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十二話
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テーブルにトレイをおき、サムライは仰々しく椅子に腰掛けた。
サムライは背凭れに背を預けることがない。サムライの背筋はいつ見てもしゃんと伸びている。背中に鉄板でもいれてるみたいだ。
鉄の背骨を持つ男は、トレイの隅に揃えておいた箸に手を伸ばす。右手に箸を握り、左手に椀を持つ。サムライの箸捌きは完璧だった。傍で見ていても惚れ惚れするほど。俺はおふくろを思い出す。
お袋もサムライもなんて流麗に箸を操るんだろう。不器用な俺には考えられない。
サムライの食事風景を傍観していた俺を、卓上に身を乗り出したレイジがつつく。
『連れがいねえな』
サムライに向き直り、俺はレイジが言わんとしたことを代弁する。
「メガネはどうしたんだ?」
名前は忘れたが、メガネをかけていたことだけは覚えていた。だからそう呼んだ。
流れるような動作で魚の腹を開いて小骨を取り除きながら、サムライは感情の窺えない声で言った。
「鍵屋崎は食欲がないそうだ」
あぜんとした。
「おいおいマジかよ」
レイジもあきれていた。
入所二日目の今日から強制労働が始まるというのに、朝飯を抜くなんて自殺行為に等しい。途中でぶっ倒れて医務室送りになってもかまわないのだろうか。いや、医務室送りの僥倖に恵まれるのはごく一部の幸運な囚人に限られる。大抵の看守は囚人がぶっ倒れたところで担架を呼んでくれたりはしない。警棒の連打で否が応でも正気に戻させ強制労働に再従事させるのが、東京プリズンで罷り通ってる一般的なやり方だ。
「……これだから日本人は」
世間知らずというか打たれ弱いというか。自分のおかれた状況がまるでわかっちゃいない。
たとえ食欲がなくても飯をかっこみ、たとえやりたくなくても砂漠での穴掘りに精を出さなければ、看守の体罰と同班の囚人達のリンチが待ち受けているということがわからないのか。
俺はほとほとあきれたが、レイジは見解を異にしたようだ。
興味津々身を乗り出したレイジは、サムライを下世話な好奇心をむきだしにして黙々と食事中のサムライを覗きこむ。
「昨日なにがあったんだ?」
「………」
ピンときた。そういうことか。
レイジが言外に匂わせていることは察しがついた。おそらく昨晩、食欲が著しく減退するような出来事がメガネの身に起こったのだろう。サムライは答えない。いっそすがすがしいまでにレイジを無視し、器用に小骨を除去して一口大に切り分けた焼き魚を口に運んでいる。
サムライの食べ方は至極機械的だ。傍で見ていると味覚の有無さえ疑わしくなってくる。
「まて、あててやる」
名探偵気取りで顔の前に人さし指を立て、レイジがにっこりと笑う。
「凱だ」
薄味の味噌汁を啜りつつ、片手を茄子の漬物へと伸ばす。サムライは口を開かなかったが、沈黙を肯定と解釈したレイジが勝ち誇ったように人さし指を振ってみせる。
「レイプされた。そうだろ」
味噌汁の椀をおいたサムライが、箸の先で茄子の漬物を探りながらうっそりと口を開く。
「……未遂だ」
「お前が助けに入ったのか」
「だろーと思った」
目を丸くしたレイジの横合いから口を挟む。訝しげなレイジを鼻で笑い、俺は挑発的に言い放った。
「知らなかったのかレイジ。サムライはお前の五十倍は頼りになるぜ」
「ちぇっ、つまんねえ」
不貞腐れて頭の後ろで手を組み、重心を前後に移動させて椅子を揺する。当てが外れて面白くないと言わんばかりに唇を尖らせたレイジの方は見ずに箸を運びながら、サムライが独白に近い口調でぽつりと呟く。
「やはりな」
「やはり?」
サムライへと目をやる。俺の視線に先を促されたサムライは意味ありげにレイジを一瞥し、確信をこめて言う。
「こうなるとわかっていて鍵屋崎に近づいたのだろう、レイジ」
「なんのことかな」
レイジはそらっとぼける気だ。頭の後ろで手を組んだままあさっての方角に視線を泳がし、のらりくらりと核心をはぐらかしている。サムライは静かに箸をおいた。たったそれだけの動作が、清水に浸した白刃を一閃したかの如く清冽な気に満ちていた。
「目の敵にしてるお前がちょっかいをだせば凱はいやでも鍵屋崎に興味を示すだろう。それを承知した上で周囲の耳目を集めるような真似をしたのだな」
「それって勘繰りすぎ」
両手を挙げて降参のポーズのレイジ。が、サムライの鋭い眼光に根負けしたか、いけしゃあしゃあと白状する。
「あーそうですよご明察。俺がちょっかいだせばあの眼鏡くんが襲われるだろうなとわかってましたよ」
「なんでそういうことするんだ?」
「だってお前」
あきれかえった俺のほうを意味深な目つきでちらり流し見て、レイジはにっこりと微笑む。
「あーいうプライドの高い奴が処女奪われたあとどうなるか、知りたくない?ショック受けて首吊るか手首切るか逆上して凱を刺すかの三択。俺的には三番希望。目の上のコブが消えるし」
聞くんじゃなかった。
レイジの性格の悪さは筋金入りだ。つまりは性根がねじくれた愉快犯が、からかい甲斐のある獲物を見つけてよこしまな好奇心を刺激されたのだ。悪意でも敵意でもなく、レイジは単に面白そうだからというただそれだけの理由で人の心を弄ぶ。
この悪魔め。
胸中で毒づいた俺をよそに、頭の後ろで手を組んだレイジは椅子を揺らして拍子をとっていた。
「しっかし純血の日本人てのはやっぱヒヨワだね。温室育ちの坊やが飢えたケダモノどもの檻ん中に放り込まれたわけだ、順当に考えて一年もちゃいいほうだろ。娑婆では同性愛の経験もなかったのに入所初日で輪姦未遂だもんなあ、ガリ勉メガネくんには刺激強すぎってかんじ?アイツ恋愛方面疎そうだし初めての相手が野郎なんてすくわれね……」
「僕はもう経験済みだ」
背後で声がした。
不機嫌そうな声に振り向く。レイジの背後に立っていたのは噂の張本人、鍵屋崎だ。下の名前は忘れた。 日本人の名前は覚えにくい。
手には朝飯を載せたトレイを捧げもっている。銀縁眼鏡の奥の目は怜悧な知性を宿しているが、自分以外のすべての人間を上段に立って観察しているような傲慢な色がある。顔立ちは理知的に整っているが、こうも表情が欠落していると好印象をもつことはむずかしい。
