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フレンチでリッチな夜でした

その13

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 そもそもの淵源は、更に五年程の月日をさかのぼった所に存在した。
 その日、診療所を閉めたリウドルフは、窓から差し込む西日と共に遣された言葉にぎこちなく首を巡らせたのだった。
「……何?」
 フランス西部、炭田地帯の一画での事である。
「今何と言った……?」
 主が驚いたとも呆れたとも付かぬ顔を向けて来た先で、アレグラは背筋を伸ばして返答する。
「大学へ通いたいと申し上げたのですが」
 数秒の緘黙かんもくが、たたずむ両者の間に差し挟まれた。
 茜色の光が差し込む診察室に今にも軋み出しそうな沈黙が堆積たいせきしてしばらく、リウドルフは目の前に尚もたたずむ赤毛の女へと問い掛ける。
「……大学ってお前、今更そんな所へ足を運んでどうする積もりだ?」
「無論、知識を得た上で見識を広げようと」
「どっちもすでに充分過ぎる程備わっているだろうが。他でもないこの俺が溜め込んだ知識は、全てお前に注ぎ込んであるんだ。今更そこらの教授連中の話なぞに耳を貸した所で、新たに何が得られるものか」
 食膳にたかる蝿を追い払うように、リウドルフは素気無く一蹴した。
 しかし、アレグラは姿勢も変えずに訴え続ける。
「ですから、そこにどれだけの差異があるのかを、この目と耳で確かめてみたいと思ったのです」
 リウドルフは相手の硬質の面皮へ渋面を返した。
「あのな、学ぶ事自体が無駄な行為だとは思わんが、別にそんな面倒な真似をせんでも知識の更新なぞいくらでも可能だろうが。あちこちの土地を巡りながら種々の書物にも目を通しているのだし、えて閉鎖的な環境に飛び込む必要もあるまいが」
「しかし、大学は大陸中の英知が集まる場であるとも聞き及びますが」
 先程から徐々に厭悪えんおの情を覗かせ始めた相手へと、アレグラはいささいぶかりながらも食い下がった。
 その彼女の面前で、リウドルフは頬を露骨に引きらせながら言い捨てる。
「何が『知の殿堂』であるものかよ、あんな所! 頭の固い教授連中が自分の経歴を絶えずひけらかしては、やれ『同期の連中は判ってない』だの、『あすこの学派は認識が甘い』だの、『その程度の学識で専門家を称するなど笑止千万』だの、『そこへ行くとうちの「師匠」は時代の先を常に見据えて素晴らしかった』だの、正に愚にも付かん自慢話を延々諄々くどくど垂れ流すだけの俗悪極まる場所だ! それぞれが自分の待遇をより良くする為に少しでもでかいツラを周囲へ晒したいのか、本業など二の次で派閥抗争と宣伝合戦に明け暮れている! そんな中で過ごせた有意義な時間など、在籍していた期間の十分の一にも満たなかったわ!」
 過去に余程嫌な思いをしたのか、一度は大学に籍を置いた事もある医学者は、いつになく険悪かつ執念深い様子で言い募った。
 一方のアレグラは多少の同情は寄せつつも、呆れ半分に感心していたのであった。
 よくも他人事のように言い切れるものだな。
 複数の感慨を胸中に流した後、彼女は努めて淡白に言う。
「ならば尚の事、市井の『教育』の実態と言うものにも興味が湧いて来ます」
 リウドルフは押し殺した声で、今や唯一の弟子でもある分身へと問う。
「……そこまでして一体何を学びたい?」
「天文についてを詳細に」
 短くも真摯な口調でアレグラは回答を遣した。
 リウドルフが眉間を歪めた。
 窓の外から巣に戻る烏の鳴き声が聞こえて来る。
 夕時の光に引き伸ばされた影法師が、石壁に小芥子こけしのように並び立った。
 やがての末にリウドルフは実に億劫そうに口を開く。
「……女は大学に入れんのは知ってるな?」
「はい。だからこそ余計に興味を惹かれましたので」
「それで、何か適当な身分を用意してくれ、と」
「はい。後は何とでも誤魔化しが利きますから」
 会話の初めから姿勢を一切変えず、アレグラはうなずいた。
 更に数秒の沈黙を挟んだ末、リウドルフは首を横に振る。
