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「アスラン、さま……」
『コウ、大丈夫か? とは言っても大丈夫なわけがないの。とても大丈夫そうではない死にかけにも、ついそう言ってしまうのぅ』
「だれ……?」
アスランを求めるように手をのばすと、アスランとは違うひんやり冷たい小さな手がコウを包んでからベッドへ戻す。
そっと目を開けるが目の前は霞がかっていている。いつもの天井も白い膜の向こうにあるみたいだ。
そして自分を心配そうに覗きこむのは、女性のように長い髪を腰までのばしている少年だった。
少年だとわかるのは胸が平らで膨らんでいないから、もっと視線を下にすれば男性の象徴が小さいながらもぶらさがっている。
全裸の少年。しかしこの少年は恥ずかしがることもなく堂々としている。
『コウ、わしの声を忘れたか?』
「ああ……わかります亀様、ですよね。でも僕が知る亀様とは、お姿が全く違うのですが」
『亀の姿は仮であると言わなかったか? わしの本当の姿はこれよ。交尾もできぬ蝙蝠のお前に見せるつもりはなかったが、お前とももうお別れだからの。わしの美しさを見せるのは最後の心づくしだ』
「お別れ? 亀様はここを出て、どこかへ、行かれるのですか?」
コウの亀を惜しむ声に精霊は複雑な思いを押し隠し首をふる。
『いくのはわしではなくコウじゃ』
「ぼく……?」
『そうだ、お前が逝くんじゃ。もう、声も出すのも辛いだろう』
「辛いです。いったい、僕は……どうして……このごろ寝込んでばかりで、風邪をひくのは初めてで……」
こんなに辛いものだとは知らなかった。
普段何気なくする瞬きも、息をすることも、意識しないとできない。
吸って吐いて、吸って吐く。深くはできない、浅くだ。
握ったままだったアスランのシャツも、今は手から離れどこにいってしまったのかわからないし、すがっていた物がなくなっていることも忘れてしまっていた。
美しい、らしい亀の顔をはっきり見られないのがちょっと残念だ。
少年から亀様の声がするのはとても奇妙だが、精霊の言うとおりもうコウは声を出すのも辛い。喋ると頭に太い針を撃ち込まれたように痛み、体の節々がギリギリと捻じられているようだ。
『わしも眠っておっての、龍がここを発ったことにしばらく気付かなんだ。あやつが出ていってから今日で七日はたつか。しかしたったの数日でコウがこうなってしまうとは。森は非情だ』
「それって、どういう、意味、ですか?」
『ん。この森は人のように、いい意味での曖昧さがないのだ。自分達に益をもたらす者は歓迎し同じ量それを返す。しかし返さない者には非情。龍は滞った気を循環させるが、蝙蝠はそうではない。コウが苦しんでいるのは風邪のせいではない。そう言うことだ』
立っていた精霊がベッドの脇に腰を降ろす。髪がゆらりとしコウにかかった。
『龍というのは特殊な生き物。活動をやめていたこの森に降り立つだけで、乱暴なほどに地を攪拌させ目覚めさせる。かつてのリジルヘズもそうだった。龍が来たことで、天災が続き地は隆起し断層はずれ、山は火を噴き、空からは稲妻が走り千日も雨や雹を降らした。龍の行く先々は災いばかりだと言うが、その間違いを生まれ変わったリジルヘズが証明した。天災の後のリジルヘズは地形を大きく変えていたと言う』
「……川……水のながれ……」
地図にあったリジルヘズで最も目立っていたのは川だった。
『その通り、水だ。地形がかわり流れが変わった。割れてできた大きな溝は貯水の地となり、砂漠には水が湧く場所もできた。天と地に愛される龍はそこで王となり、今の時まで王朝が続いている』
精霊が断言するのであれば、それは逸話ではなく歴史的にあった事実といえる。
手の甲がひやりとした。そこに亀の手が添えられているのだ。
『許せ。森がコウを嫌っているわけではないのだ。龍のいない森というのはこうして死んだようになって瘴気をためる。龍がいなければここは地上の生物が生きられない死の場所。地上の者はここを神域楽園といってあがめるようだが、本来は死の森よ。どんな小さな命であっても、ここでは生きられん。ここには羽虫さえおらん理由はそこよ』
「僕は、この場所で、もう、死ぬしかないのですか」
『このまま放っておけばそうなるのう。アスランや他の龍が迎えに来るか、コウが死ぬかどちらが早いか。ま、見ればわかる。コウがくたばる方が早いだろう』
精霊は淡々と事実を述べる。だからコウもそれが事実であると受け入れやすかった。