鍵屋崎は無言でテーブルを迂回すると、サムライの隣に着席した。テーブルの天板にトレイの下地を叩きつけ、箸を持つ。
それを機に、レイジが元のペースを取り戻す。興味津々鍵屋崎の方へ身を乗り出し、矢継ぎ早に問いかける。
「マジで?だれと?女?」
「異性だ。決まっているだろう」
「年上、年下?美人?3サイズは」
「年上。容姿についての評価は差し控える。一般的には美人の範疇に含まれるかもしれないが、僕には関係ない。興味もない。ただ実験的な興味から、セックスとはどんなものか試してみたかっただけだ」
自分のほうへと顔を突き出し食事を妨害してくるレイジをうざったそうに避けながら、鍵屋崎は至極冷静な無表情で焼き魚を切り分けていた。コンパスの精密さで箸を操り、きっちり正確に四等分された魚の切り身が当人の性格をよくあらわしている。
「で、初体験のご感想は?」
テーブルに頬杖ついたレイジがにやにやしながら言う。いやらしい上目遣いの視線を堂々と受け止め、鍵屋崎はつまらなそうに答える。
「退屈だった。あんな不合理で非効率的な手段で人類は太古から生殖し続けてきたのかと思うと、先祖の頭の悪さに絶望しそうになる。今の社会なら人工授精などの効率的な手段を採用したほうが遥かに賢い。汗や垢など老廃物の沈殿した肌と肌とを接触させる不潔な行為のどこに他人は快感を感じているのか理解しがたい」
あぜんとした。
レイジの頭もおかしいがこいつの頭はそれ以上だ。
流れるように淡々と自説を述べた鍵屋崎をじろじろと観察し、レイジが直球を投げる。
「『昨日』の初体験はどうだった?」
鍵屋崎の手の動きが止まった。
四等分した焼き魚を右端から口に運んでいた鍵屋崎が、宙に箸を浮かせたまま探るようにレイジを見る。レイジは笑っていた。俺が鍵屋崎の立場だったら箸で目玉をほじくりかえすまではいかなくとも、味噌汁をぶっかけたくなるくらいには憎たらしい面だった。
「―貴重な体験だった」
一時停止が解凍されたかのようにスローモーに動作が再開される。鍵屋崎の隣のサムライは早々と食事を終え、深く頭を下げて合掌していた。自分の胃を満たしてくれた魚やワカメ、それら海の幸野の幸山の幸を授けてくれた八百万の神々に感謝を捧げているのだろう。信心深いというか礼儀正しいというか、イマドキ日本人でも稀少な人種だ。
まあ、「ごちそうさま」の癖がぬけない俺が言えた義理じゃないが。
鍵屋崎は横目でサムライを睨むと、皮肉というには平板すぎる口調で吐き捨てた。
「僕の右隣の人物が余計なことをしてくれなければ、もっと貴重なデータがとれたのだがな」
「貴重なデータ?凱のアレのサイズでも測るつもりだったのか」
自分の言葉に自分でウケてけらけら笑い出すレイジ。笑い上戸は手におえない。サムライの横顔から目を逸らし、味噌汁を啜る鍵屋崎。
「極度のストレス状態にある思春期の少年たちが、同性への強姦やリンチなどの暴力的行為に至る心理過程を探りたかった」
どこまで本気なんだろうか。
鍵屋崎のしれっと取り澄ました面を見ていると、あながち負け惜しみにも聞こえないのが恐ろしい。音をたてずに味噌汁を啜る鍵屋崎の横、先に食事を終えたサムライは気難しい顔で沈黙していたが、やがて鍵屋崎の方に視線を流して口を開く。
「―気分はもういいのか?」
「君は馬鹿だな」
気遣わしげに、と形容するには平板すぎる口調で問うたサムライににべもない言葉を返し、味噌汁の椀をトレイに置く。
「気分が優れなければ房で寝ている。こうして食堂にでてきたということは気分が復調した証拠だろう。それに、今日から強制労働が始まる。朝一の栄養補給を怠れば貧血を起こして医務室送りになるのはワラジムシでもわかる事実だ」
「そうか」
刺々しく吐き捨てた鍵屋崎の隣、サムライはため息をついた。
「気分がよくなったのなら、よかった」
ほんのわずかに安堵の気配が滲んだ声色。俺は知っている。見た目はとっつきにくいが本当はいい奴なのだ、サムライは。
少なくとも、レイジの億倍は。
「―まあ、一度や二度の襲撃で諦める骨なしじゃねえよな。凱は」
不穏当な台詞に向き直る。フォークの先端でトレイを叩き、即興の音楽を奏でながら、レイジがほくそ笑む。
「おたのしみはこれからだ」
「……地獄におちるぞ、お前」
げんなりした俺の嫌味を無駄にさわやかな笑顔で受け流し、トレイを持って席を立つレイジ。カウンターにトレイを返却しに向かうその背中越しに、口笛でも吹きかねない愉快げな声がとんでくる。
「もう落ちてる」
レイジの背中から視線を外し、俺は改めて鍵屋崎を見た。正面から注視した鍵屋崎は相変わらず無表情だった。「怒」はともかく、こいつが笑ってるところが想像できない。入所初日に集団レイプされかけたというのに、こうも泰然自若と落ち着き払ってられるのは何故だ? 頭の螺子がとんでいるとしかおもえない。―となると、レイジのご同類か。
俺のまわりは変人ばかりだ。時代錯誤なサムライ、天性の愉快犯レイジ、魔性の子役リョウ。
そして、謎のメガネ。
鼓膜が割れるようなサイレンが響き渡った。
鼓膜を痺れさす大音量のサイレンに、あちこちのテーブルに散った囚人たちが抗議の声を上げる。
「うるっせえ、わかってるよ!」
「飯くらいゆっくり食わせろ!」
「今のでワカメが喉に詰まっただろうが!!」
「……なんだこれは?」
食堂中に鳴り響いた不意打ちのサイレンに、正面の鍵屋崎が痛そうに片方の耳を押さえている。そうか、コイツは初体験か。
無視するのも不親切だし、一応説明してやる。
「食事終了、仕事始めの合図」
「行くか」
サムライがトレイを持って席を立つ。一定の歩幅でテーブルとテーブルの谷間を歩き、カウンターにトレイを返却する。俺も早くしないと、俺を目の敵にしてるタジマの豚にどやされる。一分の遅刻が警棒一打に換算されるとあらば、どんな愚図で食い意地の張った奴でも泣く泣くトレイを返却するしかない。
騒々しく席を立ち始めた囚人たちでごった返す食堂の一隅、テーブルに腰掛けた鍵屋崎は眼鏡の奥の目にわずかに逡巡の色を浮かべていた。鍵屋崎の右手には箸、左手には飯をよそった椀が握られたままだ。