「……誰かの気紛れも許さぬ程、俺は厳格もなければ傲慢でもない。たかが数年をドブに捨てようが、二百年も過ぎた今では大した問題でもないか。後悔を抱えるのも退屈を持て余すのも全てお前の自由だ。精々好きにするがいい」
 愛想の欠片も無い物言いであったが、不承不承であれ主の承認が下りた時、彼女はほのかな微笑を浮かべていたのであった。
 暮れなずむ西日が何処か無責任に光を送る。
 とある春の日の、それは夕暮れ時の事であった。

 そして今、アレグラは己の足元へ投げて遣された小剣スモールソードを拾い上げた。
 鍔、ナックルガード、柄頭共に至って簡素な作りの、市井に有り触れた安物の剣である。刃は細長い先細りの形を取っており、柄の重みと相まって手首だけで軽々と旋回させる事が可能であった。
「ほう、腹ァ括ったってか? 澄ましヅラして膝が震えてんじゃねえのかよ、優男?」
 向かい立つベルナールが口の端に牙を覗かせて嘲笑う。周囲を囲う取り巻きの学生達も、合わせて囃し立てるように奇声交じりの哄笑を上げた。
 居酒屋の前に伸びる通りには、すでに多くの観衆が輪を作っていた。半ば以上が同じ大学に通う学生仲間であり、アレグラにとっても見知った顔立ちである。
 そして彼女の真向かいに立つ若者、ベルナール・ド・カミュは、学生間でも特に評判の悪い素行不良者であった。
 実家は貴族の家柄であると言う。
 幼少のみぎりより武芸を叩き込まれる事情もあってか、学生の中でも取り分け体格の良い、偉丈夫と呼んで差し支えない外見の持ち主である。
 ただし、容貌魁偉かいいにして持ち前の気性は荒く、喧嘩や決闘を繰り返しては頻繁に騒ぎを巻き起こす悪癖を彼は有していた。蛮行を止められる者も諫められる者も周囲にはおらず、同じく素行の悪い学生達をいつしか束ね、さながら群盗のような集団を形成して表通りを闊歩かっぽする。
 暴風のような奴儕やつばらなどと揶揄される、剣呑な集団の頭目。
 それが学生の間で知られる、ベルナールと言う男の横顔であった。
 そうした手合いが、いつ何が直接の原因となって、こちらに目を付ける運びとなったかは定かではない。素性と性別を偽って入学して以降、自分は常に目立たぬよう振る舞って来た積もりであるのに。
 『彼女』が面前に剣を掲げると、自身の端正な面立ちが白刃に映り込んだ。
 もっともその『目立たぬ』振舞いと言うのが、かえって衆目を惹く結果に繋がってしまうのは、人の輪の中にいてはしばしば起こり得る事態である。中性的な面立ちの男が一人、学生同士の交遊に熱心に加わるでもなく、かと言って他者を頑なに拒絶するのでもなく、少し距離を置いた場所から辺りを俯瞰ふかんするような態度を取っていれば、知らぬ内に陰で注目を集めてしまうものなのかも知れない。
 自分の場合は更に、『同性おんなたち』を惹き付け過ぎた事が問題の一因でもあるのだろう。
 アレグラは額に垂れ掛かった前髪を手首で軽く払いつつ、いささか物憂げな表情をたたえる。
 同性にとって、こちらの容姿とはそこまで魅力的に映るものなのだろうか。
 大学周辺の街並みを仲間と闊歩かっぽする中で、町娘達が熱の篭った眼差しを寄せて来る場面にこれまでに幾度いくどと無く遭遇したし、宿舎の戸口に密かに置かれた恋文の数など五十から先はもう憶えていない。
 つくづく難儀な話であるが、とは言えそれで羽目を外した憶えも無い。
 男女を問わず、身の回りの人間とは特に親しい付き合いを交わした事も無ければ、反感を買うような振舞いを応酬した事も無かった。
 全てはほんの一瞬の光芒であるからだ。
『自分はいずれこの地を去らねばならぬ身の上なのです』
『淡い期待を抱くのはお止しなさい』
『せめて貴女あなたは御身を大切に』
 それでも尚言い寄って来た女達には、その都度丁寧に対応して来た。
 『狂言』ではあるが『虚言』ではない。
 所詮こちらは浮世をただ通り過ぎるだけの『影法師』に過ぎないのだから。
 しかるに周りはそのようには捉えなかったらしい。
 あるいはこちらに熱を上げた女性の中に、不良学生が一方的に絡んでいた者もあったのかも知れぬ。