龍がいないこの場所は死の森へと戻っただけ。龍であるアスランやロミーはそれを知らずにいるのだ。
「僕は、ここで、アスラン様をお待ちすると……約束しました。でも、それを守ることができない。それが、辛いです」
『コウが死ねば龍は悲しむだろう。わしは龍が好きだ、だから龍を幸せにするコウが好きだ。そうでなくともコウは好きだ。だからアスランを誘惑した詫びも兼ねて、リジルヘズへコウのその身を送ろうと思うのだ……保障はない。イチかバチかだがの』
「……ここから、出してくれるのですか。アスラン様の元へ、送ってくれるのですか」
細い息をはくように出す声が、自分の身を痛めつける。もうコウの瞼は閉じてしまい精霊を映すために開いてはくれない。
『ああ、喋らんでいい。ぷつんと逝ってしまうぞ。生き延びたいのならばじっとしておれ、生きてアスランに会いたいのだろう』
は、い。
精霊に返事をするようにコウの口が気持ちだけ動く。
『この森の根が世界と繋がっているのと同じに、わしも水を介して繋がっている。だからリジルヘズへ繋ぐ水道にコウを流せるんじゃないかと思うてな。そうすればここを脱出できるだろうと考えた……コウがもっと苦しむことになるかもれん、亡骸さえアスランに残してやれんかもしれん。しかしこのまま何もせずに逝くのを見送るより、幾らかましではないか』
精霊はひとり言のように語る。
水道に流す。
どうもよくわからないけれど、川を下流へと流れるのと同じだろうか。
考えようとした次には、コウは直前に何を考えていたかを忘れてしまう。
『龍がいる生活は楽しかった。歴代の龍たちもここはいい所だと言って喜んでおった。番を伴った者もいたが、一人だった者もいた。龍は長命ゆえ、異種の伴侶であれば見送る運命にある。しかしそれを感じさせないほど仲良くやっておった』
龍が長生きすることはコウも知っている。自分が先に死に、アスランを残すことになるのはわかっていた。
まさかこれほど早いとは思わなかったけれど、その時は近づいている。
精霊の顔が近づき、その唇がコウの唇に触れる。渇いた細胞に水が満ちる。頭痛はおさまらないけれど体が少しだけ楽になる。
『しかし誰もが長居せずここを出て行ってしまう。それほどここは刺激のない面白味のない場所。何もかもが作り物めいて見えるのじゃろう。コウたちはもっと、いてくれると思ったのだがの』
「僕は、ここが好きです……亀様も好きです……アスラン様に会えたら……戻ってきます……」
『コウは健気だの。それでも、もう戻ってこなくてもよい。ここにはお前達がいた足跡がたあんと残されている。木に張ったロープ、花壇の脇に置いてある木の実、アスランが作ったコウの巣。わしはここでお前達の作ったものを守りながら、最後の龍がくるのを待つ』
「龍がいなくなった後、絶滅のあと、亀様は……」
龍以外を受け入れない地ならば、龍がいなくなった後はどうするのか。精霊の命は無限だとコウは思っている。その長い時をひとりで過ごすのだろうか。
『さあの、そんな先のことは、その時に考えればいい。まだこない未来に今から悩まされることもないだろう。長話に付き合わせて悪かった。さあ、準備じゃ。わしが勝手にするからコウは眠っておれい。さて、着替えきがえ……地上で暮らすには金が必要だろう。抽斗にあった物をズボンのポケットに入れておくぞ。飯も必要か……うむ、これでいいかの……』
精霊はバタバタとしはじめ、コウの寝衣を脱がせ着替えさせる。ズボンのポケットに硬貨の袋を入れ部屋から消える。
戻ってきたかと思えば、台所からもってきて保存瓶をコウのシャツをまくってお腹の上に置き、裾をズボンに突っ込んだ。そしてベッドの下に転がっていた靴をしっかり履かせる。
最後に精霊はコウの額に加護のキスをした。どれだけの効力があるか知らないが、少なくとも水分不足で渇いたり、溺死することはないだろう。恐らく。
『そうそう、用心の為にくるんでおくか。龍が作った物なら信用できる』
精霊はコウが包まれてここまでやってきた黄色の布を取り出し、四隅の対角線同士で縛りコウを包んだ。
その頃にはコウの意識は途切れてしまい、自分が何をされているか知る由もない。
精霊は軽々とコウを肩にかつぎ裏の泉へと向かう。
『できるのはここまでだ。無事を祈る。龍を幸せにしてやってくれい』
精霊はコウをゆっくりと泉に沈める。
コウをくるむ布はあっという間に小さな気泡に囲まれ、なにかに操られるみたいにぐるぐると回りはじめた。
そして底のない、深くなるにつれ黒を増す泉に沈んで小さくなっていった。