テーブルに一人残された鍵屋崎に背を向け、俺はその場を立ち去ろうとした。急がなければ。愚図愚図してる暇はない。
「―おい、」
「―場所わかるか?」
鍵屋崎に続ける間を与えず、背中越しにぴしゃりと言い放つ。
「どうせわかんねえだろ、今日が初めての強制労働なら。昨日入所した囚人の仕事の割り振り先は視聴覚ホールに貼り出されてる。じゃあな」
ぞんざいに片手を振り、俺は今度こそカウンターに向かおうとした。まったく、何も知らない新人のせいで足止めを食った。これから全速力で地下の停車場に駆け込みバスにとびこんで遅れを挽回しなければ―……
「視聴覚ホールの場所がわからない」
振り向くのをためらった俺は悪くない。同情されこそすれ決して悪くない。
意を決して振り向いた俺の射抜くような視線の先に、鍵屋崎のお高くとまった顔があった。俺を足止めして申し訳ないとか手を煩わせてすまないとかそういう殊勝な素振りなど一切なく、ただ、ありのままの事実を述べたというだけの涼しい顔。
連れてってくれ、と頼まれたわけじゃない。案内してくれと頭を下げられたわけじゃない。
こいつをこのまま放置して停留所に向かうこともできたはずなのに、そう思い直した時には俺の舌は勝手に動いていた。
「―ついてこい、クソ眼鏡。トレイは速攻で返却してこい」
初めて鍵屋崎の顔に感情らしき淡い波紋が浮かび上がった。少し驚いたように目を見張り、手元の食器を見下ろす。半分ほど残った朝飯をトレイに並べ、立ち上がる。憤然と歩き出した俺の背に続く鍵屋崎は、トレイを抱えたのとは逆の手で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「僕はクソ眼鏡ではない。鍵屋崎 直だ」
そうだ、そんな名前だった。
このクソムカツク眼鏡は。
+
入所したての囚人は一目でわかる。
まず第一に囚人服。支給されたばかりの囚人服は一点の染み汚れもなく、清潔な洗剤の匂いが染み付いている。素晴らしく着心地がよさそうに思えるのは、俺やその他の囚人が垢染みてかぴかぴになった囚人服を着古しているからだろうか。第二に目つきだ。どいつもこいつも虐待された小動物みたいに卑屈でおどおどした目をしてる。これから何が起こるのか、どんな恐ろしい目に遭わされるのかとトイレにこもってる時も毛布に包まってる時もびくびく緊張し続け、そろそろ精神的に参ってきた目。
輪姦やリンチを警戒して徹夜したのか、真っ赤に充血した目の囚人ばかりが集った視聴覚ホールはだだっ広かった。コンクリート剥き出しの壁が延延連なる東京プリズンでは珍しいことに、四面の壁に白い壁紙が貼られている。ま、どっちも殺風景には変わりないが。
悠に二百畳の面積があるホールの前方には白いスクリーンが垂れ下がっている。囚人たちの息抜きの名目で月一回催される映画鑑賞会には、このスクリーンで映画が上映される。どれもこれも政府の検閲をパスした退屈な映画ばかりで囚人たちの受けはよくない。酔っ払い運転の末の交通事故で子供を轢き殺した未成年が被害者の親の手紙を読んで涙し、出所後は交通事故で親を亡くした子供たちの為の施設を開くという、説教臭がぷんぷん匂ってきて鼻詰まり起こしそうな上に改心を強要しようという政府の思惑が透けて見える映画などすすんで見たがる物好きはいない。―最も、一部の囚人にはひどくウケていたが。 最高のコメディだとか、子供を轢き殺された母親役の女優が出演してた裏ビデオを見たことあるとかなんとか。
そのスクリーンに映し出されているのは、昨日入所した囚人の一覧表。
全部で八十人もいるだろうか。あいうえお順に表示された名前を漫然と流し見てた俺は、隣の奴の名前を発見する。
『鍵屋崎 直 イエロ―ワーク 6班』
「おんなじか」
班は違うが部署は一緒だ。やれやれ、仕事場までこの理屈屋とおなじか。うんざりした俺の横顔とスクリーンに表示された自分の名前とを見比べ、鍵屋崎が訝しげに眉をひそめる。
「イエロワークとはなんだ?」
「サムライに教えてもらってないのか?」
鍵屋崎は首を振った。サムライは基本的に面倒見がいい奴だと思ってたが、同じ位の比率で寡黙であるためフォローが万全とはいえない。仕方なく、俺は説明してやる。
「イエローワークは土関係。温室でメロンや苺を育てたり畑を耕したり砂漠で井戸を掘ったり開墾作業が主な仕事だ。ちなみにブルーワークは水関係。刑務所内の便所やシャワー室の掃除及び給水施設の管理、街から運ばれてきた汚水を処理するのが仕事。レッドワークは火。おなじく街から運ばれてきた危険物を加熱処理するのが仕事。危険度ではこいつが一番上。残るひとつは……」
言い淀む。
「?」
「……東京プリズンにいりゃそのうちわかる」
俺の口から直接言うのは憚られた。世の中には知らないほうがマシなことが多多ある。俺も知りたくなかったが、永遠に知らずに過ごすことは東京プリズンでは不可能だろう。入所後一ヶ月以内に死亡しない限りは。
「僕はイエローワークか」
口の中で思慮深げに繰り返した鍵屋崎の横顔には「肉体労働には向いてないのだがな」という本音がありありと記されていた。そりゃそうだろう。囚人服の粗い生地越しに細っこい手足が透けて見えるようだ。こんな軟弱な奴が炎天下での農作業に耐えられるとはおもえないが、いまさら決定は覆せない。強制労働と言うだけあり、囚人たちに課せられるのは普通の人間がやりたがらない危険できつい仕事ばかりだ。机の上での頭脳労働を期待してたのならお門違いもいいところだ。
「で?イエローワークの持ち場にはどう行けばいいんだ」
「人にものを聞いてるのか?命令してるのか?どっちだ」
「これでもわからないことは率直に聞くよう心がけているつもりなのだが」
眼鏡のブリッジを押し上げながらしれっと言い放った鍵屋崎に沸騰しかけるが、押さえる。俺はこの場にいないサムライを怨んだ。本来なら同房の住人であるアイツが鍵屋崎を案内するべき立場だろうに、当の本人はさっさと自分の持ち場に行ってしまった。サムライはブルーワークだから仕方ないといえば仕方ないのだが、俺ばかり割を食うのは腑に落ちない。まさかサムライめ、俺とコイツが同じイエローワークだと知っていて何食わぬ顔で案内役を押し付けたんじゃないだろうな?
