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フレンチでリッチな夜でした

その14

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 手にした本から顔を上げて、百目鬼誠二郎は窓の方を億劫そうに見遣った。
「るっせーなぁ。何騒いでんだぁ、外?」
 パードリーのコミュニティセンター、その三階に設けられた図書室での事である。
 窓辺の席の一つに腰を下ろし、百目鬼は地域の歴史について記されたハードカバーの書物を読んでいたのだが、外より届くいくつかの声へと怪訝な顔を向けたのであった。
 同じく、斜交いの席で過去の新聞に目を通していたリウドルフも、むっくりと顔を上げる。
 外は今日も晴れて、穏やかな昼下がりが辺りに訪れている筈であった。
 とは言え、コミューンは依然として憂慮すべき事態の只中に置かれている。
 昨日また新たな犠牲者が出た村のたたえる雰囲気を象徴するかのようにコミュニティセンター内もひっそりとしており、図書室内にも二人の異邦人の他に人影は無かった。村に駐在する警官達の臨時の詰め所ともなっている今、レクリエーションを目的にこの施設を利用しようと思う住民もいないのだろう。そもそも、日中であっても不要の外出は控えるようにとの指示が村全体に行き届いている筈である。
 ややあって百目鬼とリウドルフは銘々に腰を上げ、窓から外の様子を見下ろした。
 村の中心付近に建つコミュニティセンターより少し西へ向かった所、宅地の一角で何やら人だかりが出来ていた。何処かの民家の玄関先に制服姿の警官達が集まっている。
「九人目の犠牲者が出た……と言うのとは、ちょっと雰囲気が違うようだが……」
 窓辺から下方を望んだリウドルフが怪訝な面持ちを浮かべた。
 その横で百目鬼も小首を傾げる。
「容疑者が捕まった、てのとも少ーし違うみてえだな。警官が始終パトロールしてんのに空き巣が入ったってんでもあんめえに」
 二人が見下ろす先で、街角に生じた人垣は徐々に拡大を続けているようだった。
 そうして百目鬼とリウドルフが現場に足を運んだ頃には、警官と近所の住民、合わせて二十人程がくだんの家の前に人垣を作っていた。
 隣接する民家より若干新しい作りの家屋を、リウドルフは人の列の向こうから見遣る。家の玄関口では、恐らくは家主であろう若い男が数人の警官へと何事かを懸命に訴えている最中であった。
「……何だろ?」
 百目鬼が口髭を直しつつ呟いた。
 隣で辺りを眺めていたリウドルフの目が、その時細められる。
 新たに玄関口に進み出たのは、彼も見知った二人組であった。リウドルフに若干遅れてロデーズから戻ったのであろうシモーヌ・クローデルが、部下であるウジェーヌ・ルソーを連れて家主の青年と何やら話し合っている。
 一連の様子を認めたリウドルフは緩やかに鼻息をついた。
 彼の見つめる先で、若い私服警官が少し大袈裟に両手を掲げて見せた。
「まあまあ落ち着いて下さい。もうじき救急車も着くでしょうから」
「ですが妻は今も具合が悪そうで……」
 民家の戸口にて、ウジェーヌがやや錯乱気味に訴える家主をなだめすかしている最中であった。
 と、そこへ、人垣を分けて近付いて来る二つの人影が彼の視界に入る。
「やあやあ、刑事さん。毎度どーもぉ」
 場違いな程に陽気な声を遣しながらこちらへと歩いて来る百目鬼を認めるなり、ウジェーヌは左右の眉に段差を付けた。
「あんたら、また来たのか!」
 呆れ半分苛立ち半分の声を上げた若手警官の前で、百目鬼とリウドルフは足を止めた。
「何か起きたんですか?」
 至って平然と訊ねたリウドルフへ、ウジェーヌのかたわらに立つシモーヌが鋭い眼差しを向ける。
「何故我々にわざわざ訊ねるのです? 本来国籍も違うあなた方へお答えする義務もこちらにはありませんが、先生le médecin
 素気無く答えてすぐ、シモーヌはふと顎先に手を当てた。
「……そうか、そちらは『医者』だったな……」
 独りつ彼女の前で、百目鬼がやはり陽気に答える。
「こりゃまた釣れない事を仰いますなぁ。隣のは兎も角、あっしはこの国とは所縁ゆかりが御座いますぜ。ええ、母方の祖母ばあちゃんがこっちの出身だもんで」
「へえ、そうなんですか……」
 ウジェーヌが胡散臭そうに百目鬼を見遣った横で、シモーヌが顔を上げた。
「……いえ、先程こちらのお宅の奥さんが産気付いたんだそうです」
 説明を遣しながら、シモーヌは後ろの民家をちらと垣間見た。
 それに合わせてリウドルフも面前に建つ家を改めて仰いだ。
