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渚のリッチな夜でした
その22
しおりを挟むそれからおよそ三十分後、民宿の座敷にはリウドルフとアレグラの二名のみが残された。
美香は宛がわれた部屋へと向かい、司はふらりと姿を消し、佳奈恵もまた諸々の支度の為に廊下の奥へと戻って行った。
座敷にはただ二名の先客が残され、彼らの為に置かれた湯吞が音も無く湯気を立て続けた。
蝉の声の間を縫うようにしてリウドルフが苦々しげに呟く。
「こんな事なら、課題の量を十倍に増やしておくんだった……」
その隣でノートパソコンを開いてゲームに興じていたアレグラは、画面を見据える眼差しはそのままに徐に口を開く。
「ま、付いて来ちゃったもんはしょうがないんじゃな~い? 夏休みの最中なら尚更にね~」
「他人事と思って随分と気安く言うもんだな。一度しかない人生を浪費させている、お前もその片棒を担いでいると言うのに」
珍しく陰を帯びた言葉を発して、リウドルフは傍らの身内を睥睨した。
他方、果てし無い道行を共にして来たもう一方の不死者は、飽くまでも冷めた口調で指摘する。
「それこそ個人の自由と権利ってもんでしょ。大体そっちだって、向こうの気持ちに気付いてない訳でもないでしょうに」
アレグラの言葉を、だがリウドルフはすかさず一笑に付した。
「だったら何だ? 気付いたからどうしろと言うんだ? 向こうは『生者』でこっちは『死人』、歳の差以上にどうしようもない『隔たり』が既に広がっているだろうが。臍の下も捥げて久しいってのに、気持ちがどうこうで何がどうなるものでもあるまい」
自嘲気味に言葉を吐いた相手を、赤毛の女は目尻からちらと一瞥した。
然る後、彼女は鼻から深く息を吸い込み、徐に口を押し開いたのだった。
「ですが、貴方はいつか研究を進めていたではありませんか。人の身に戻る術を」
アレグラはそこで急に口調を改め、パソコンの画面から目を離して傍らの主をじっと見つめた。
「『変化の術』とは違う、謂わば『転生の術』ですが、私の見立て違いでなければ術式自体は八割方完成していた筈です。何故、研究を途中で打ち切ったのかまでは存じませんが」
口調こそ穏やかではあったが、底に硬いものを終始含ませた言葉であった。その双眸から放たれる眼光もまた冷たく鋭く、取りも直さず真摯であった。
「臍の下云々は別にしても普通の関係を築く事など然して難しい話でもないでしょうに、どうして中途半端な立ち位置にいつまでも留まり続けようとするのです?」
傍らから肘鉄を見舞われたように問われたリウドルフは、寝起きのような不機嫌な面持ちをただ湛えるのみであった。
それでも少ししてから、彼は気勢に欠ける声で答える。
「……お前本来の『役目』に係わる事だ。『扉』をわざわざ柔にしてどうする?」
「ですが、少なくとも一通りの機能が備わった当たり前の肉体を錬成する事自体は可能なのでしょう? 私に施したのと同じように」
再度問い詰められ、リウドルフは今度こそ押し黙った。
蝉の声だけが間を満たして数秒後、彼は目を逸らして口を開く。
「……誰も好んでリスクを背負い込むような真似はしない。ただそれだけの事だ」
誰よりも当人が得心しかねている様子の、苦々しい物言いであった。
そんな相手の様子を横から見遣って、アレグラは鼻息をついた。
と同時に、彼女はかつて起きた或る出来事を回想する。
まだ引き摺っているのか。
彼是四百年も経つと言うのに。
アレグラが静かに見遣る先でリウドルフは座卓に頬杖を付いて、縁側の方へと目を向けていた。遠景の更に遠くに望める追憶の景色を、この時彼は振り返っていたのであった。
『まあ! こんな稀覯本を私に下さるんですか?』
明るく弾んだ、春の日溜りを舞う蝶のような声が不意に彼の脳裏に蘇った。
同時に、その双眸の奥に抑え切れない無数の光が交錯する。
……そう驚く程の代物でもないさ。だが君も魔術師を目指すと言うなら、取り敢えずこれぐらいの書物には目を通しておいた方がいい。
『有難う御座います! 大切にしますから!』
座卓に頬杖を付いたリウドルフの顎の下で、湯吞に注がれた番茶が白い湯気を上げていた。
リウドルフは今は空となった斜交いの席を見て、僅かに眉根を寄せた。
……似ている?