「いいよ、ついてこいよ。案内してやる」
仕事場に赴く前から俺はぐったりしていた。小難しい理屈をこねくりまわす鍵屋崎を相手に会話するのは疲れる。用は済んだとばかりに踵を返し、新人どもでごった返す視聴覚ホールを辞そうとした俺の耳を、「あ」という声がかすめる。
そちらを注目したのは条件反射だ。鍵屋崎の右後方に立っていたのは、品のない馬面の少年。額の狭さと反比例して鼻の下が長い間抜け面のそいつは、ぽんと鍵屋崎の肩を叩いて振り返らせる。
「よう、親殺し」
「………………」
にやにや笑いを浮かべた馬面を卑小な微生物でも見るかのように一瞥し、鍵屋崎はだまりこむ。
「お前どこ担当?イエローワーク?へえ、いちばんきっついやつじゃん。大変だなあ。やっぱ親殺しでぶちこまれたやつには一番きっつい仕事が回ってくんのかね。その点強盗殺人の俺はブルーワーク、便所掃除なんて看守の目が届かないとこでてきとーにサボればいいんだから気が楽。まあ頑張れよ親殺し、同房の奴から聞いたんだけどイエローワークは体力ないと保たねえらしいから。危険度ではレッドワークが最上だけど過酷さではイエローワークがダントツなんだろ?」
よくしゃべる口とよくまわる舌だ。
俺は苦々しいものを噛み殺し、ふたりの間に割って入る。
「行くぞ鍵屋崎。馬とだべってる時間なんかねえ」
馬面がなにか言いかけたが足早に歩き出して無視。隣に鍵屋崎がついてくる。
―「調子に乗んな、親殺しが!」―
視聴覚ホールのざわめきがぴたりと止む。
スクリーンに群がっていた黒山の人だかりが一斉にこちらを振り向く。鼻息荒く仁王立ちした馬面が、憤怒の目で鍵屋崎を指弾する。
「てめえ正気じゃねえよ、どんな最悪の犯罪者でもてめえの親殺したらおしまいだ。てめえを産み育てた恩を仇で返しやがって、地獄に落ちたくらいですむもんか。来世じゃナメクジかミミズがゴキブリか、いや、今思いついた。お前の来世は女の腹の中で産まれる前に殺されたガキ、堕胎される子供だ。血の繋がった親を平気で殺すような鬼畜外道をわざわざ痛い思いしてこの世に送り出したがる奴はいねえからな!」
鍵屋崎は黙っていた。反論するでも殴りかかるでもなく、身体の脇に拳をたらして視聴覚ホールの中央に立ち尽くしていた。ホール中の視線が鍵屋崎へと注がれる。「親殺し?あいつが?」「信じらんねえ、あんな細いナリしてるくせに」「超カゲキー」「昔流行ったキレた秀才ってやつ?」「最悪」―興奮にはやったざわめきと外野の誹謗中傷が鍵屋崎を取り囲む。
我知らず鍵屋崎の横から一歩を踏み出し、吐き捨てる。
「―だまれ、馬」
「あ?」
満場の注目を浴びて得意満面、胸をそらしていた馬面が妙な顔をする。
「お前の来世は馬だな。今だって馬の遺伝子が混ざったような間延びした面してんだ、来世じゃ牧場の藁床で産声あげられるといいな」
「―このっ、……」
馬面の顔が怒気と羞恥に紅潮するが、勢いよく振り上げられた握り拳はドッと沸いた笑い声に遮られ行き場を失う。馬面が狼狽している隙に聴衆の波を突っ切り、視聴覚ホールを出る。俺に続いて視聴覚ホールをでた鍵屋崎は、珍しいものでもみるかのように目を細めて俺を仰ぐ。
「変わらないんだな」
「あん?」
「僕が親を殺したと聞いても態度を変えないんだな」
怪訝な顔をした鍵屋崎に、俺は淡白に切り返した。
「殺したくなるような親だったんだろ」
俺にはわかる。殺したくなるほど憎い親だってこの世にはいる。素晴らしい両親に恵まれて何不自由ない幼少期を過ごせる子供は、今の日本では―いや、今の世界ではほんの一握りしかいないのだ。
俺の場合は母親だった。殺したいほど憎い母親。だから別に鍵屋崎が親を殺して東京プリズンにぶちこまれたと聞いても驚かなかった。俺と奴との違いは実行したか、実行する前に家を出たかだけなのだから。
鍵屋崎はしげしげと俺の横顔を見つめていたが、やがて、うっすらとだが笑みを浮かべた。
「君は利口だな。見かけによらず」
見かけによらずは余計だ。
サムライは背凭れに背を預けることがない。サムライの背筋はいつ見てもしゃんと伸びている。背中に鉄板でもいれてるみたいだ。
鉄の背骨を持つ男は、トレイの隅に揃えておいた箸に手を伸ばす。右手に箸を握り、左手に椀を持つ。サムライの箸捌きは完璧だった。傍で見ていても惚れ惚れするほど。俺はおふくろを思い出す。
お袋もサムライもなんて流麗に箸を操るんだろう。不器用な俺には考えられない。
サムライの食事風景を傍観していた俺を、卓上に身を乗り出したレイジがつつく。
『連れがいねえな』
サムライに向き直り、俺はレイジが言わんとしたことを代弁する。
「メガネはどうしたんだ?」
名前は忘れたが、メガネをかけていたことだけは覚えていた。だからそう呼んだ。
流れるような動作で魚の腹を開いて小骨を取り除きながら、サムライは感情の窺えない声で言った。
「鍵屋崎は食欲がないそうだ」
あぜんとした。
「おいおいマジかよ」
レイジもあきれていた。
入所二日目の今日から強制労働が始まるというのに、朝飯を抜くなんて自殺行為に等しい。途中でぶっ倒れて医務室送りになってもかまわないのだろうか。いや、医務室送りの僥倖に恵まれるのはごく一部の幸運な囚人に限られる。大抵の看守は囚人がぶっ倒れたところで担架を呼んでくれたりはしない。警棒の連打で否が応でも正気に戻させ強制労働に再従事させるのが、東京プリズンで罷り通ってる一般的なやり方だ。
「……これだから日本人は」
世間知らずというか打たれ弱いというか。自分のおかれた状況がまるでわかっちゃいない。
