穢れた、記憶の消去者

木立 花音

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最終章「七月七日夜七時」

最終話【小さな幸せを、どうか見逃さないで】

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「ギャアアアアアアアア……!」

 太ももから鮮血がどくどくとあふれ出してくる。柚乃が悲鳴を上げてうずくまった。

「やめろ! データがどうなってもいいのか?」
「いいさ。勘違いするなと言っただろ? 僕と、お前とでは、元から取り引きの条件が公平じゃないんだよ。今そのデータを消されたとしても、僕はあと一年待てばまたデータは手に入る。お前はどうだ? 今勝負するしかないんだろう? その時点で」

 公平じゃないんだよ! と叫んで浅野がもう一度ナイフを柚乃の太ももに刺した。くぐもった悲鳴を上げ、柚乃が歯を食いしばる。
 これ以上は無理だ。どうせ死ぬなら、柚乃を守って俺も死のう。
 体勢を低くして、雄たけびを上げて突進を試みる。

 ――そのとき。

 慌ただしい足音が響いたかと思うと、部屋の扉が開いて数人の刑事がなだれ込んできた。
 ナイフを手に立ちすくんでいる浅野に、数人の刑事が銃を突き付けて降伏を勧告する。

「動くな!」
「武器を捨てて女性から離れろ」

 制服を着た刑事たちに囲まれて、浅野が瞳を白黒させている。

「……なぜだ。薫の発信履歴はすべて調べた。呼び出し場所を変えて、GPS発信機だって処分した。追手だっていなかった。それなのに、なぜこの場所がわかるんだ?」

 蟻の這い出る隙もない、とはこのことか。圧力をかけている刑事たちの後ろから、スーツ姿の長身女性が進み出てくる。

「遅いっすよ楓さん」

 丸い瞳を細めてセミロングヘアの女性が笑う。彼女の名は、八王子署捜査一課の刑事、高辻楓。
 正真正銘、”本物”の高辻楓だ。

「すまなかったね。呼び出し場所の変更をされたのと、追跡をまかれたのとが正直痛手だった」

 だけど、と楓さんが浅野と向き合った。

「薫の奴が情報を残してくれたんだよ」
「ばかな。そんなはずは」

 浅野は狐につままれたような顔をしている。

「部屋を出る直前に、『戻ってくるとしたら、葉子のデータが必要になったときだろうか』と薫は言葉を残したんだよ。それで私はピンときた。薫の身に不測の事態が起きた場合、データを壊すことで犯人をここにこさせるつもりなんじゃないのかと。そこで張り込みをしてたら、案の定、あの女がやってきた」

 柚乃が先ほどから、信じられない、といった顔で楓さんのことを見ている。

「やってきたのは、私に成りすましているあの女だった。こりゃあビンゴだと即座に思ったね。不法侵入をやらかして出てきたところに職質したら、あっさり口を割ったよ」
「あのバカ女」と浅野が悪態をついた。
「恋仲だったのかどうか知らんが、お前らの信頼関係はその程度だったってことだろ」

 哀れなものを見る目で楓さんが苦笑する。

「本当に、あの楓なの?」

 酸欠気味の金魚みたいに、柚乃が口をパクパクさせている。

「ごめんね、柚乃。こちらの署に赴任してきたのは一年くらい前なんだけど、すぐに接触できない理由があったんだ。私に成りすましている偽物女の目的を探るために、泳がせておく必要があったものでね。辛い思いを……させたね」

 柚乃の傍らにしゃがんで、楓さんが傷の状態を確認する。それから刑事の一人に指示して救急車を呼ばせた。

「私はね。嘘をついて、人を陥れることをなんとも思わないような人間が一番嫌いなんだ。あんたみたいなね」

 蔑んだ目を、楓さんが浅野に向けた。

「だが、誰かを守るために、誰かのことを思ってつく嘘なら話は別だ。頑張ったね、柚乃」

 ――空吹く風と聞き流す。

「辛くてたまらないとき、不安でいっぱいなとき、もう限界だと感じてしまったときは、心をゆっくり休ませることが必要だ。安全な場所で落ち着くこと。心にのしかかっている感情から自身を解放していくのが大事なんだ」

 でもね。

「大丈夫、辛くない、と自分の感情すべてに蓋をしてしまうと、何に対しても無関心、無感動になってしまうことがある。時には自身がとらわれている辛さを自覚して、向き合うことも大事なんだ。けど、辛さと向き合うと、やっぱり心が痛くなる。そんなとき、何にすがればいいと思う?」
「大切な人。もしくは思い出……?」と柚乃が答えた。
「そうだね。……柚乃と連絡が取れなくなったと、心配をして私のところに連絡をくれた人がいるんだ。誰だと思う?」

 少なくとも俺ではない。捕われているのが柚乃ではないかと予測して、気にかけていたのは確かだが。

「熊谷沙耶だよ」

 それを聞いて、柚乃の目尻に涙が浮かんだ。感極まって、両手で顔を覆ってしまう。

「それで、柚乃のアパートに行って、不在なのを確認した。事件に巻き込まれているとしたら、誰が犯人なのかの目星が付いた。……人と人とのつながりが、いざという時に力になるのさ。自分でなんでもできるんだ、と気負うのも結構だが、困ったときに誰かに頼るのは決して恥ずかしいことなんかじゃない。だからこそ――」

 楓さんが、浅野を鋭い目で睨んだ。

「人の弱みにつけこんで利用する人間が私は大っ嫌いなんだ。そんなのは、人の尊厳を踏みにじる行為だ」

 ――恥を知れ! と浅野を一喝した。

「浅野貴。監禁罪、および殺人未遂罪の容疑で現行犯逮捕する」

 うな垂れている浅野の両手首に冷たい鉄の輪がはめられ、両脇を刑事に固められて部屋を出て行く。
 すべてが終わったことで張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、柚乃が泣きながら楓さんに抱きついた。

 こうして、葉子の死から始まった、一連の不幸な事件は幕を閉じた。

   *

 苦しいときもあるでしょう。
 悲しいときもあるでしょう。
 それでも、どうか立ち止まらないで。
 止まない雨はないように、いつか必ず苦しみは晴れて雲間から陽が差すから。
 幸せは必ずあるよ。
 暗い場所でほど、それがよくわかるはず。
 小さな幸せを、どうか見逃さないで。

 これは、生前葉子が残した言葉のひとつだ。
 彼女が残してくれた最後のデータを見ながら、葉子が研究を通じて発信したかったことはなんなのかと、俺はつらつらと考えていた。
 ちなみに、ファイルを開くためのパスワードは、『よろしくね』だった。

「ああ、確かにバトンは受け取ったぜ」
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