってるの聞こえる?東ちゃんの中から」
「………は………」
「やらしい音。粘膜の音。男って勝手にぬれないから不便だよね。東ちゃんが俺の手にたくさん出してくれたからちょっとはマシだけど……ローション代わりになって」
耳朶を唇が這う。
一筋、髪を咥える。
「言うな……」
荒い息のはざまから小さく言う。喘鳴にかき消されそうな、本当にかすかな声。
ますます抽送を加速させながら一方の手でぼくの腰を掴み、もう一方の手を前に回して戯れにいじくりこねまわし、嗜虐の愉悦に酔いしれ小金井が囁く。
「東ちゃんわかる?……見えないか、そこからじゃ。下半身、ピンク色に染まってる。恥ずかしいの?俺の言葉に興奮して?」
「強姦まがい……犯罪……」
「東ちゃんは誰にも言わないし言えない。そうでしょ?誰にも頼れないもんね、そういうふうに生きてきたんだ」
人と関係を結ばず。
その努力を放棄し。
八年間、暗い部屋に閉じこもって。
「警察に………いあっ、ああああああぁあああああああっ!?」
「それで脅してるつもり?できもしないこと言うのやめなって、かっこ悪い」
いやだ、立ってられない、立つのが辛い。
挿入の角度が変わる。
熱く潤んだ粘膜の一番感じる箇所に小金井が当たる。
小金井が反応に味をしめそこを激しく突けば、快感に比例して腰が跳ね上がる。
ちがう、嘘だ、男に強姦されて感じるわけない、無理矢理突っ込まれてよくなるはずない、そんな都合いい話フィクションの世界だけだ、ならなんで小金井に突っ込まれて感じてしまう、頭が朦朧として激痛が薄れてくに従い違うものがこみ上げてくる?
湯気にあてられ頭がふやけていく、全身の肌が鮮やかに上気していく。
意地悪い声に、手に、唇に、全部に感じてしまう。
「あっ、あ、あああっ、きつっ、いやだ………うち帰して、かあさん、とうさん、にいさん……助けて……」
無意識に今ここにいない家族を呼ぶ、助けを求める。
うちに帰りたい。八年前、学校にいる間中、ずっとずっとそう思っていた。下校のベルが待ち遠しかった。
今は?ぼくが帰る場所なんかどこにもない、このアパートしかない。助けを呼んだってだれもきてくれない。携帯はそこの床に水浸しで転がってる。
「………前勃たせていやがったって喜んでるようにしか見えないよ?」
「!!ふあ、あぅいくッ、い、やめ、手はな」
小金井が前を扱きだす。前と後ろ、同時に激しく動かされて快感が相乗し暴走する。
「東ちゃん、ほんとはいじめられんの好きなんじゃねーの。俺に酷い事されて、言われて、中もすっげ熱くなってきたし。こっちもびんびん」
信じたくない。
この小金井はあの小金井と同一人物かぼくが一ヶ月暮らした小金井と同一人物か、これまでぼくが見てきたものはなんだったんだ、全部嘘だったのか、部屋においてもらうために心にもないでまかせを言ったのか、今の小金井が本当の小金井ならぼくは
ぼくが好きだった小金井は、本当は、どこにもいないのか?
ぼくが頭の中で都合よく捏造したフィクションなのか?