たとえ食欲がなくても飯をかっこみ、たとえやりたくなくても砂漠での穴掘りに精を出さなければ、看守の体罰と同班の囚人達のリンチが待ち受けているということがわからないのか。
俺はほとほとあきれたが、レイジは見解を異にしたようだ。
興味津々身を乗り出したレイジは、サムライを下世話な好奇心をむきだしにして黙々と食事中のサムライを覗きこむ。
「昨日なにがあったんだ?」
「………」
ピンときた。そういうことか。
レイジが言外に匂わせていることは察しがついた。おそらく昨晩、食欲が著しく減退するような出来事がメガネの身に起こったのだろう。サムライは答えない。いっそすがすがしいまでにレイジを無視し、器用に小骨を除去して一口大に切り分けた焼き魚を口に運んでいる。
サムライの食べ方は至極機械的だ。傍で見ていると味覚の有無さえ疑わしくなってくる。
「まて、あててやる」
名探偵気取りで顔の前に人さし指を立て、レイジがにっこりと笑う。
「凱だ」
薄味の味噌汁を啜りつつ、片手を茄子の漬物へと伸ばす。サムライは口を開かなかったが、沈黙を肯定と解釈したレイジが勝ち誇ったように人さし指を振ってみせる。
「レイプされた。そうだろ」
味噌汁の椀をおいたサムライが、箸の先で茄子の漬物を探りながらうっそりと口を開く。
「……未遂だ」
「お前が助けに入ったのか」
「だろーと思った」
目を丸くしたレイジの横合いから口を挟む。訝しげなレイジを鼻で笑い、俺は挑発的に言い放った。
「知らなかったのかレイジ。サムライはお前の五十倍は頼りになるぜ」
「ちぇっ、つまんねえ」
不貞腐れて頭の後ろで手を組み、重心を前後に移動させて椅子を揺する。当てが外れて面白くないと言わんばかりに唇を尖らせたレイジの方は見ずに箸を運びながら、サムライが独白に近い口調でぽつりと呟く。
「やはりな」
「やはり?」
サムライへと目をやる。俺の視線に先を促されたサムライは意味ありげにレイジを一瞥し、確信をこめて言う。
「こうなるとわかっていて鍵屋崎に近づいたのだろう、レイジ」
「なんのことかな」
レイジはそらっとぼける気だ。頭の後ろで手を組んだままあさっての方角に視線を泳がし、のらりくらりと核心をはぐらかしている。サムライは静かに箸をおいた。たったそれだけの動作が、清水に浸した白刃を一閃したかの如く清冽な気に満ちていた。
「目の敵にしてるお前がちょっかいをだせば凱はいやでも鍵屋崎に興味を示すだろう。それを承知した上で周囲の耳目を集めるような真似をしたのだな」
「それって勘繰りすぎ」
両手を挙げて降参のポーズのレイジ。が、サムライの鋭い眼光に根負けしたか、いけしゃあしゃあと白状する。
「あーそうですよご明察。俺がちょっかいだせばあの眼鏡くんが襲われるだろうなとわかってましたよ」
「なんでそういうことするんだ?」
「だってお前」
あきれかえった俺のほうを意味深な目つきでちらり流し見て、レイジはにっこりと微笑む。
「あーいうプライドの高い奴が処女奪われたあとどうなるか、知りたくない?ショック受けて首吊るか手首切るか逆上して凱を刺すかの三択。俺的には三番希望。目の上のコブが消えるし」
聞くんじゃなかった。
レイジの性格の悪さは筋金入りだ。つまりは性根がねじくれた愉快犯が、からかい甲斐のある獲物を見つけてよこしまな好奇心を刺激されたのだ。悪意でも敵意でもなく、レイジは単に面白そうだからというただそれだけの理由で人の心を弄ぶ。
この悪魔め。
胸中で毒づいた俺をよそに、頭の後ろで手を組んだレイジは椅子を揺らして拍子をとっていた。
「しっかし純血の日本人てのはやっぱヒヨワだね。温室育ちの坊やが飢えたケダモノどもの檻ん中に放り込まれたわけだ、順当に考えて一年もちゃいいほうだろ。娑婆では同性愛の経験もなかったのに入所初日で輪姦未遂だもんなあ、ガリ勉メガネくんには刺激強すぎってかんじ?アイツ恋愛方面疎そうだし初めての相手が野郎なんてすくわれね……」
「僕はもう経験済みだ」
背後で声がした。
不機嫌そうな声に振り向く。レイジの背後に立っていたのは噂の張本人、鍵屋崎だ。下の名前は忘れた。 日本人の名前は覚えにくい。
手には朝飯を載せたトレイを捧げもっている。銀縁眼鏡の奥の目は怜悧な知性を宿しているが、自分以外のすべての人間を上段に立って観察しているような傲慢な色がある。顔立ちは理知的に整っているが、こうも表情が欠落していると好印象をもつことはむずかしい。
鍵屋崎は無言でテーブルを迂回すると、サムライの隣に着席した。テーブルの天板にトレイの下地を叩きつけ、箸を持つ。
それを機に、レイジが元のペースを取り戻す。興味津々鍵屋崎の方へ身を乗り出し、矢継ぎ早に問いかける。
「マジで?だれと?女?」
「異性だ。決まっているだろう」
「年上、年下?美人?3サイズは」
「年上。容姿についての評価は差し控える。一般的には美人の範疇に含まれるかもしれないが、僕には関係ない。興味もない。ただ実験的な興味から、セックスとはどんなものか試してみたかっただけだ」
自分のほうへと顔を突き出し食事を妨害してくるレイジをうざったそうに避けながら、鍵屋崎は至極冷静な無表情で焼き魚を切り分けていた。コンパスの精密さで箸を操り、きっちり正確に四等分された魚の切り身が当人の性格をよくあらわしている。
「で、初体験のご感想は?」
テーブルに頬杖ついたレイジがにやにやしながら言う。いやらしい上目遣いの視線を堂々と受け止め、鍵屋崎はつまらなそうに答える。