いや、まさかな……
そして彼は口元を固く結んだのであった。
押し黙った座卓の二人を囃し立てるように、外から届く蝉時雨は勢いを増して行った。
外の日差しは、既に西へと傾き始めていた。
それから更に三十分程が過ぎた頃、美香は宛がわれた自室から下りて来た。
階段を下りた先に伸びる廊下へ出た少女の右手から、水を流す音が聞こえて来た。何の気無しに水音の方へと顔を覗かせた美香は、階段の横手にある風呂場で佳奈恵が浴室の清掃を行なっている様子を目にしたのであった。
浴室自体は一般家庭のそれと大差の無い広さであった。蛇口を開いてタイル張りの床をデッキブラシで磨いている女将の姿を、美香は扉の陰から見つめた。
浴室の灯り自体は落とされていたが、開け放たれた窓から届く日の光によって充分な明るさは確保されていた。転寝をするのに丁度良さそうな明度の下で、佳奈恵はせっせと体を動かし続ける。
程無くして、美香の眼差しに気付いてか否か、佳奈恵はデッキブラシを動かす手を止めて顔をやおら上げた。
「あ、どうも……」
咄嗟に目を逸らしながらも会釈する美香を認めて、佳奈恵は口元を綻ばせる。
「シャワーを使いたいのならもう少し待ってて下さいね。外は暑いから自然と汗もかくでしょう」
「ええ、まあ……」
些か余所余所しく答えた後、美香は脱衣所の境に立って浴室の掃除を再開した佳奈恵を見遣った。当然と言えば当然であろうが、年若く見えても女将の動作には無駄が無かった。デッキブラシを動かす姿勢やふとした力加減を見ても、一連の作業に相当な慣れが出来ている事を美香はすぐに察したのであった。
それと同時に、美香の胸中には一つの疑問が湧いて出る。少し前、友人達とこの宿に招かれた時に抱いたものと同じ疑問が。
「……その、大変じゃありませんか? そうして一人で宿を切り盛りしてるのも?」
戸口から美香の遣した言葉に、佳奈恵は床の方へ視線を据えたまま答える。
「大変と言えば大変だけれども、うちは閑古鳥が鳴いている時の方が多いから……」
特段慌てるでもなくデッキブラシを動かしつつ、佳奈恵は言葉を続ける。
「威張れる事ではないけれども、お客様がいらっしゃる事なんて滅多に無いし、近頃では隣町のホテルに働きに出る事の方が多いぐらいで……まあ珍しいかも知れませんね、こういう女将も」
「いえ……」
言われて、美香も臨海学校初日の夜の事を思い出した。
これで中々活動的な人なのかな、と美香が思った矢先、佳奈恵はデッキブラシを再び止めると離れて佇む少女へと首を巡らせたのだった。
「けれど、失礼な言い方になりますけど、私からすれば、あなたぐらいの歳の人がわざわざここまで遣って来る事の方が余程珍しいんですよ。初めての事かも知れない」
「ああ、それは勢いって言うか……」
俄かに言葉を濁した美香を、佳奈恵は面白そうに見つめた。
「あの痩せてる方の男の先生を追い掛けて来たの?」
「それは……」
さり気無くも核心を的確に突いた問い掛けであった。
目を逸らして、今度こそ美香は返答に詰まってしまった。別にここで首を縦に振って見せた所で何の損失にも繋がらない事が判っていながら、それでも尚、美香は返答するに躊躇を覗かせたのであった。
別にこの人にまで隠しておく事でもないのに。
そう思いながら、美香は相手の顔をしっかりと見る事も出来なかった。
そんな少女の様子を、それなりの歳を経た先達は柔らかに見つめる。何処か懐かしそうに、或いは羨ましそうに佳奈恵は恥じらう美香を眺めていた。
雲が太陽に掛かったのか、窓の外の光がふと量を減じた。浴室の中もまた陰が音も無く塗り重ねられる。
ややあって佳奈恵はまたデッキブラシを動かし始めた。顔は床へと向けたまま、彼女は穏やかに言葉を紡ぐ。
「そんなに恥ずかしがる事はない。そうして一途に誰かの背中を追い掛けられるって、きっと素晴らしい事よ。ええ、きっと……」
水音の続く中、佳奈恵は足元だけを見て掃除を続けた。
美香は言い知れぬ引け目を覚えて、そんな相手の様子を所在無さそうに見つめていた。
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