 とまれ、気が付いた時には『彼女』は素行の悪い学生連中から随分と疎まれ憎まれ、そして今、道端で決闘を押し付けられるまでに忌み嫌われてしまったのであった。
 彼らからすれば、飄々ひょうひょうはすに構えた素振りを一々見せ付ける目障りな伊達男とでも映っているのだろうか。自分としては飽くまで一般人の振りを続け、ただ利口に振る舞って来ただけの積もりなのだが、いつの間にやら目の上のたんこぶ、不俱戴天の仇と化してしまったらしい。
 手元で陽光を眩く反射させる白刃へ眼差しを寄せつつ、アレグラは鼻息をついた。
 智に働けば角が立つ。
 兎角に人の世は住み難い。
 取り留めの無い感慨を脳裏に過らせた『彼女』の前で、ベルナールは大袈裟なまでに剣を振って見せると、険しい眼差しをその『目障りな伊達男』へと注いだのだった。
「まずはてめえがを上げるまでだ。みっともなく喚き散らす前に死んじまうかも知れねえからよ、精々気を付けな、『種馬野郎u n   é t a l o n』」
 取り巻きの不良学生を後ろに置いて、尚もしつこく挑発を遣すベルナールへと、その時アレグラは冷ややかな目をおもむろに向けた。
「……言う事はそれだけか?」
「ああ?」
「遠吠えは聞き飽きた! さっさと掛かって来い!」
 凛とした一喝が場の空気を打ち付けた。
 おおっ、と言う驚嘆のざわめきが遅れて周囲から放たれる。
面白おもしれぇ……!」
 歯噛みするなりベルナールは猛然と駆け出した。
「後悔すんなよ、この野郎ッ!」
 剣を正眼に構え、アレグラはそれを迎え撃つ。
 白刃のぶつかり合う甲高い音が日差しきらめく通りに鳴り響いた。
 胸元から肩の辺りを切り裂くようにして突き出された一撃をアレグラの剣が寸前で受け流し、足元へと切っ先を逸らして行く。そしてそのまま相手の体勢も崩すべく、彼女は手首をひるがえしながら偉丈夫の広い肩を掴みに掛かる。
 だが対するベルナールも敵の狙いに即座に気付き、腰を大きく引いて剣を急ぎ引き戻した。そこに生じたわずかな間隙を突いてアレグラの繰り出した刺突が、上体を咄嗟とっさかしいだベルナールの肩口を一瞬遅れて掠めたのだった。
 急所こそ逸らしてはいるが迷いを微塵も含まぬ鋭い一撃を目の当たりにして、ベルナールは顔を大きく歪ませる。
 一方のアレグラは決闘開始直後から表情を全く変化させず、峻険な山脈の頂を覆う万年雪の如き冷たくも澄んだ眼光を標的にぴたりと据えていた。
 あるいは、それはつるぎそのものの輝きであったやも知れぬ。
 そして剣戟の奏でる音が路地の一角に再び鳴り響く。
 たてがみのような金髪を振るわせる、屈強な男。
 炎のような赤毛を揺るがせもしない、男装の麗人。
 対照的な体格を持つ二人による決闘は序盤から予期せぬ展開を呈し、それを目の当たりにした野次馬達は驚嘆と共に、何処か健やかですらある歓声を誰ともなく上げ始めた。当初は面罵や愚弄の声を上げていたベルナールの取り巻き達も目の前で繰り広げられる目まぐるしい攻防にすっかり気を呑まれてしまい、驚愕と狼狽とをそれぞれの面皮にだらしなく乗せて言葉も無く目の前の事態を見守っていた。
 火花さえ撒き散らさんばかりの勢いで刃と刃が噛み付き合う。
 全く異質な一対の剣技が息つく間も無く交錯する。
 それらは決して『柔』と『剛』によるものではない。
 空気を引き裂き、砂塵を巻き上げて振るわれるベルナールの剣は主として『音』によって成り立ち、刹那の光芒を宙に刻んで繰り出されるアレグラの剣は即ち『光』によって構成されていた。
 『光』と『音』。
 それら二種を従わせた技の数々が路地の一角に展開されていたのだった。
 二十合を超えて尚続く刺突の応酬には、だが一つの道筋が次第に見え始めた。
 それまではおおむね一対一であった攻防の比率が、徐々にではあるが移ろい始めたのである。
 二対一、あるいは三対一にも達するであろうか。
 段々としかし確実に、ベルナールが守勢に回る時間が増え始めたのであった。
 その事実を他ならぬ彼自身も悟っているのであろう。褐色の偉丈夫は焦りの色を表情に濃く乗せるようなっていた。