「退屈だった。あんな不合理で非効率的な手段で人類は太古から生殖し続けてきたのかと思うと、先祖の頭の悪さに絶望しそうになる。今の社会なら人工授精などの効率的な手段を採用したほうが遥かに賢い。汗や垢など老廃物の沈殿した肌と肌とを接触させる不潔な行為のどこに他人は快感を感じているのか理解しがたい」
あぜんとした。
レイジの頭もおかしいがこいつの頭はそれ以上だ。
流れるように淡々と自説を述べた鍵屋崎をじろじろと観察し、レイジが直球を投げる。
「『昨日』の初体験はどうだった?」
鍵屋崎の手の動きが止まった。
四等分した焼き魚を右端から口に運んでいた鍵屋崎が、宙に箸を浮かせたまま探るようにレイジを見る。レイジは笑っていた。俺が鍵屋崎の立場だったら箸で目玉をほじくりかえすまではいかなくとも、味噌汁をぶっかけたくなるくらいには憎たらしい面だった。
「―貴重な体験だった」
一時停止が解凍されたかのようにスローモーに動作が再開される。鍵屋崎の隣のサムライは早々と食事を終え、深く頭を下げて合掌していた。自分の胃を満たしてくれた魚やワカメ、それら海の幸野の幸山の幸を授けてくれた八百万の神々に感謝を捧げているのだろう。信心深いというか礼儀正しいというか、イマドキ日本人でも稀少な人種だ。
まあ、「ごちそうさま」の癖がぬけない俺が言えた義理じゃないが。
鍵屋崎は横目でサムライを睨むと、皮肉というには平板すぎる口調で吐き捨てた。
「僕の右隣の人物が余計なことをしてくれなければ、もっと貴重なデータがとれたのだがな」
「貴重なデータ?凱のアレのサイズでも測るつもりだったのか」
自分の言葉に自分でウケてけらけら笑い出すレイジ。笑い上戸は手におえない。サムライの横顔から目を逸らし、味噌汁を啜る鍵屋崎。
「極度のストレス状態にある思春期の少年たちが、同性への強姦やリンチなどの暴力的行為に至る心理過程を探りたかった」
どこまで本気なんだろうか。
鍵屋崎のしれっと取り澄ました面を見ていると、あながち負け惜しみにも聞こえないのが恐ろしい。音をたてずに味噌汁を啜る鍵屋崎の横、先に食事を終えたサムライは気難しい顔で沈黙していたが、やがて鍵屋崎の方に視線を流して口を開く。
「―気分はもういいのか?」
「君は馬鹿だな」
気遣わしげに、と形容するには平板すぎる口調で問うたサムライににべもない言葉を返し、味噌汁の椀をトレイに置く。
「気分が優れなければ房で寝ている。こうして食堂にでてきたということは気分が復調した証拠だろう。それに、今日から強制労働が始まる。朝一の栄養補給を怠れば貧血を起こして医務室送りになるのはワラジムシでもわかる事実だ」
「そうか」
刺々しく吐き捨てた鍵屋崎の隣、サムライはため息をついた。
「気分がよくなったのなら、よかった」
ほんのわずかに安堵の気配が滲んだ声色。俺は知っている。見た目はとっつきにくいが本当はいい奴なのだ、サムライは。
少なくとも、レイジの億倍は。
「―まあ、一度や二度の襲撃で諦める骨なしじゃねえよな。凱は」
不穏当な台詞に向き直る。フォークの先端でトレイを叩き、即興の音楽を奏でながら、レイジがほくそ笑む。
「おたのしみはこれからだ」
「……地獄におちるぞ、お前」
げんなりした俺の嫌味を無駄にさわやかな笑顔で受け流し、トレイを持って席を立つレイジ。カウンターにトレイを返却しに向かうその背中越しに、口笛でも吹きかねない愉快げな声がとんでくる。
「もう落ちてる」
レイジの背中から視線を外し、俺は改めて鍵屋崎を見た。正面から注視した鍵屋崎は相変わらず無表情だった。「怒」はともかく、こいつが笑ってるところが想像できない。入所初日に集団レイプされかけたというのに、こうも泰然自若と落ち着き払ってられるのは何故だ? 頭の螺子がとんでいるとしかおもえない。―となると、レイジのご同類か。
俺のまわりは変人ばかりだ。時代錯誤なサムライ、天性の愉快犯レイジ、魔性の子役リョウ。
そして、謎のメガネ。
鼓膜が割れるようなサイレンが響き渡った。
鼓膜を痺れさす大音量のサイレンに、あちこちのテーブルに散った囚人たちが抗議の声を上げる。
「うるっせえ、わかってるよ!」
「飯くらいゆっくり食わせろ!」
「今のでワカメが喉に詰まっただろうが!!」
「……なんだこれは?」
食堂中に鳴り響いた不意打ちのサイレンに、正面の鍵屋崎が痛そうに片方の耳を押さえている。そうか、コイツは初体験か。
無視するのも不親切だし、一応説明してやる。
「食事終了、仕事始めの合図」
「行くか」
サムライがトレイを持って席を立つ。一定の歩幅でテーブルとテーブルの谷間を歩き、カウンターにトレイを返却する。俺も早くしないと、俺を目の敵にしてるタジマの豚にどやされる。一分の遅刻が警棒一打に換算されるとあらば、どんな愚図で食い意地の張った奴でも泣く泣くトレイを返却するしかない。
騒々しく席を立ち始めた囚人たちでごった返す食堂の一隅、テーブルに腰掛けた鍵屋崎は眼鏡の奥の目にわずかに逡巡の色を浮かべていた。鍵屋崎の右手には箸、左手には飯をよそった椀が握られたままだ。
テーブルに一人残された鍵屋崎に背を向け、俺はその場を立ち去ろうとした。急がなければ。愚図愚図してる暇はない。
「―おい、」
「―場所わかるか?」
鍵屋崎に続ける間を与えず、背中越しにぴしゃりと言い放つ。
「どうせわかんねえだろ、今日が初めての強制労働なら。昨日入所した囚人の仕事の割り振り先は視聴覚ホールに貼り出されてる。じゃあな」
ぞんざいに片手を振り、俺は今度こそカウンターに向かおうとした。まったく、何も知らない新人のせいで足止めを食った。これから全速力で地下の停車場に駆け込みバスにとびこんで遅れを挽回しなければ―……
「視聴覚ホールの場所がわからない」