『コウ、大丈夫か? とは言っても大丈夫なわけがないの。とても大丈夫そうではない死にかけにも、ついそう言ってしまうのぅ』
「だれ……?」
アスランを求めるように手をのばすと、アスランとは違うひんやり冷たい小さな手がコウを包んでからベッドへ戻す。
そっと目を開けるが目の前は霞がかっていている。いつもの天井も白い膜の向こうにあるみたいだ。
そして自分を心配そうに覗きこむのは、女性のように長い髪を腰までのばしている少年だった。
少年だとわかるのは胸が平らで膨らんでいないから、もっと視線を下にすれば男性の象徴が小さいながらもぶらさがっている。
全裸の少年。しかしこの少年は恥ずかしがることもなく堂々としている。
『コウ、わしの声を忘れたか?』
「ああ……わかります亀様、ですよね。でも僕が知る亀様とは、お姿が全く違うのですが」
『亀の姿は仮であると言わなかったか? わしの本当の姿はこれよ。交尾もできぬ蝙蝠のお前に見せるつもりはなかったが、お前とももうお別れだからの。わしの美しさを見せるのは最後の心づくしだ』
「お別れ? 亀様はここを出て、どこかへ、行かれるのですか?」
コウの亀を惜しむ声に精霊は複雑な思いを押し隠し首をふる。
『いくのはわしではなくコウじゃ』
「ぼく……?」
『そうだ、お前が逝くんじゃ。もう、声も出すのも辛いだろう』
「辛いです。いったい、僕は……どうして……このごろ寝込んでばかりで、風邪をひくのは初めてで……」
こんなに辛いものだとは知らなかった。
普段何気なくする瞬きも、息をすることも、意識しないとできない。
吸って吐いて、吸って吐く。深くはできない、浅くだ。
握ったままだったアスランのシャツも、今は手から離れどこにいってしまったのかわからないし、すがっていた物がなくなっていることも忘れてしまっていた。
美しい、らしい亀の顔をはっきり見られないのがちょっと残念だ。
少年から亀様の声がするのはとても奇妙だが、精霊の言うとおりもうコウは声を出すのも辛い。喋ると頭に太い針を撃ち込まれたように痛み、体の節々がギリギリと捻じられているようだ。
『わしも眠っておっての、龍がここを発ったことにしばらく気付かなんだ。あやつが出ていってから今日で七日はたつか。しかしたったの数日でコウがこうなってしまうとは。森は非情だ』
「それって、どういう、意味、ですか?」
『ん。この森は人のように、いい意味での曖昧さがないのだ。自分達に益をもたらす者は歓迎し同じ量それを返す。しかし返さない者には非情。龍は滞った気を循環させるが、蝙蝠はそうではない。コウが苦しんでいるのは風邪のせいではない。そう言うことだ』
立っていた精霊がベッドの脇に腰を降ろす。髪がゆらりとしコウにかかった。
『龍というのは特殊な生き物。活動をやめていたこの森に降り立つだけで、乱暴なほどに地を攪拌させ目覚めさせる。かつてのリジルヘズもそうだった。龍が来たことで、天災が続き地は隆起し断層はずれ、山は火を噴き、空からは稲妻が走り千日も雨や雹を降らした。龍の行く先々は災いばかりだと言うが、その間違いを生まれ変わったリジルヘズが証明した。天災の後のリジルヘズは地形を大きく変えていたと言う』
「……川……水のながれ……」
地図にあったリジルヘズで最も目立っていたのは川だった。
『その通り、水だ。地形がかわり流れが変わった。割れてできた大きな溝は貯水の地となり、砂漠には水が湧く場所もできた。天と地に愛される龍はそこで王となり、今の時まで王朝が続いている』
精霊が断言するのであれば、それは逸話ではなく歴史的にあった事実といえる。
手の甲がひやりとした。そこに亀の手が添えられているのだ。
『許せ。森がコウを嫌っているわけではないのだ。龍のいない森というのはこうして死んだようになって瘴気をためる。龍がいなければここは地上の生物が生きられない死の場所。地上の者はここを神域楽園といってあがめるようだが、本来は死の森よ。どんな小さな命であっても、ここでは生きられん。ここには羽虫さえおらん理由はそこよ』
「僕は、この場所で、もう、死ぬしかないのですか」
『このまま放っておけばそうなるのう。アスランや他の龍が迎えに来るか、コウが死ぬかどちらが早いか。ま、見ればわかる。コウがくたばる方が早いだろう』
精霊は淡々と事実を述べる。だからコウもそれが事実であると受け入れやすかった。
龍がいないこの場所は死の森へと戻っただけ。龍であるアスランやロミーはそれを知らずにいるのだ。
