愛してほしかった

こな

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28.雨の中

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 なぁもういいか、そんな男の声が遠く聞こえるようだった。
 胸の形が変わるほど強く掴まれても、体は恐怖と疲弊から思い通りに動かない。
 苦し紛れに身じろいでみたところで、何の抵抗にもならない。

「動いてもいいけど、痛い思いするのは自分だよ」

 喉元に当てられたひやりとした感触に悲鳴にも満たない息が漏れる。
 胸倉を掴みあげられて、ブチブチと布が裂ける音がした。外気に晒された肌が粟立つ。

「なぁ雇い主さん。アンタ見とくのか? 俺は構わないけど、」

 いい趣味だなぁと下卑た笑いが耳を撫でる。
 首元に顔を埋めた男の、舌が、這いずって、

「ぅ゛、」

「オイオイ、吐くなよ」

 口元を押さえつけられ、滲んでいた涙がボロボロとこめかみを伝って落ちていく。

 外は荒れているようで、叩きつけるような雨音が聞こえる。それが私たちのいる空間を一層孤立させているように感じた。

 恐怖心から泣き喚きたい感情の一角で、絶望で冷え切っていく感覚があった。

 クリスティナ様が私の耳に口元を寄せ、

「今日だけは、沢山愛してもらってくださいね」

 そう囁いてから、すいと背を向ける。
 遠ざかっていく後姿と、だらりと投げ出している己の手を眺めた。
 弱くて脆くて──だから私は今、こうなっているのだろう。

「神のために祈る場所で聖女を犯すとか、背徳感でゾクゾクするなぁ」

 アンタもいっそ楽しめば良いと、男の無骨な手が弄ぶように指を絡めてくる。
 この期に及んで思い出してしまったのは、あの人の手の温度で。彼がこれまでいかに私に優しく触れてくれていたのか、こんな形で思い知らされた。

 このまま体を暴かれるぐらいなら、いっそ舌を噛んで死んだ方がマシだ。

 もういい、そう、心の中で呟い時──

 扉の開く音がした。
 クリスティナ様が出ていった音だろう。
 そんなことを頭の隅で考えていると、

 ごとり、

 すぐ側で何かが落ちる音がした。

 生暖かいものが頬を濡らしたと思えば、男の体が力無くのし掛かってきた。
 重みで身動きが取れない。しかし乱雑な床を鳴らす靴音が響き、間も無く重みが消え去った。

 足蹴にされた男の体が転がっていくのを、虚ろな視界の先で見た。その体からは首から上が無くなっていた。


「ままならない、本当に」


 夜の闇に滲むような声が耳に届く。
 目を向けるよりも先に抱き込まれ、彼がどんな顔をしているかわからなかった。

 冷たい髪が頬に付く。全身濡れているのに、彼の腕の中は涙が溢れるほど暖かかった。
 固まっていた体が和らいで、ひくひくと嗚咽が漏れる。

 名を呼ぼうとした時、同じく彼の名を半ば悲鳴のように呼ぶ声が響いた。

「ヨシュア様…! わ、私も、私も乱暴をされそうになったのです…! 怖かった! 怖かったです…! いま、助けを呼ぼうと思って、」

「怪我は?」

 涙ながらに話すクリスティナ様を無視して、ヨシュア様は私に問い掛けていた。
 至近距離で、いっそ鼻先が触れそうなくらいの近さでじっと見つめられる。
 ふるふると首を横に振った。

 彼はまた首元に顔を埋めるようにして私を抱き込む。男の時とは違って、嫌悪は無かった。
 彼が息を吐いたのを肌で感じる、まるで安堵のような、

「ヨシュア様…! ねぇ、ヨシュア様っ!!」

 どっ、と体が揺れる。
 クリスティナ様が彼の背に抱き付いたらしかった。
 その後もあたかも自分も被害者であるかのように言葉を並べる。それに口を出す程の力が残っていなくて、歯痒く、言葉にならない息だけが口の端から漏れる。

「ヨシュア様、私を、私を抱き締めてくださいまし。愛する私を、いつもみたいに、」

「君、少し黙れ」

 背筋が凍るような声音だった。
 自分に向けられたわけでもないのに、息が詰まる。

「でないと一思いに殺してしまいそうだ」

「な゛っ…!?」

 彼女は驚愕の表情を浮かべ、壇上から後退した拍子に尻餅をついた。
 ヒールが転がる音が木霊する。

 わなわなと唇を震わせ「何故そのような事を仰るの!?」叫ぶように訴えた。
 しかし彼は答えない。まるで彼女が存在しないかのように、振り返りもしない。

 銀灰色の瞳はただ真っ直ぐに私を見下ろしていた。
 ヨシュア様、ヨシュア様と、彼女の悲痛な呼び声に、私の方が心がざわついてしまって、なのに、

「レネ」

 彼の声はいつも通りの平坦で。
 もう大丈夫だと、優しく背を撫でてくれる。

 何とか繋ぎ止めていた意識が、ぐらりと揺れる。限界に近かった体から遂に力が抜け切って、意識が遠のいていく。

「君は眠っていてくれ。その間に今度こそ、全て片付けておくから」

 その言葉を最後に、私の意識はぷつりと途絶えた。




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