振り向くのをためらった俺は悪くない。同情されこそすれ決して悪くない。
意を決して振り向いた俺の射抜くような視線の先に、鍵屋崎のお高くとまった顔があった。俺を足止めして申し訳ないとか手を煩わせてすまないとかそういう殊勝な素振りなど一切なく、ただ、ありのままの事実を述べたというだけの涼しい顔。
連れてってくれ、と頼まれたわけじゃない。案内してくれと頭を下げられたわけじゃない。
こいつをこのまま放置して停留所に向かうこともできたはずなのに、そう思い直した時には俺の舌は勝手に動いていた。
「―ついてこい、クソ眼鏡。トレイは速攻で返却してこい」
初めて鍵屋崎の顔に感情らしき淡い波紋が浮かび上がった。少し驚いたように目を見張り、手元の食器を見下ろす。半分ほど残った朝飯をトレイに並べ、立ち上がる。憤然と歩き出した俺の背に続く鍵屋崎は、トレイを抱えたのとは逆の手で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「僕はクソ眼鏡ではない。鍵屋崎 直だ」
そうだ、そんな名前だった。
このクソムカツク眼鏡は。
+
入所したての囚人は一目でわかる。
まず第一に囚人服。支給されたばかりの囚人服は一点の染み汚れもなく、清潔な洗剤の匂いが染み付いている。素晴らしく着心地がよさそうに思えるのは、俺やその他の囚人が垢染みてかぴかぴになった囚人服を着古しているからだろうか。第二に目つきだ。どいつもこいつも虐待された小動物みたいに卑屈でおどおどした目をしてる。これから何が起こるのか、どんな恐ろしい目に遭わされるのかとトイレにこもってる時も毛布に包まってる時もびくびく緊張し続け、そろそろ精神的に参ってきた目。
輪姦やリンチを警戒して徹夜したのか、真っ赤に充血した目の囚人ばかりが集った視聴覚ホールはだだっ広かった。コンクリート剥き出しの壁が延延連なる東京プリズンでは珍しいことに、四面の壁に白い壁紙が貼られている。ま、どっちも殺風景には変わりないが。
悠に二百畳の面積があるホールの前方には白いスクリーンが垂れ下がっている。囚人たちの息抜きの名目で月一回催される映画鑑賞会には、このスクリーンで映画が上映される。どれもこれも政府の検閲をパスした退屈な映画ばかりで囚人たちの受けはよくない。酔っ払い運転の末の交通事故で子供を轢き殺した未成年が被害者の親の手紙を読んで涙し、出所後は交通事故で親を亡くした子供たちの為の施設を開くという、説教臭がぷんぷん匂ってきて鼻詰まり起こしそうな上に改心を強要しようという政府の思惑が透けて見える映画などすすんで見たがる物好きはいない。―最も、一部の囚人にはひどくウケていたが。 最高のコメディだとか、子供を轢き殺された母親役の女優が出演してた裏ビデオを見たことあるとかなんとか。
そのスクリーンに映し出されているのは、昨日入所した囚人の一覧表。
全部で八十人もいるだろうか。あいうえお順に表示された名前を漫然と流し見てた俺は、隣の奴の名前を発見する。
『鍵屋崎 直 イエロ―ワーク 6班』
「おんなじか」
班は違うが部署は一緒だ。やれやれ、仕事場までこの理屈屋とおなじか。うんざりした俺の横顔とスクリーンに表示された自分の名前とを見比べ、鍵屋崎が訝しげに眉をひそめる。
「イエロワークとはなんだ?」
「サムライに教えてもらってないのか?」
鍵屋崎は首を振った。サムライは基本的に面倒見がいい奴だと思ってたが、同じ位の比率で寡黙であるためフォローが万全とはいえない。仕方なく、俺は説明してやる。
「イエローワークは土関係。温室でメロンや苺を育てたり畑を耕したり砂漠で井戸を掘ったり開墾作業が主な仕事だ。ちなみにブルーワークは水関係。刑務所内の便所やシャワー室の掃除及び給水施設の管理、街から運ばれてきた汚水を処理するのが仕事。レッドワークは火。おなじく街から運ばれてきた危険物を加熱処理するのが仕事。危険度ではこいつが一番上。残るひとつは……」
言い淀む。
「?」
「……東京プリズンにいりゃそのうちわかる」
俺の口から直接言うのは憚られた。世の中には知らないほうがマシなことが多多ある。俺も知りたくなかったが、永遠に知らずに過ごすことは東京プリズンでは不可能だろう。入所後一ヶ月以内に死亡しない限りは。
「僕はイエローワークか」
口の中で思慮深げに繰り返した鍵屋崎の横顔には「肉体労働には向いてないのだがな」という本音がありありと記されていた。そりゃそうだろう。囚人服の粗い生地越しに細っこい手足が透けて見えるようだ。こんな軟弱な奴が炎天下での農作業に耐えられるとはおもえないが、いまさら決定は覆せない。強制労働と言うだけあり、囚人たちに課せられるのは普通の人間がやりたがらない危険できつい仕事ばかりだ。机の上での頭脳労働を期待してたのならお門違いもいいところだ。
「で?イエローワークの持ち場にはどう行けばいいんだ」
「人にものを聞いてるのか?命令してるのか?どっちだ」
「これでもわからないことは率直に聞くよう心がけているつもりなのだが」
眼鏡のブリッジを押し上げながらしれっと言い放った鍵屋崎に沸騰しかけるが、押さえる。俺はこの場にいないサムライを怨んだ。本来なら同房の住人であるアイツが鍵屋崎を案内するべき立場だろうに、当の本人はさっさと自分の持ち場に行ってしまった。サムライはブルーワークだから仕方ないといえば仕方ないのだが、俺ばかり割を食うのは腑に落ちない。まさかサムライめ、俺とコイツが同じイエローワークだと知っていて何食わぬ顔で案内役を押し付けたんじゃないだろうな?