「どうしてこんな……酷いこと……」
信じてたのに。
好きだったのに。
ようやく好きだって自覚したのに。
「東ちゃん、自分じゃ気付いてないけど割にかわいい顔してるよ。いじめたくなるような顔。涙目がすっげえそそる」
「ふあ、ぁうくっ、や、そこ、深……やめて、ください、前……さわんないで、おかしくなる……」
頭がどうかしそうだ。
ぐちゃぐちゃ淫猥な水音、小金井が腰を使って後ろの粘膜をかき混ぜる。前をいじくると同時に後ろの奥深く抜きさし、前後から激しく責め立てられ息が上ずる。小金井に、男に、無理矢理されてるのに、自分が信じられない。信じたくない。心が拒んでるのに、拒絶してるのに、体に注入された快楽は麻薬みたいで、どうしても抗えなくて、シャワーの水と一緒に押し流されて
張り詰めた前の根元を掴み射精をせき止め、小金井が脅す。
「やめていいの?」
「………ッ………」
「イきたくねーの」
助けて。だれか。だれでもいい。かあさん、とうさん、にいさん、気付いて。助けて。恥ずかしい、痛い、熱い、体が変な感じだ。ぞくぞくがとまらない、風邪の引き始めみたいな悪寒、快感。水を吸って縮むシャツに締め付けられ、身動きがとれない。前髪から顎からしずくが滴り、床を叩く。
先走りの汁をすくいとり、糸引くまでこねて尿道口に塗りこめ、小金井が囁く。
「どうしてほしいか自分で言いなよ、東ちゃん」
「死ねよ……」
「酷くするよ」
性感帯を知り尽くした手がぬるつく前をいじくり倒す。
後ろに突っ込まれたものがひと回り大きくなり圧迫感が膨れ上がる。
前立腺をこそぐような律動に腰が砕け、その場にへたりこみそうなのを膝裏の筋肉を突っ張り耐え、残りわずかな気力をかき集め口を開く。
「……ぼくは……あんたの、なんなんですか」
一瞬、虚を衝かれたように動きが止まる。
滲んだ目でタイルと向き合い、快感に乱れまくった息を整えようと努め、続ける。
「一ヶ月ずっと……一緒に暮らして……ッ、ふあ……強引で、うざくって、あんたがそばにいるせいで、落ち着いてゲームもできなくって……エロゲもじっくりできなくて……ふ……チャット仲間ともごぶさたで……だけど、それでも、いいかなって……あんたと一緒だと、楽しくって……普通の人になれた気がして……」
俺は見苦しくあがいてる今の東ちゃんが好きです。
ザクを作らせたら世界一だ。
「……好きとか……一番とか、ずっと、縁のない言葉で……誰かに言ってもらえることなんて、絶対ないって諦めて……」
気持ち悪い。
うざい。
女々しい。
暗い。
ひきこもり。
ニート。
おたく。
人間失格。
「初めて言ってもらえて……す、ごく、嬉しかった………のに。あれもこれも、全部嘘だったんですか」
「嘘だよ。信じたの?」
「ぜんぶ……部屋においてもらうための……」
「いい人演じるの得意なんだ、ずっとそうやって世間渡ってきたからね。東ちゃんのことなんか好きでもなんでもないよ、利用できたから利用した、それだけ。秋葉原で偶然会って……オタク狩りにびびりまくってたあんたなら強引におしかけても断りきれないって踏んだんだ。実際世間ズレしてないからやりやすかったよ、自分色に染めてくのも楽しかったし……ねえ、何回同じ説明させれば気が済むの?いい加減わかりなよ、俺がこういう人間だって。酷いヤツだって。今自分がなにされてるかわかってる、タイルに手え付かされてバックで犯されてるんだよ、犬みたいにさ。ははっ、今の東ちゃんいーかっこ、写真に撮っておにいさんに送ちゃおうか」
心臓が冷える。
「それとも……そうだ、東ちゃんがやってるブログに載せてみる?みんなびっくりするだろうね、アクセスぐんとアップするよ」
「小金井………あんた……」
冷たい憎悪。殺意。
体の内側で膨れ上がったどす黒いどす汚い感情は、何度目かの強引な挿入によって蹴散らされる。
「あっ、あああああっ、ひっ、あう、あああああああっああああああ!!」
