小金井は八王子に恋してる

まさみ

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二十三話

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 「ねえいるの八王子くん、三日間顔見ないけど」
 ドンドンドンドン。
 頭から毛布を被って伏せる、ドア越しに響く煩わしい他人の声に無視を貫く。
 「まさか風邪なんかひいてるんじゃないでしょうね、ちゃんと生きてるの。隣の奥さんも最近物音しないから心配してるわよ、生きてる気配がしなくって」
 うるさい、ぼくのことなんかどうでもいいだろう、ほうっといてくれ。
 両手で耳を塞ぐ。
 きつく目を瞑る。
 さっきからずっとこれだ、延延続くお説教とノック音。
 部屋の前に突っ立ちドアを叩き続ける大家の心配げな声。だまされるもんか。
 布団から這い出す気がしない。喉がひどくいがらっぽい。
 もう何日換気と掃除をしてないんだろう、狭い部屋の底にざらつく埃が沈殿する。
 体がだるく熱っぽい。本格的に風邪ひいたかも……わからない、体温計がないから確認できない。昔から腺病質な虚弱体質で、ちょっと運動しただけですぐ息が切れたし、寒い中で薄着してると熱を出した。八年前ひきこもりになってからは昼夜逆転の不規則な生活習慣と裏腹に小康を保ってきて、幸いなるかな体温計や医者のお世話になったことはない。
 笑ってしまうが、ぼくは自分の保険証の場所も知らないのだ。
 多分部屋のどこかにあると思うが、散らかりすぎててわからない。発掘は半日がかりの大事業になりそうで、そもそも病人が働くのは本末転倒だ。
 医者の息子が不養生で風邪をひいたなんて父さんにばれたらまた携帯でどやされる。
 再び布団にもぐりこむ。
 保険証がない、だから医者に行かない。外出を嫌う対人恐怖症の言い訳。
 自分に対しても本音と建前を使い分ける八王子東は卑怯者だ。
 「ねえ、ほんとに大丈夫?部屋にいるんでしょ?リュウくんはどうしたの、最近姿見かけないけど……」
 リュウ。
 大家が発した名前を聞き、心臓がすっと冷える。
 突然息が苦しくなる。
 「ひょっとして、喧嘩?喧嘩して出てっちゃったの?挨拶もなしなんて水臭い……聞いてるの、八王子くん。うんとかすんとか言いなさいよ」
 ノックの調子を速め、ヒステリックにがなりたてる大家に神経が苛立つ。
 うるさい、うるさいうるさい。放っといてくれ。
 耳を塞ぐ、毛布を羽織って丸まる。
 お節介は消えろ。
 どんだけ心配してもらっても行動で報えないぼくなんか放っといてくれ。
 心配してもらったって感謝の気持ちなんかこれっぽっちも生まれない。
 うるさい、ババア、あっちへいけ、消えろ、ぼくにかまうな。
 脳裏に無限に繁殖する呪詛、捌け口をなくしストレスの内圧が高まる。
 やつあたりだとわかってる、子供っぽい自分が嫌になる。
 損得抜きの親切なんて存在しない、下心ぬきの優しさも思いやりも信じない、信じられるもんか。
 現実のノックが過去のノックと被さる。
 八年前、手が痛くなるまでぼくの部屋のドアをノックし続けた兄さんの必死な声音を思い出す。
 「ここ開けるわよ。家賃まだもらってないし……」
 家賃の催促、衣擦れの音、合鍵を探る気配。
 「開けないでください」
 動きが止まる。ドアの外から困惑の気配が濃厚に伝わる。ちゃんと声が出たことにひとまず安堵……ちゃんととは言えないか、実際かすれて酷い状態だ。
 声を出すのは三日ぶりだ。小金井が出ていってから一言もしゃべらなかった。
 「いるんなら返事しなさいよ、びっくりするじゃないの。最近出てこないけど大丈夫?食事はどうしてるの、ちゃんと食べてるの。店屋物とってる痕跡もないけど……」
 「ちゃんと食べてます。……ちょっと具合が悪くて。風邪ひいちゃったみたいで、食欲なくて」
 「大丈夫なの?声変よ。とりあえずここ開けて、少しでもなんか食べたほうがいいわ。おかゆ作ったげるから」
 「いいです……寝てれば治りますから」
 だれとも会いたくない。
 「今月分の家賃はポストに入れてありますんで」
 引き取る口実を与えれば、大家が諦めたように息を吐く。
 カチャン、軽い金属音。
 郵便ポストの中をさぐる音。
 封筒を覗き、今月分の家賃が入ってるのを確認し引き返していく。
 「………辛くなったらちゃんと言うのよ。餓死した店子の地縛霊がでるって風評立ったらまた家賃下げなきゃいけなくなるし、こっちも食べてけないわ」
 やっと諦めてくれた。
 がなり声が途絶え、心底ほっとする。
 再び静寂が舞い戻る。
 耳に痛いほどの静寂……こんなに静かなのは一ヶ月とちょっとぶりだ。