「僕は、ここで、アスラン様をお待ちすると……約束しました。でも、それを守ることができない。それが、辛いです」
『コウが死ねば龍は悲しむだろう。わしは龍が好きだ、だから龍を幸せにするコウが好きだ。そうでなくともコウは好きだ。だからアスランを誘惑した詫びも兼ねて、リジルヘズへコウのその身を送ろうと思うのだ……保障はない。イチかバチかだがの』
「……ここから、出してくれるのですか。アスラン様の元へ、送ってくれるのですか」
細い息をはくように出す声が、自分の身を痛めつける。もうコウの瞼は閉じてしまい精霊を映すために開いてはくれない。
『ああ、喋らんでいい。ぷつんと逝ってしまうぞ。生き延びたいのならばじっとしておれ、生きてアスランに会いたいのだろう』
は、い。
精霊に返事をするようにコウの口が気持ちだけ動く。
『この森の根が世界と繋がっているのと同じに、わしも水を介して繋がっている。だからリジルヘズへ繋ぐ水道にコウを流せるんじゃないかと思うてな。そうすればここを脱出できるだろうと考えた……コウがもっと苦しむことになるかもれん、亡骸さえアスランに残してやれんかもしれん。しかしこのまま何もせずに逝くのを見送るより、幾らかましではないか』
精霊はひとり言のように語る。
水道に流す。
どうもよくわからないけれど、川を下流へと流れるのと同じだろうか。
考えようとした次には、コウは直前に何を考えていたかを忘れてしまう。
『龍がいる生活は楽しかった。歴代の龍たちもここはいい所だと言って喜んでおった。番を伴った者もいたが、一人だった者もいた。龍は長命ゆえ、異種の伴侶であれば見送る運命にある。しかしそれを感じさせないほど仲良くやっておった』
龍が長生きすることはコウも知っている。自分が先に死に、アスランを残すことになるのはわかっていた。
まさかこれほど早いとは思わなかったけれど、その時は近づいている。
精霊の顔が近づき、その唇がコウの唇に触れる。渇いた細胞に水が満ちる。頭痛はおさまらないけれど体が少しだけ楽になる。
『しかし誰もが長居せずここを出て行ってしまう。それほどここは刺激のない面白味のない場所。何もかもが作り物めいて見えるのじゃろう。コウたちはもっと、いてくれると思ったのだがの』
「僕は、ここが好きです……亀様も好きです……アスラン様に会えたら……戻ってきます……」
『コウは健気だの。それでも、もう戻ってこなくてもよい。ここにはお前達がいた足跡がたあんと残されている。木に張ったロープ、花壇の脇に置いてある木の実、アスランが作ったコウの巣。わしはここでお前達の作ったものを守りながら、最後の龍がくるのを待つ』
「龍がいなくなった後、絶滅のあと、亀様は……」
龍以外を受け入れない地ならば、龍がいなくなった後はどうするのか。精霊の命は無限だとコウは思っている。その長い時をひとりで過ごすのだろうか。
『さあの、そんな先のことは、その時に考えればいい。まだこない未来に今から悩まされることもないだろう。長話に付き合わせて悪かった。さあ、準備じゃ。わしが勝手にするからコウは眠っておれい。さて、着替えきがえ……地上で暮らすには金が必要だろう。抽斗にあった物をズボンのポケットに入れておくぞ。飯も必要か……うむ、これでいいかの……』
精霊はバタバタとしはじめ、コウの寝衣を脱がせ着替えさせる。ズボンのポケットに硬貨の袋を入れ部屋から消える。
戻ってきたかと思えば、台所からもってきて保存瓶をコウのシャツをまくってお腹の上に置き、裾をズボンに突っ込んだ。そしてベッドの下に転がっていた靴をしっかり履かせる。
最後に精霊はコウの額に加護のキスをした。どれだけの効力があるか知らないが、少なくとも水分不足で渇いたり、溺死することはないだろう。恐らく。
『そうそう、用心の為にくるんでおくか。龍が作った物なら信用できる』
精霊はコウが包まれてここまでやってきた黄色の布を取り出し、四隅の対角線同士で縛りコウを包んだ。
その頃にはコウの意識は途切れてしまい、自分が何をされているか知る由もない。
精霊は軽々とコウを肩にかつぎ裏の泉へと向かう。
『できるのはここまでだ。無事を祈る。龍を幸せにしてやってくれい』
精霊はコウをゆっくりと泉に沈める。
コウをくるむ布はあっという間に小さな気泡に囲まれ、なにかに操られるみたいにぐるぐると回りはじめた。
そして底のない、深くなるにつれ黒を増す泉に沈んで小さくなっていった。
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