「急に破水が始まったそうでしてね。勿論もちろん救急病院には連絡を付けてはいるのですが、あちらはあちらで忙しいのか都合が中々付かなくて。それでこちらの御主人が気を揉んで、村にある警察車両でロデーズまで搬送してくれないかと訴えている次第でね」
成程なるほど。中々に厄介な状況であるようですね」
 シモーヌの説明にリウドルフもうなずいた。
 そんな相手へと壮年の女性警官は冷ややかな眼差しを据える。
「そうですね。こちらとしても対応に苦慮している所です。あなたも医術の心得がお有りなら、一つ医学的見地とやらからこちらの旦那さんを落ち着かせてはくれませんかね? わざわざ首を突っ込む程の興味をお持ちなら」
 いささか以上の皮肉が篭められた提案を、だがリウドルフは至って平然と了承する。
「判りました。では、まずはその奥さんの容体から聞かせて貰いましょうか。妊娠期間は何週目に入った所ですか? 陣痛の有無は? 事前に何か薬を服用していましたか?」
「えっ? いや、自分は詳しい所は……」
 二つ返事であっさりと承諾した上、すいすいと質問を遣すリウドルフの態度に、ウジェーヌはにわかに狼狽した声を上げ、隣に立つシモーヌも咄嗟とっさに言葉を失ったようであった。
 代わりに、一同の横に立った青年が見ず知らずの外国人へとすがるような眼差しを送った。
「妊娠は現在三十六週目に入っています。妻は出来る限りここで仕事を続けたかったので、色々と物騒な中で何なんですが、それでも来週には入院する予定で……」
 栗色の癖毛を眉の辺りまで伸ばした優しげな風貌の青年は、未だ周章狼狽の色を落とせぬものの、隣にたたずむ痩せこけた男へと懸命に説明を続ける。
「二十分ぐらい前に急に破水が起こって、ええ、前触れも無しに……今は長椅子に横になって貰ってて……ええっと、持病は特に無いので薬は何も飲んでいません」
 リウドルフは幾度いくどか小さくうなずいた。
「でしたら前期破水でしょうな。まれに起こる事態だが異常と言う程でもない。それに三十六週まで達しているなら、そこまで大騒ぎしなくても大丈夫でしょう。この後普通に陣痛が来るかも知れない。ええと、ムッシュ……」
「ジョエルです。ジョエル・アルヌー。妻はフランソワーズと言います」
 名乗った青年へ、リウドルフも一礼する。
「これはどうも御丁寧に、ムッシュ・アルヌー。わたくし、リウドルフ・クリスタラーと申します。漂泊の詩人ならぬ流浪の医者で……まあ、そこはどうでもいいか……では、奥様の容体を確認させて下さい」
「はい、どうぞこちらへ」
 すっかり恐縮したていで、ジョエルはリウドルフを家の中へと案内する。
 逆に慌てふためいたのは二人の私服警官の方であり、分けてもシモーヌは相手の肩を掴んでほとんど喧嘩腰になって引き止める。
「待ちなさい! こちらは何も直接の治療行為を要請した訳では……!」
「ですが、他に医者も居合わせていないんでしょう? そこへ救急車も到着しないのでは、いよいよどうしようもないじゃありませんか」
 平然と切り返したリウドルフへ、シモーヌが尚も食い下る。
「しかし、あなたは外科医だと先程……」
「いや御心配無く。アレッポにいた頃には樽爆弾の降りしきる中で分娩を行なった事もありましたから。過去に幾度いくどか身内の出産にも立ち会っていますので、それなりに場慣れもしている積もりですが」
 実にあっさりと言ってのけると、リウドルフはそのまま民家の敷居をくぐった。
 呆気に取られたシモーヌの前を横切って、百目鬼が後に続く。
「よぉよぉ、俺も何か手伝った方がいいかよ?」
「猫の手も、って奴かな。取りえず産湯の用意をして貰おうか。感染症の危険を考えれば、多少強引でも産める時に産んだ方が良い。ああ、それと救急サミュを断っといてくれ。金が勿体もったい無いからな」
「へいへい。何だか初孫が出来た時の事思い出すなぁ」
 まるで週明けに発売される漫画雑誌を週末に売り出している店へ向かおうとする子供のように嬉々とした足取りで、百目鬼はリウドルフの後を追った。
 そうして二人の異邦人は全くのマイペースで、相次いで民家の奥へと姿を消して行ったのであった。
 後には遣り場の無い憤慨を面皮全体からあふれ出させたシモーヌと、只々茫然自失の相を晒すウジェーヌが残された。周囲の制服姿の警官達も、事態の思わぬ推移に困惑の色をそれぞれ覗かせている。
 はっきりと状況の伝わらぬ観衆の間では、さざなみのようなざわめきが尚も生じ続けた。
 ポストの脇に置かれた鉢植えのサボテンが、夏の日差しに鮮やかな緑を送り返していた。
 蝉の声が淡々と人々の頭上から鳴り響いた。
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