 『東ちゃん、ここどうすんの?教えて』 
 『あ、そっか、そうやればいいのか!アイテムはっと……うわっ、こんな隅っこに隠れてた!さすが東ちゃん目のつけどころちがう!』

 小金井がいた頃は、毎日が騒々しかった。
 小金井は一人で二人分うるさかった。うざさも二乗だ。
 小金井がいない部屋。妙にがらんとしている。
 物理的な面積は広くなって……ちがう、広くなったんじゃない、前の状態に戻ったんだ。
 それだけ。
 ただ、それだけ。
 相変わらず漫画アニメゲームソフトフィギュアガンプラが散らかり放題、カーテン閉めきってるせいで昼間だというのに明かりが射さない薄暗い部屋。
 敷きっぱなしの布団はしけって、少し黴臭い。
 机の上に乱雑に放置された工具、缶スプレー、あちこちに付着して斑模様を作る色とりどりの塗料、なだれをおこした漫画の山。見慣れた、見飽きた、ぼくの部屋。住み慣れた部屋。二年前、実家を追い出されてから暮らした部屋が、何故だろうひどくよそよそしく見える。
 寒々しい広さをもてあまし、靴にもぐりこんだハムスターさながら隅で身を丸める。

 『リュウくんと喧嘩でもしたの?』
 「うるさい」
 『出てっちゃったの?』
 「……うるさいんだよ」

 ぞくりぞくりと悪寒が走る。
 体の表面は熱っぽいのに、芯は凍えて震えを発する。三日前、びしょぬれになったせいだろうか。 
 食事が喉を通らない。食欲がない。何も食べてないせいで、だるい。
 どうでもいい。
 どうせ冷蔵庫をあさったところで何もない、からっぽだ。
 喉が渇いたら足を引きずるようにして流しまで行き蛇口から直接水を飲んだ。
 下半身が痛い。
 ちょっと姿勢を変えるだけで鈍く疼き、寝返りを打てない。
 「………………」
 『俺に酷いこと言われてされて、ほんとは感じてるんじゃないの』
 小金井の、声。笑い顔。
 思い出したくないのに思い出してしまう。
 背中を押さえる手を、内腿を這う手を、腰を掴む手を、髪を梳く手を。
 耳の裏側を辿る唇を、首筋をつつく唇を、肩甲骨の形を浮き立たせる唇を。嗜虐の愉悦に酔った意地悪い笑い声も、残忍な光を溜めた双眸も、口元の酷薄な笑みも……忘れられない。多分、一生忘れられない。これから何十回何百回と夢に見るだろうきわめつけの悪夢。

 怖かった。
 羞恥心と恐怖心と苦痛がせめぎあって、悲鳴も上げられなかった。

 『あんなの全部嘘だよ、部屋においてもらうための』
 『あんたのことなんてなんとも思ってないよ』
 『一回男で試してみたかったんだよね』
 思い出す、乱暴に腰を掴まれ抜き差しされた。下肢を引き裂く痛み、脊髄から脳天まで貫く激痛、喉から迸る声、次第に頭が朦朧として粘膜をかきまぜ前立腺を叩く津波のような快感に飲み込まれていく。