体重をかけのしかかる小金井、体の奥深く貫かれ前立腺をピストンされる、タイルに爪が食い込む、前をしごく手に高められ連続で熱を吐き出す、もういやだ、助けて、体が保たない、ばらばらに壊れてしまう、砕け散ってしまう、助けて、ごめんなさい、許してください、もうしません、なんでもする、するから許して、苦しい、息ができない、体の内側に熱いものが広がる、弛緩した穴からとろりと白濁がこぼれ足を伝うー……
カシャンと眼鏡が落ちる。
膝から砕けて座り込んだ頭上にシャワーが降り注ぐ。
鋭利な剃刀で抉られたように肛門のふちがひりひりする。小金井が出した白濁と、ぼくが出した白濁とが、シャワーの水と合流して排水口へ吸い込まれる。
ふらりと前屈みになる。壁に額を付け、虚ろな目で裸の下半身を見下ろす。
「………よかったよ、東ちゃん」
小金井の、声。行為の余韻に陶然とした、満足げな声。
コックを締めてシャワーをとめる。
ぬれそぼった髪をかきあげ首を振ってしずくを散らす。崩れた色気匂い立つけだるげな動作が目を奪う。
いつまでも立ち上がらないぼくに、面倒くさげに手をさしのべる。
「大丈夫?」
『押さえつけとけよ』
小金井の手が、顔が
黒田の手と、顔と、だぶる。
絶叫する。
無我夢中で小金井の手を打ち払う、タイルの水を蹴散らし跳ね散らかし半狂乱であとじさる、背中がドンと壁にあたる、壁に沿って横這いに移動する。
「東ちゃ」
「さわんないで、さわんないでください、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ひっ、うあ、」
『逃げんなよ東ー』
『遊ぼうぜー』
『そんなに暴れたらリップクリームぬれないでしょ、じっとしてよ』
記憶の中で渦巻く嘲笑、哄笑、記憶の中から蠢き這い出る無数の手。
体に絡みつくそれら無数の手からこけつまろびつ逃げる、タイルで足が滑って尻餅をつく、下半身を引き裂く激痛、全身びしょぬれで跳ね起きて浴槽の縁に縋る、衝撃で上にのせた蓋が滑り落ちけたたましい音をたてる。
ズボンと下着をあげるのも忘れたまま、ぬれてへばりつくシャツの前をしどけなく開いて、陵辱の痕跡もあらわな裸身をさらけ出す。
助けて、怖い、だれか助けて、にいさん、とうさん、かあさん、体中痛い、ずきずきする、なんでぼくがこんな目に、何も悪いことしてないのに
「な、なんでぼくがこんな目に、ひ、何にも悪いことしてない、気持ち悪いっていうから、できるだけ人に会わないようにして、八年間部屋から出ないようにして、みっともないって兄さんがいうから、だから」
走る、滑る、けっつまずく、震える手で浴槽にしがみつく。
「東ちゃん」
ぱしゃんと水音。
小金井がこっちにむかって一歩を踏み出すのに、深く頭を抱え込み、金切り声で悲鳴を発する。
「ごめんなさい、もう出ない、一歩も出ない、ドアの鍵閉める、ちゃんと閉める、だから許して、一生ひきこもる、だから許して下さい、い、痛いことしないでください、あ、あんなのやだ、もういやだ、現実なんていらない、二次元だけで十分だ、チャットだけで満足してればよかった、秋葉原なんか行かなきゃよかった、そしたらあんたと会うことなかったのに、こんな痛くて惨めで死ぬほど恥ずかしい目にあわずにすんだ!!」
青ざめた肌が急激に体温を失っていく。
白濁がこびりつく前は萎れ、前が開いたシャツから覗く胸板に散りばめられた鬱血のあとが、いっそう生々しく痛々しく映える。
小金井が怖い、もう恐怖と嫌悪しか感じない。
腰が抜けて立ち上がれない代わりに四つんばいに這って逃げる、水浸しのタイルをぱしゃぱしゃ打って惨めにみっともなく逃げ続ける、這い這いを覚えたばかりの赤ん坊のようにひたすらに
眼鏡をなくしたせいで前がよく見えない、小金井の顔もタイルもぼやけている、それでも構わない、小金井の顔なんて二度と見たくない
怖い、痛い、恥ずかしい、畜生酷くみじめだ、生きていくのが辛い、息を吸って吐くだけで切り刻まされる
『世界中のくだらない百人が否定したって目の前のたった一人が生きろって言ったら生きるっしょ』
『俺、東ちゃんが大好きです』
