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三章 湯けむり温泉、ぬるぬるおふろ

欠けている部分を補ってくれる何か

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 古今東西の恋物語のロールモデルのひとつ、そして人間が行動を起こす動機の一つが、欠乏と充足だ。
 米国の心理学者・マズローが唱えた欲求階層説というもので、「何かが足りない」という欠乏状況を満たすことが、行動を起こすやる気の源泉になるというもの。

 人間の欲望は五つの階層から成り立っている。お腹がすいたから何か食べたいといった生理的欲求や、生命の危機に晒されることなく安全に暮らしたいという安全欲求など……生きていくために最低限必要な欲求が満たされると、人間は一段階上の欲求を満たすための行動を起こすようになる。


 足りないものを埋める。人間は欠けている部分を補ってくれる何かを常に追い求めている。


 それはプラトンの哲学書『饗宴』における、劇作家・アリストファネスの話。神話の時代、現在の人間二人が一つになった生き物がいた。しかし傲慢さ・尊大さが最高神の怒りに触れて、現在の人間の姿に分断されてしまった。人間は嘆き悲しみ、何とか元の姿に戻ろうと二体が抱き合ったままになり、次々に命を落とす。そこで神は性交渉によって子孫が残せるようにした……というもの。
 人間が恋愛をし、エロスを感じるのは自分にとって本来あるべきものが欠如しているから……そういう理論である。
 

 両思いになった。凛と航は満たされていた。しかし、二人の心の中にはまだ欠けているものがあった。それは幼い時に見た義父のこと、その他色々……そんなお互いに足りないものを埋めるのが綾瀬という存在だった。
 恋愛というものは、個人のエゴと不条理で構成されている。凛はその事を航の愛し方から教えてもらった。そしてこの関係を受け入れてくれた綾瀬の優しさを。
 まだ綾瀬は航の事を友人としか思ってはいないが、揺れ動いている状態。しかし、いずれは三人で相互に愛し合う関係に発展していく……そんな予感を凛は感じ取った。


「くしゅん!」


 さすがに脱衣所の入り口で抱きしめ合ったりキスをしていたから、くしゃみが出た。凛は手で口を押さえて恥ずかしそうに微笑む。航と笑い合う。
 このままでは風邪をひいてしまうので、一旦着替えて髪の毛を乾かしてから部屋に戻った。凛が荷物をクローゼットの中に入れていると、航がそっと耳打ちをしてきた。


「もうすぐ臨が戻ってくるから……二人で着替えて驚かせようか?」
「着替え?」
「そう……どうせならと思って、お兄ちゃんはえっちな服を持ってきたんだ……一緒に着ようよ」


 航がいたずらっぽく子どものように笑う時は大抵ろくでもない時だ。凛も重々分かっている。でも、話に乗った。航が持ってきた服を見て、目を丸くして……凛は頬を染めて笑った。

 
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