 ぱしゃんと水音
 うつ伏せの後頭部と背中を叩くシャワーの音
 縋り付いた壁の無機質な冷たさ

 「…………かほっ、こほっ」
 なんであんな酷いことができたんだ。
 震える手で毛布の端を握り締める。
 強烈なフラッシュバックに吐き気がぶりかえす。
 体はまだだるい、あれからずっと熱がさがらない、だるさが抜けない。
 小金井がぼくの中に吐き出したもの全部、シャワーを使って一滴残らず掻きだしたはずなのに……
 体内に吐き出された精液のぬるさ、それが溢れて内腿を伝う感触を思い出し、ぐっと喉が詰まる。
 怖い、いやだ、思い出したくない、忘れたい。
 いっそなにもかも忘れてしまいたい、あんな事なかったんだ、夢だ、嘘だ。
 小金井に犯されたなんて嘘だ、ぼくが感じたなんて嘘だ、全部嘘に決まってる。
 小金井はあれきり姿を現さない。もう会うこともないだろう。
 それで、いい。
 それが一番いい。
 信じてたのに、好きだったのに、最低なまねをした。
 「……なんでこんな目に……」
 もう何度目かわからない疑問を呟く。
 身の程知らずにもひとを好きになったから、ダメなヤツのくせに普通の人間になろうとしたから、しっぺがえしをくらったんだろうか。
 苦しい。だるい。みじめで最低な気分。
 熱っぽく目が潤む。洟を啜る。
 小金井はもういない、ぼくが追い出した。もう二度と目の前に現れるなと、そう言った。
 後悔なんか、するはずない。

 『うぜえんだよオタク、二次元でマスかいてろよ』
 ぼくには二次元がある。
 小金井なんかいなくても、二次元さえあればそれでいい。

 枕元に転がったザクを抱き寄せ、キュアレモネードと添い寝する。
 ガンプラに囲まれてると心が安らぐ。

 『利用できたから利用した、それだけ』

 世界中どこをさがしたって、八王子東を好きになってくれる人間なんかいるはずない。
 おたく。ひきこもり。ニート。女々しい。うじうじしてる。すぐ泣く。はたち過ぎて救われない。家族に迷惑かけっぱなし、家賃まで払わせてる。
 両親の負担、兄さんの重荷、家族の恥、社会のゴミ。
 生きてる価値がない、生きてく資格がない。 
 たった一人、生きてていいよと言ってくれたひとは、もういない。

 『世界中のくだらない百人が否定したって、目の前のたった一人が生きてていいよと言ったら生きるっしょ』

 屈託ない笑顔とともにさしのべられた手。
 襖の隙間のむこうから射した光は、とてもまぶしくて。
 瞬間、とんでもない勘違いをしてしまった。

 「……やり直せるなんて……」

 ありえないのに。

 「何が、たった一人だよ……あんただって、くだらない百人のうちの一人じゃないか」

 一番くだらないのはぼくだ。八王子東だ。
 今すぐ呼吸をやめたほうがいい、死んだほうがいい。
 大家さんには後始末で迷惑をかけるけど、その方がいい。
 小金井は戻ってこない。
 ぼくはひとりぼっち、暗く冷たいアパートの部屋でひからびて死んでいく。
 ザクを抱いて、フィギュアに挟まれて。
 好きなものに看取られて逝けるなら悪くない死に方だ。
 お父さんお母さん、ついでに兄さん、先立つ不幸をお許しください。
 そこまで考え、はたと思いつく。

 「………エロゲ消さなきゃ」
 億劫げに毛布をはだける。
 右腕にザクを、左腕にキュアレモネードを抱いて半死半生机に這いずっていく。
 のろのろ電源を入れ初期画面を立ち上げマウスをクリック、もたもたカーソル移動して入れたエロゲやら落とした動画を削除。
 死ぬのは構わないが、死に恥をさらすのはごめんだ。
 遺品を引き取りにきた親にパソコンの中身を見られたら恥ずかしさで二度死ねる。
 出来の悪い息子を持った親に、死後も迷惑をかけたくない。
 ぼくのパソコンの中身を見たら母さんはショックで卒倒、父さんは憤死するだろうきっと。
 「……完璧性犯罪者予備軍の部屋だもんな、これじゃ」
 周囲に散らばるエロゲソフトのパッケージでは、どう見ても小学校低学年にしか見えない女の子がパンツ丸出しのあざとい座り方で媚を売る。
 一般人には刺激の強すぎるパッケージのエロゲを箱ごとかき集め机の下に放りこみ惰性的マウスクリックで証拠隠滅、アンインストール完了を待つあいだ青白い光を放つ画面を虚ろに眺める。
 