『友達です』
「出てけ。あんたの顔なんか二度と見たくない。次に現れたら、今度こそ、警察に突き出す」
頼むから、お願いだから、視界から消えてくれ。
アパートから出てってくれ、二度と戻ってこないでくれ、ぼくの知らないところで勝手にやってくれ。
「………わかった。出てく」
小金井の返事は、ひどくあっさりしていた。
遊び飽きたおもちゃにはもう興味がないというふうに、壊れたおもちゃに未練はないとでもいうふうに。
軽く肩をすくめ、下着ごとズボンを引き上げ、後始末をする。その間中、ぼくはずっと浴槽にへばり付き、小金井の一挙手一投足を過剰に警戒していた。
タイルの水をぱしゃぱしゃ蹴散らし戸へ向かいながら、小金井がふと言う。
「………世話んなったね、東ちゃん。漫画ゲームはほどほどに。俺がいなくても、ちゃんと食ってよ」
最後に優しいふりをしたって、むだだ。
ぼくはもう本性を知ってしまった。
擦りガラス入りの戸に手をかけた小金井が、ぼくに背中を向けたままポケットをまさぐり、何かをとりだす。
放物線を描き飛んできたものを取り損ね、床におとす。
水浸しのタイルの上に軽い音たて落ちたのは、合鍵。
背中を向けた小金井が、身も心もぼろぼろのぼくを、安心させるように呟く。
「もうこないから」
甲高い音たて引き戸が締まり、ヒモの背中が完全に視界から消える。
そして小金井はアパートから出て行った。
もう二度と会うことはないだろう。
「いやっ、あ、ひうっ……!!」
生木を裂くように下肢を引き裂く激痛に理性が蒸発、かすれた悲鳴が迸る。
フックに掛けたシャワーが生温かい雨を降らし、うつ伏せの後頭部と剥き出しの背中を叩く。
「痛ッ、ひ、小金井さんやめ、お願いだから……あっ、うあ、や」
「死なないよこれっぽっちで。まだ先っぽしか入れてないじゃん」
耳の裏側に吐息の湿り気を感じ、背筋にそってぞくりと悪寒が這い上がる。
何がどうなってるんだ?
ぼくの位置からは見えない、見えないからおぞましい想像が働く。
目の前には無機質な正方形のタイルを貼った殺風景な壁。
浴室に乳白の湯気がこもる、タイルを叩くシャワーの音が規則的に鼓膜に響く。
排水口に渦巻き飲み込まれていく大量の水が裸の足裏を浸す。
タイルと向き合い肘を付き、尻を突き出す屈辱的な格好で悲鳴を上げる。
何度も何度も行為の中断を訴える、恥も外聞もプライドもかなぐり捨て哀願し謝罪する、お願いだからもうやめてくれと良心に縋る、この一ヶ月ぼくが見てきた小金井の残像に縋り付く。
「嘘だ、こんなの……小金井さ、んが、こんなことするはずない」
激痛と熱で朦朧とする頭で、呂律の回らぬ舌でうわごとを口走る。
小金井がこれまでぼくに見せてきた顔は芝居か、演技か、ぼくを騙し部屋に居座るための仮の姿か、これが小金井の本性?
指三本で慣らしたってまだきつい。
当たり前だ、排泄器官に異物をねじこまれるのは生まれて初めて簡単に慣れるはずない、よくなるはずがない。
挿入は激痛を伴う。
小金井は慣れた動作で律動的に腰を使う。
ぼくの腰を掴み手前に引き、速いペースで容赦なく腰をぶつけてくる。
「痛ぐっ………や、ぁう」
タイルに爪を立てる。
喉の奥で悲鳴が泡立つ。
今自分が強いられている行為を現実と認めたくない、認めたら最後壊れてしまう、心が打ち砕かれてしまう。
「すっげ……絞まる、きっつ」
内腿をなまぬるい水が伝う。
床を叩くシャワーに薄赤いものが一筋混ざる。血。
内臓を抉られる痛みと負荷に背骨が軋み、背中が撓る。
「は……ははっ、男とヤんの初めてだけど……意外とイケるもんだね。女の締め付けと違って新鮮」
タイルにぎりっと爪を立てる、ひっかく、血が滲むほど唇を噛む。
気持ちよくない、全然。
痛いだけだ、すごく痛い、痛くて痛くて気持ち悪い。