「いいよ、ついてこいよ。案内してやる」
仕事場に赴く前から俺はぐったりしていた。小難しい理屈をこねくりまわす鍵屋崎を相手に会話するのは疲れる。用は済んだとばかりに踵を返し、新人どもでごった返す視聴覚ホールを辞そうとした俺の耳を、「あ」という声がかすめる。
そちらを注目したのは条件反射だ。鍵屋崎の右後方に立っていたのは、品のない馬面の少年。額の狭さと反比例して鼻の下が長い間抜け面のそいつは、ぽんと鍵屋崎の肩を叩いて振り返らせる。
「よう、親殺し」
「………………」
にやにや笑いを浮かべた馬面を卑小な微生物でも見るかのように一瞥し、鍵屋崎はだまりこむ。
「お前どこ担当?イエローワーク?へえ、いちばんきっついやつじゃん。大変だなあ。やっぱ親殺しでぶちこまれたやつには一番きっつい仕事が回ってくんのかね。その点強盗殺人の俺はブルーワーク、便所掃除なんて看守の目が届かないとこでてきとーにサボればいいんだから気が楽。まあ頑張れよ親殺し、同房の奴から聞いたんだけどイエローワークは体力ないと保たねえらしいから。危険度ではレッドワークが最上だけど過酷さではイエローワークがダントツなんだろ?」
よくしゃべる口とよくまわる舌だ。
俺は苦々しいものを噛み殺し、ふたりの間に割って入る。
「行くぞ鍵屋崎。馬とだべってる時間なんかねえ」
馬面がなにか言いかけたが足早に歩き出して無視。隣に鍵屋崎がついてくる。
―「調子に乗んな、親殺しが!」―
視聴覚ホールのざわめきがぴたりと止む。
スクリーンに群がっていた黒山の人だかりが一斉にこちらを振り向く。鼻息荒く仁王立ちした馬面が、憤怒の目で鍵屋崎を指弾する。
「てめえ正気じゃねえよ、どんな最悪の犯罪者でもてめえの親殺したらおしまいだ。てめえを産み育てた恩を仇で返しやがって、地獄に落ちたくらいですむもんか。来世じゃナメクジかミミズがゴキブリか、いや、今思いついた。お前の来世は女の腹の中で産まれる前に殺されたガキ、堕胎される子供だ。血の繋がった親を平気で殺すような鬼畜外道をわざわざ痛い思いしてこの世に送り出したがる奴はいねえからな!」
鍵屋崎は黙っていた。反論するでも殴りかかるでもなく、身体の脇に拳をたらして視聴覚ホールの中央に立ち尽くしていた。ホール中の視線が鍵屋崎へと注がれる。「親殺し?あいつが?」「信じらんねえ、あんな細いナリしてるくせに」「超カゲキー」「昔流行ったキレた秀才ってやつ?」「最悪」―興奮にはやったざわめきと外野の誹謗中傷が鍵屋崎を取り囲む。
我知らず鍵屋崎の横から一歩を踏み出し、吐き捨てる。
「―だまれ、馬」
「あ?」
満場の注目を浴びて得意満面、胸をそらしていた馬面が妙な顔をする。
「お前の来世は馬だな。今だって馬の遺伝子が混ざったような間延びした面してんだ、来世じゃ牧場の藁床で産声あげられるといいな」
「―このっ、……」
馬面の顔が怒気と羞恥に紅潮するが、勢いよく振り上げられた握り拳はドッと沸いた笑い声に遮られ行き場を失う。馬面が狼狽している隙に聴衆の波を突っ切り、視聴覚ホールを出る。俺に続いて視聴覚ホールをでた鍵屋崎は、珍しいものでもみるかのように目を細めて俺を仰ぐ。
「変わらないんだな」
「あん?」
「僕が親を殺したと聞いても態度を変えないんだな」
怪訝な顔をした鍵屋崎に、俺は淡白に切り返した。
「殺したくなるような親だったんだろ」
俺にはわかる。殺したくなるほど憎い親だってこの世にはいる。素晴らしい両親に恵まれて何不自由ない幼少期を過ごせる子供は、今の日本では―いや、今の世界ではほんの一握りしかいないのだ。
俺の場合は母親だった。殺したいほど憎い母親。だから別に鍵屋崎が親を殺して東京プリズンにぶちこまれたと聞いても驚かなかった。俺と奴との違いは実行したか、実行する前に家を出たかだけなのだから。
鍵屋崎はしげしげと俺の横顔を見つめていたが、やがて、うっすらとだが笑みを浮かべた。
「君は利口だな。見かけによらず」
見かけによらずは余計だ。
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