 『東ちゃんこんなのやってんだ。ロリコン?』
 『二次元限定です、リアルには興味ありませんから』
 『だってこの子小学生っしょ、まずくない?』
 『建前上は十八歳以上ってことになってるから問題なしです』
 『なんで金髪なの?目え青いし』
 『如月サミイは日仏ハーフで帰国子女って設定なんです。このゲーム「魔法少女フランボワーズ」はマニアのみぞ知る伝説ゲームで主人公アルカ役の声優は今や超有名となった藤井リリ子、語尾を甘ったるくのばす独特のしゃべり方と「トリックオアトリート、ブルマがなければ黒ストはけばいいじゃ~ん」の決め台詞が最高で、ってあ、やめっ、イヤホン抜かないでくださいよご近所に声が漏れる!?』
 『いいじゃん、聞かせてやろうよ。お隣新婚さんだしお互い様だって』
 『全然お互い様じゃないしエロゲプレイ中にイヤホン抜くとか素で羞恥プレイだし鬼畜すぎます小金井さんは!!』
 『……それでもプレイする東ちゃんて意外と神経図太いよね』

 「…………っ………」
 
 三日前。
 浴室を出て部屋に戻ると、机の上に免許証が置かれていた。
 水浸しの風呂場に投げ出さなかったのは最低限の気遣いか。

 パソコンの横、置きっぱなしの免許証に目を移す。
 証明写真の写りの悪さが笑いを誘う。
 「………変な顔……」
 虚勢で自嘲の笑みを刻もうとして失敗、泣き崩れるように顔が歪む。
 二年前、父親に言われてしぶしぶ免許をとった。高校もまともに出てないんだから免許くらいとっておけ、言うことを聞かなければ漫画を全部捨てると脅され、いやいや教習所に通った。訓練期間は苦痛でしかなかった。あれでまた対人恐怖症がエスカレートしたと思う。
 「免許とったって、運転しなきゃ意味ないのに……」
 持ち逃げしなかったのは最後の良心だろうか。
 小金井は、アパートを出て行った。
 がらんとした部屋にうずくまり孤独を痛感、ようやくその現実を認識する。
 ゲームをやりながらふざけてじゃれあった、構って構ってとうるさく手出し口出しする小金井を振り払うのに苦労した、毎日毎日
 「あんなヤツ、知るか」
 どこへなりとも行っちまえ。顔も見たくない。
 ザクを抱く腕に力がこもる。
 熱いものが喉にこみあげてくる。
 ずずっと塩辛い洟を啜る、俯く、まとわりつく残滓を懸命に振り払う。
 
 『世話んなったね、東ちゃん』
 うるさい
 『俺がいなくなってもちゃんと食ってよ』
 余計なお世話だ 
 最後にいいヤツのふりしたってむだだ、手遅れだ、ぼくはもう本性を知ってしまった、だまされるもんか。
 
 「詐欺師め」
 消えてなくなれ
 「いなくなってせいせいする」
 居場所なんかない
 「部屋が広くなって快適だ。汚い手でべたべたガンプラにさらわれなくてほっとする、あんたときたら乱暴に扱うもんだからおちおちよそ見してられない、ひとがゲームやってる時にうるさく口出してホントうざい、エロゲ中は空気読んでトイレにこもるか外出てください、買い物先でなんでもぽいぽい目についたもの放り込む癖なおしてください、トイレットペーパーとか……サランラップとか、所帯じみたものばっか、恥ずかしい……新婚さんじゃあるまいし……男二人で、しょっぱい……」
 本人に面と向かって言えなかった愚痴、不満。
 「ポテトチップとか、お菓子つまみながら漫画読むの、言語道断です」
 いくら注意しても直らなかった
 反省の色のない、あっけらかんとした笑顔を思い出す。

 ザクを抱きしめる。
 キュアレモネードを抱きしめる。
 壊れそうなほど強く、強く。 
 
 畳の目にこびりつく菓子くず
 未完成のガンプラ
 乱雑に放置された工具
 脱ぎ散らかした衣類に埋もれたフロムAの三角に折れたページ端
 二人分接続したコントローラー