セックスなんか妄想の中だけで十分、ぼくには二次元があればそれで十分なのに高望みした罰だ、身の程知らずに恋なんかした罰だ、人を好きになった罰だ『気持ち悪いんだよオタク、死ねよ』『なに勘違いして学校きてんだよ、うじうじしたメガネづら晒して不快にさせんじゃねーよ』『生きてる資格ねえよ』そうだ、ぼくには生きてる資格がない、こんな根暗でうじうじして気持ち悪いヤツはたちすぎてアニメ漫画を卒業できずすぐべそかく女の腐ったようなヤツが人を好きになるなんて身の程知らずもいいところだ。
須藤さんだってぼくを見捨てた、見殺しにした、自分の保身のために切り捨てた。なら出会って一ヶ月の小金井がぼくを利用するのは当たり前で、ぼくは小金井にとって都合のいい道具にすぎなくて、なのにおめでたい頭で勘違いしていい気になって強烈なしっぺがえしをくらった。
自業自得だ
「許してください、ごめ、んなさい、お願いだから抜い、て……」
八王子東は死んだほうがマシな人間だ。
「なんでもする、から、お金払うから、ひっ、ふあ、中入ってるの抜いて、ひあぅ、も、ッ、こんなの死ぬ……」
「お金なんかいらないよ。体で楽しませてよ」
ぼくは被害者で。小金井は加害者で。その加害者に、お金を払うから見逃してくれと涙ながらに頼むぼくは、どこまで卑屈なんだろう。
見下げ果てた人間。
死んだほうがいい人間。
そのお金だってぼくが苦労して稼いだもんじゃない、親から貰ったものだ、あの部屋の中で一体自分が働いて稼いだ金で買ったものがあるか?
ないだろうひとつも。
「……痛ッ、あ、うあ、こがねいさ、おねがいだから、やめて、たすけて、いたい、動かさないで……」
「そそる声で泣いてもだーめ」
小金井が乱暴に突き入れてくる。
熱い塊が中の粘膜をえぐり、穿ち、鋭い激痛が脳天まで貫く。
肉と肉がぶつかりあう音、タイルを浸す水を蹴散らす音、獣じみて荒い劣情の息遣いに性急な衣擦れが混じり合う。
どうすればいい、どうすればやめてくれる、土下座すればいいのか、ぼくが口ですればいいのか、黒田はどうした、八年前を思い出せ。
八年前中学のクラスメイトは何がきっかけでぼくをいじめるのをやめた、きっかけ?そんなものない、始まるのも終わるのも気まぐれで突然だった、飽きるまで延延続いた、じゃあ今も?小金井が遊び飽き嬲り疲れるまで悪趣味な行為に付き合わされるのか、それしかないのか?
固く閉じた瞼の裏にちらつくかつてのクラスメイトの顔、のっぺらぼうの顔下半分に刻まれた嘲笑。
いつしかそののっぺらぼうの目鼻立ちがくっきりとして、小金井の顔に変化していく。
「ぐちゃぐちゃ音鳴ってるの聞こえる?東ちゃんの中から」
「………は………」
「やらしい音。粘膜の音。男って勝手にぬれないから不便だよね。東ちゃんが俺の手にたくさん出してくれたからちょっとはマシだけど……ローション代わりになって」
耳朶を唇が這う。
一筋、髪を咥える。
「言うな……」
荒い息のはざまから小さく言う。喘鳴にかき消されそうな、本当にかすかな声。
ますます抽送を加速させながら一方の手でぼくの腰を掴み、もう一方の手を前に回して戯れにいじくりこねまわし、嗜虐の愉悦に酔いしれ小金井が囁く。
「東ちゃんわかる?……見えないか、そこからじゃ。下半身、ピンク色に染まってる。恥ずかしいの?俺の言葉に興奮して?」
「強姦まがい……犯罪……」
「東ちゃんは誰にも言わないし言えない。そうでしょ?誰にも頼れないもんね、そういうふうに生きてきたんだ」
人と関係を結ばず。
その努力を放棄し。
八年間、暗い部屋に閉じこもって。
「警察に………いあっ、ああああああぁあああああああっ!?」
「それで脅してるつもり?できもしないこと言うのやめなって、かっこ悪い」
いやだ、立ってられない、立つのが辛い。
挿入の角度が変わる。
熱く潤んだ粘膜の一番感じる箇所に小金井が当たる。
小金井が反応に味をしめそこを激しく突けば、快感に比例して腰が跳ね上がる。
ちがう、嘘だ、男に強姦されて感じるわけない、無理矢理突っ込まれてよくなるはずない、そんな都合いい話フィクションの世界だけだ、ならなんで小金井に突っ込まれて感じてしまう、頭が朦朧として激痛が薄れてくに従い違うものがこみ上げてくる?