 対するアレグラは冷厳ですらある澄んだ面持ちを一切変えず、揺るぎの無い突きを相次いで見舞う。たとえ小魚を相手にしても容赦を微塵も覗かせぬ、大洋を自在に泳ぎ回る旗魚カジキの狩りのような攻撃であった。
 鎖骨の辺りを狙って繰り出された刺突を、ベルナールが剣をかざして咄嗟とっさに弾き返そうとする。しかるにその際に手元の反応がわずかに遅れ、アレグラの繰り出した一撃はついにベルナールの頬を浅く掠めたのであった。
 観衆が一際大きなざわめきを発した。
 肩を激しく上下させ、右の頬から血を流したベルナールをアレグラは小動こゆるぎもしない鋭い眼差しを以って捉えた。
 依然として剣を正眼に構えつつ、アレグラは追い詰められた相手へと促す。
「……どうする? 続けるか、負けを認めるか……」
 直後、ベルナールは目を大きく見開いた。
 怯え、怖れ、そして憤り。
 行き詰ってあふれた感情が、水面に浮かぶ油膜のように彼の瞳に立ち昇る。
 くぐもった唸り声が青年の口元からあふれ出していた。
 正に追い込まれた獣さながらの眼光と勢いでベルナールは石畳を蹴ると、目の前に厳然とそびえ立つ敵へと詰め寄る。獣性みなぎる勢いに付随して、剣の鋭い切っ先が猛然と突き出された。
 狙いは一点。
 ただ一点。
 相手の体の中央、紛れも無い急所の位置を狙って、白刃は真っ直ぐに空気を切り裂いた。
 刹那、アレグラもまた両眼を見開くと、自身の心臓目掛けて迫る刃へ真っ直ぐに剣を突き出したのであった。
 耳障りですらある甲高い音が路地に木霊した。
 辺りから人の声が数瞬だけ途切れた。
 誰も彼もが、その最中に言葉を失っていた。
 そして沈黙と静寂の中で宙を舞った一振りの剣が、石畳にね返って乾いた音を立てた。
「うっ……!」
 同時に、路面に転倒したベルナールが苦しげな呻きを短く漏らした。
 そこで初めて、周りを囲う観衆から驚嘆の声が漏れ出した。
 居合わせた人々の羨望すらにじませた感嘆の眼差しの中で、アレグラはゆっくりと振り返った。
 自身の急所に刃が突き込まれる瞬間、彼女は剣をひるがえして相手の武器を絡め取ると頭上へと一息に跳ね上げたのであった。同時に、猛然と突進して来たベルナールの横手を擦り抜けつつ相手に足を引っ掛けて体勢を崩す。更には、完全に無防備となった彼の背中へ柄頭つかがしらによる一撃をしたたかに打ち込んだのである。
 そこまでの動作を正に一呼吸の内に成し遂げ、そして今『彼女』は地に倒れ伏した男へと体を向け直したのだった。
 転倒した際に胸を強打したか、ベルナールは顔を歪ませて、すぐに立ち上がるような素振りは覗かせなかった。
 そんな相手の鼻先へとアレグラは剣先を突き付ける。
「勝負あったな」
 顔中に種々の汗を浮かべたベルナールは、何を言い返す事もしなかった。
 地べたに無様に倒れ伏した男は、眼前に毅然と立つ『相手』をただ見上げただけである。
 鮮やかな赤毛を短くまとめたその者は、揺らぐ事無く自らの前に立っていた。遥か頭上に燦然と輝く日輪を頂き、そこからほとばしる光と同じ透き通った強い眼差しを今もこちらへと注ぎながら。
 言葉も無く、力無くこちらを見上げる男から『彼女』もやがて視線を外した。
「まだ不服があるのなら、またいつでも来るがいい」
 それだけを言い残すとアレグラは未だ倒れ伏したベルナールへと背を向け、石畳を歩き始めたのだった。
 『彼女』が去り際に路上へと無造作に投げ捨てた剣の転がる音が、その背を半ば呆然と見送るベルナールの耳の奥に反響した。
 酒場に集まっていた学生を始めとした野次馬達が歓呼の声を放ち、横では不良学生の一団が倒れた頭目へとそそくさと駆け寄る。
 肩を担いで引き起こされたベルナールは、次第に遠ざかる赤毛の麗人の後姿をじっと見送っていた。
 さながら、大海原を悠然と遠ざかる巨鯨の背でも望むかのように。
 大いなる力に対する畏怖と共に、それとは別の感情を瞳の奥にかすかにきらめかせて、彼はその者の背をじっと見つめ続けたのであった。
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