 部屋の至る所に他人の痕跡が残ってる。

 居候がいなくなった。
 部屋は広くなった、快適だ。
 もうゲームや漫画の楽しみを他人に邪魔される心配ない、時間を忘れ趣味に没頭できる、食事の時間になったからってフライパンとお玉の定番スタイルのヒモにうるさくせっつかれずにすむ 
 せいせいする、本当に

 これで全部元どおり

 「…………どうして」
 
 なのに

 「なんでだよ?」

 ひとりで漫画を読んでもつまらない
 ひとりでゲームしてもつまらない
 ひとりでガンプラ作ってもつまらない

 全部小金井のせいだ
 小金井がいないからだ

 「一ヶ月前に、八年間ずっとそうだった状態に、戻っただけじゃないか」
  
 一ヶ月前は、一日も早く出ていってほしかった
 一週間前は、一日も長く一緒にいたかった
   
 今は?

 小金井。
 ぼくが自分で追い出した、怒り狂って拒絶した、怯えて青ざめて振り払った、お願い頼む出てってくれ二度と現れないでくれ次顔見せたら警察呼ぶ絶対だ、もう構わないでくれと頭を抱え悲痛な嗚咽を上げ懇願した。
 小金井はなにひとつ言い訳せず部屋を出て行った、行為を終えたら指一本触れなかった。
 孤独な背中を思い出す。
 拒絶され、絶望した、あの背中を夢に見る。
 「悪いのはあんたじゃないか、あんたが無理矢理……っ、信じてたのに」
 被害者が罪の意識に苦しむなんておかしい、間違ってる。
 今だってそうだ、裏切られた悲哀に溺れ憎悪に窒息しそうな今でさえ心の底では小金井を憎みきれずにいる。
 自分を強姦した男を、憎んでも憎み足りない相手を追い求めている。
 最初の日は下半身がずきずきしてろくに眠れなかった。
 今も微熱は続いてる、行為の余熱がけだるい残滓となって腰にまとわりつく。
 体がひどく敏感になってしまった。
 服と肌が擦れあう感触さえもどかしい。

 誰か、助けてくれ。
 体を苛む熱をなんとかしてくれ。
 不在の喪失感を埋めたい一心でマウスをクリック、チャットの入室画面を表示する。
 結局、ぼくが縋る場所はここしかないのか。
 人生経験豊富なタートル仙人さんやハルイチさんならきっとアドバイスをくれる、親身に相談にのってくる。
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 入室ボタンを押そうとしてためらう。
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 原因はわからない。わからないけど、きっと、ぼくのせいだ。ぼくが悪い。ぼくの鈍感で無神経な言動が癇に障ったんだ。まりろんちゃんは空気の読めないぼくにうんざりした、嫌気がさした、ぼくと会いたくないからチャットに来ない。
 
 逃避先を失った。
 今度こそ本当に、ひとりぼっちだ。

 マウスから力なく人さし指が滑り落ちる。
 「…………」
 まりろんちゃんに、みんなにあわす顔がない。今さら行っても空気を悪くするだけだ。
 「………同じじゃないか、ぼくも」
 小金井と同じだ。
 都合のいい時だけ他人を利用して、泣いて縋って。アドバイスをほしがって。
 リアルの友達は一人もいない。携帯の登録画面は家族以外まっさら……そういえば、小金井の番号を入れたままだ。
 もう必要ない。
 繋がるかどうか試す気力もないし、意味もない。
 小金井は今どうしてるんだろう。気にならないといえば嘘になる。
 地元に帰っておなかの子供ごと彼女を抱きしめてるんだろうか、水入らずで団欒してるんだろうか。

 関係ない。
 したいようにすればいい。
 横取りされたと恨むのは筋違いだ。
 邪魔者は、ぼくの方で。

 「……………」
 繋がりを、未練を絶とう。
 携帯のボタンに指を這わせ、深呼吸し、液晶に登録番号の一覧を表示する。
 指先に少し力をこめるだけでいい、そうすれば完全に繋がりを絶てる。わかってる、そうしなきゃいけない。一日も早く忘れよう忘れたい、小金井の存在はぼくにとって重荷でしかない、自分を強姦した男の事を覚えていたい男がどこにいる、忘れたい記憶、洗い流したい痛み、排水口に渦巻き吸い込まれていく水と一緒に-……