湯気にあてられ頭がふやけていく、全身の肌が鮮やかに上気していく。
意地悪い声に、手に、唇に、全部に感じてしまう。
「あっ、あ、あああっ、きつっ、いやだ………うち帰して、かあさん、とうさん、にいさん……助けて……」
無意識に今ここにいない家族を呼ぶ、助けを求める。
うちに帰りたい。八年前、学校にいる間中、ずっとずっとそう思っていた。下校のベルが待ち遠しかった。
今は?ぼくが帰る場所なんかどこにもない、このアパートしかない。助けを呼んだってだれもきてくれない。携帯はそこの床に水浸しで転がってる。
「………前勃たせていやがったって喜んでるようにしか見えないよ?」
「!!ふあ、あぅいくッ、い、やめ、手はな」
小金井が前を扱きだす。前と後ろ、同時に激しく動かされて快感が相乗し暴走する。
「東ちゃん、ほんとはいじめられんの好きなんじゃねーの。俺に酷い事されて、言われて、中もすっげ熱くなってきたし。こっちもびんびん」
信じたくない。
この小金井はあの小金井と同一人物かぼくが一ヶ月暮らした小金井と同一人物か、これまでぼくが見てきたものはなんだったんだ、全部嘘だったのか、部屋においてもらうために心にもないでまかせを言ったのか、今の小金井が本当の小金井ならぼくは
ぼくが好きだった小金井は、本当は、どこにもいないのか?
ぼくが頭の中で都合よく捏造したフィクションなのか?
「どうしてこんな……酷いこと……」
信じてたのに。
好きだったのに。
ようやく好きだって自覚したのに。
「東ちゃん、自分じゃ気付いてないけど割にかわいい顔してるよ。いじめたくなるような顔。涙目がすっげえそそる」
「ふあ、ぁうくっ、や、そこ、深……やめて、ください、前……さわんないで、おかしくなる……」
頭がどうかしそうだ。
ぐちゃぐちゃ淫猥な水音、小金井が腰を使って後ろの粘膜をかき混ぜる。前をいじくると同時に後ろの奥深く抜きさし、前後から激しく責め立てられ息が上ずる。小金井に、男に、無理矢理されてるのに、自分が信じられない。信じたくない。心が拒んでるのに、拒絶してるのに、体に注入された快楽は麻薬みたいで、どうしても抗えなくて、シャワーの水と一緒に押し流されて
張り詰めた前の根元を掴み射精をせき止め、小金井が脅す。
「やめていいの?」
「………ッ………」
「イきたくねーの」
助けて。だれか。だれでもいい。かあさん、とうさん、にいさん、気付いて。助けて。恥ずかしい、痛い、熱い、体が変な感じだ。ぞくぞくがとまらない、風邪の引き始めみたいな悪寒、快感。水を吸って縮むシャツに締め付けられ、身動きがとれない。前髪から顎からしずくが滴り、床を叩く。
先走りの汁をすくいとり、糸引くまでこねて尿道口に塗りこめ、小金井が囁く。
「どうしてほしいか自分で言いなよ、東ちゃん」
「死ねよ……」
「酷くするよ」
性感帯を知り尽くした手がぬるつく前をいじくり倒す。
後ろに突っ込まれたものがひと回り大きくなり圧迫感が膨れ上がる。
前立腺をこそぐような律動に腰が砕け、その場にへたりこみそうなのを膝裏の筋肉を突っ張り耐え、残りわずかな気力をかき集め口を開く。
「……ぼくは……あんたの、なんなんですか」
一瞬、虚を衝かれたように動きが止まる。
滲んだ目でタイルと向き合い、快感に乱れまくった息を整えようと努め、続ける。
「一ヶ月ずっと……一緒に暮らして……ッ、ふあ……強引で、うざくって、あんたがそばにいるせいで、落ち着いてゲームもできなくって……エロゲもじっくりできなくて……ふ……チャット仲間ともごぶさたで……だけど、それでも、いいかなって……あんたと一緒だと、楽しくって……普通の人になれた気がして……」