 『東ちゃん』
 もう会えない、
 『俺の友達です』

 会いたい会いたくない矛盾した葛藤に引き裂かれる憎い憎みたい憎めるなららくなのに憎ませてくれない、飄々とした笑顔があっけらかんとした口ぶりが一緒に過ごした一ヶ月の思い出が机上に残された未完成のザクが免許証が合鍵が
 感情の堰が決壊しあふれ押し流される
 「―ひぐっ、」
 堪えようにも堪えきれず潰れた嗚咽をもらす、洟を啜る、ザクとキュアレモネーを抱きしめ鼻水と涙で汚れきった顔を埋める、強く強く抱きしめる、拠り所がほしい。
 どうしてこの部屋こんなに寒いんだ、暗いんだ、あいつが
 『そこでメラゾーマ使うとはテクニシャンな!?』
 いないから
 八年間平気だった、耐えられた、ひとりだった、今はひとりぼっちだ
 会いたい。
 会ってぶん殴りたい、責任をとらせたい。
 消す決心もかける決心もつかず液晶を凝視する。かけても繋がるかわからない、着信拒否されたらどうしよう、もうぼくのことなんて忘れて……

 突然、携帯が鳴りだす。
 
 「!!」
 心臓が飛び跳ね、反射的に通話ボタンを押してしまう。
 小金井か?
 『東、いるか』
 ……違った。
 「………兄さん」
 『どうしてるかと思ってるな……声の調子が変だが、具合悪いのか』
 不器用な気遣いを滲ませた声に、安堵のあまり涙腺が緩み、泣きたくなる。
 息を吸い、吐く。ひたすらそれを繰り返す。ペースがどんどん速くなる。
 『……東?』
 上擦る息。詰まる嗚咽。手の中の携帯を見下ろし、情けなく震える声を吐く。
 「……ぼくなんか……死んだほうがいいんだ……」
 『は?いきなり何、』 
 
 兄さんの愕然とした声に被さり、複数の靴音が殺到する。
 「!?」
 驚き、携帯を取り落とす。
 アパートの階段を慌ただしく駆け上がる複数の靴音、殺気立つ気配がドアを包囲。
 突然の事態に狼狽し、浅く腰を浮かせ、ドアに注視を注ぐ。
 「ちょっといきなり何なんですかあんたたち、警察呼びますよ!?」
 「うるせえババア、いいから鍵出せ鍵!」
 「いるってわかってんだぞ、おとなしくここ開けろや!!」
 ドアのむこうで激しく揉みあう気配、物音、ヒステリックな金切り声。
 だれかがぶち壊さんばかりの勢いで乱暴にドアを叩く、蹴りつける。一人じゃない、何人もいる。ドアむこうの喧騒はささくれた殺気を孕み、怒鳴り声が飛び交う。
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 次の瞬間蝶番が馬鹿になる勢いでドアが蹴り開けられ、外の空気と一緒に物騒な集団が殴りこんでくる。
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 「なっ、なんなんですかあんたたち、ひとの部屋に勝手に……」
 「黙ってろ!」
 動転し舌が縺れる。最前までの感傷も吹っ飛ぶ。  
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 一体なにが起こってるんだ?
 「いい加減にしてください、警察呼びますよ、部屋から出てってください!!」
 精一杯の勇気と肺活量を振り絞って叫ぶ、哀訴に近い涙声で。
 怯えの色を隠しきれない訴えに、壁に沿ってぐるり一蹴し、机のところに戻ってきた黒スーツの男が初めて反応を示す。
 暴力沙汰に慣れた冷徹な目の色に息を呑む。
 酷薄な無表情に徹し、鼻先に屈みこむ。
 チンピラに命じぼくの腕を後ろ向きにねじりあげ、言う。
 「あんた、小金井リュウを知ってるか?」 
 
 小金井。
 初対面の人物の口から出た既知の名に、目を見開く。
 
 驚きを露にしたぼくを鉄面皮で眺め、黒スーツは言った。
 「居場所、吐いてもらおうか」
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