俺は見苦しくあがいてる今の東ちゃんが好きです。
ザクを作らせたら世界一だ。
「……好きとか……一番とか、ずっと、縁のない言葉で……誰かに言ってもらえることなんて、絶対ないって諦めて……」
気持ち悪い。
うざい。
女々しい。
暗い。
ひきこもり。
ニート。
おたく。
人間失格。
「初めて言ってもらえて……す、ごく、嬉しかった………のに。あれもこれも、全部嘘だったんですか」
「嘘だよ。信じたの?」
「ぜんぶ……部屋においてもらうための……」
「いい人演じるの得意なんだ、ずっとそうやって世間渡ってきたからね。東ちゃんのことなんか好きでもなんでもないよ、利用できたから利用した、それだけ。秋葉原で偶然会って……オタク狩りにびびりまくってたあんたなら強引におしかけても断りきれないって踏んだんだ。実際世間ズレしてないからやりやすかったよ、自分色に染めてくのも楽しかったし……ねえ、何回同じ説明させれば気が済むの?いい加減わかりなよ、俺がこういう人間だって。酷いヤツだって。今自分がなにされてるかわかってる、タイルに手え付かされてバックで犯されてるんだよ、犬みたいにさ。ははっ、今の東ちゃんいーかっこ、写真に撮っておにいさんに送ちゃおうか」
心臓が冷える。
「それとも……そうだ、東ちゃんがやってるブログに載せてみる?みんなびっくりするだろうね、アクセスぐんとアップするよ」
「小金井………あんた……」
冷たい憎悪。殺意。
体の内側で膨れ上がったどす黒いどす汚い感情は、何度目かの強引な挿入によって蹴散らされる。
「あっ、あああああっ、ひっ、あう、あああああああっああああああ!!」
体重をかけのしかかる小金井、体の奥深く貫かれ前立腺をピストンされる、タイルに爪が食い込む、前をしごく手に高められ連続で熱を吐き出す、もういやだ、助けて、体が保たない、ばらばらに壊れてしまう、砕け散ってしまう、助けて、ごめんなさい、許してください、もうしません、なんでもする、するから許して、苦しい、息ができない、体の内側に熱いものが広がる、弛緩した穴からとろりと白濁がこぼれ足を伝うー……
カシャンと眼鏡が落ちる。
膝から砕けて座り込んだ頭上にシャワーが降り注ぐ。
鋭利な剃刀で抉られたように肛門のふちがひりひりする。小金井が出した白濁と、ぼくが出した白濁とが、シャワーの水と合流して排水口へ吸い込まれる。
ふらりと前屈みになる。壁に額を付け、虚ろな目で裸の下半身を見下ろす。
「………よかったよ、東ちゃん」
小金井の、声。行為の余韻に陶然とした、満足げな声。
コックを締めてシャワーをとめる。
ぬれそぼった髪をかきあげ首を振ってしずくを散らす。崩れた色気匂い立つけだるげな動作が目を奪う。
いつまでも立ち上がらないぼくに、面倒くさげに手をさしのべる。
「大丈夫?」
『押さえつけとけよ』
小金井の手が、顔が
黒田の手と、顔と、だぶる。
絶叫する。
無我夢中で小金井の手を打ち払う、タイルの水を蹴散らし跳ね散らかし半狂乱であとじさる、背中がドンと壁にあたる、壁に沿って横這いに移動する。
「東ちゃ」
「さわんないで、さわんないでください、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ひっ、うあ、」
『逃げんなよ東ー』
『遊ぼうぜー』
『そんなに暴れたらリップクリームぬれないでしょ、じっとしてよ』
記憶の中で渦巻く嘲笑、哄笑、記憶の中から蠢き這い出る無数の手。
体に絡みつくそれら無数の手からこけつまろびつ逃げる、タイルで足が滑って尻餅をつく、下半身を引き裂く激痛、全身びしょぬれで跳ね起きて浴槽の縁に縋る、衝撃で上にのせた蓋が滑り落ちけたたましい音をたてる。
ズボンと下着をあげるのも忘れたまま、ぬれてへばりつくシャツの前をしどけなく開いて、陵辱の痕跡もあらわな裸身をさらけ出す。
助けて、怖い、だれか助けて、にいさん、とうさん、かあさん、体中痛い、ずきずきする、なんでぼくがこんな目に、何も悪いことしてないのに
「な、なんでぼくがこんな目に、ひ、何にも悪いことしてない、気持ち悪いっていうから、できるだけ人に会わないようにして、八年間部屋から出ないようにして、みっともないって兄さんがいうから、だから」
走る、滑る、けっつまずく、震える手で浴槽にしがみつく。
「東ちゃん」
ぱしゃんと水音。
小金井がこっちにむかって一歩を踏み出すのに、深く頭を抱え込み、金切り声で悲鳴を発する。
「ごめんなさい、もう出ない、一歩も出ない、ドアの鍵閉める、ちゃんと閉める、だから許して、一生ひきこもる、だから許して下さい、い、痛いことしないでください、あ、あんなのやだ、もういやだ、現実なんていらない、二次元だけで十分だ、チャットだけで満足してればよかった、秋葉原なんか行かなきゃよかった、そしたらあんたと会うことなかったのに、こんな痛くて惨めで死ぬほど恥ずかしい目にあわずにすんだ!!」
青ざめた肌が急激に体温を失っていく。
白濁がこびりつく前は萎れ、前が開いたシャツから覗く胸板に散りばめられた鬱血のあとが、いっそう生々しく痛々しく映える。
小金井が怖い、もう恐怖と嫌悪しか感じない。
腰が抜けて立ち上がれない代わりに四つんばいに這って逃げる、水浸しのタイルをぱしゃぱしゃ打って惨めにみっともなく逃げ続ける、這い這いを覚えたばかりの赤ん坊のようにひたすらに
眼鏡をなくしたせいで前がよく見えない、小金井の顔もタイルもぼやけている、それでも構わない、小金井の顔なんて二度と見たくない
怖い、痛い、恥ずかしい、畜生酷くみじめだ、生きていくのが辛い、息を吸って吐くだけで切り刻まされる
『世界中のくだらない百人が否定したって目の前のたった一人が生きろって言ったら生きるっしょ』
『俺、東ちゃんが大好きです』
『友達です』
「出てけ。あんたの顔なんか二度と見たくない。次に現れたら、今度こそ、警察に突き出す」
頼むから、お願いだから、視界から消えてくれ。
アパートから出てってくれ、二度と戻ってこないでくれ、ぼくの知らないところで勝手にやってくれ。
「………わかった。出てく」
小金井の返事は、ひどくあっさりしていた。
遊び飽きたおもちゃにはもう興味がないというふうに、壊れたおもちゃに未練はないとでもいうふうに。
軽く肩をすくめ、下着ごとズボンを引き上げ、後始末をする。その間中、ぼくはずっと浴槽にへばり付き、小金井の一挙手一投足を過剰に警戒していた。
タイルの水をぱしゃぱしゃ蹴散らし戸へ向かいながら、小金井がふと言う。
「………世話んなったね、東ちゃん。漫画ゲームはほどほどに。俺がいなくても、ちゃんと食ってよ」
最後に優しいふりをしたって、むだだ。
ぼくはもう本性を知ってしまった。
擦りガラス入りの戸に手をかけた小金井が、ぼくに背中を向けたままポケットをまさぐり、何かをとりだす。
放物線を描き飛んできたものを取り損ね、床におとす。
水浸しのタイルの上に軽い音たて落ちたのは、合鍵。
背中を向けた小金井が、身も心もぼろぼろのぼくを、安心させるように呟く。
「もうこないから」
甲高い音たて引き戸が締まり、ヒモの背中が完全に視界から消える。
そして小金井はアパートから出て行った。
もう二度と会うことはないだろう。
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