上 下
79 / 183
渚のリッチな夜でした

その21

しおりを挟む
「……それで」
 座布団に腰を落ち着かせたまま、リウドルフは実に忌々しげに目元を震わせた。
「結局こうなるのか……!」
 唸るようにぼやいた彼の向かいには、美香と司の二人が同じく畳に敷かれた座布団に腰を下ろしていた。
 縁側の方から蝉の声が座敷に伝わって来る。
 最初に訪れた時と同じ十畳程の座敷には中央に座卓が置かれ、そこを四人の来客が囲っていた。上座に位置する場所では、リウドルフが仏頂面で腕組みをする隣でアレグラが持ち込んだノートパソコンでゲームに興じており、下座に当たる場所では、美香が所在無さそうに目を逸らす横で司がにこやかに微笑みを保ち続ける。
 縁側の窓ガラスを透過してかすかに伝わる潮騒が、一同の間に漂う沈黙を際立たせた。
 それでもやがての末に、司が微笑を収めて口を開く。
「まあ仰りたい事も色々とおありでしょうが、これも一つの巡り合わせと思って諦めて下さい」
 言いながら彼は卓上に置かれた湯吞を取ると、そこに注がれた番茶を一口すすった。
「……それに、遠出をなさるのなら事前に一声掛けて頂きたかったですね。半日程度のずれで追い付けたのは僥倖ぎょうこうですが」
「何を母親みたいな事を言っている……」
 リウドルフは不機嫌そうに呟いたが、結局それ以上の不平や非難は発しなかったのだった。代わりに彼は一同の中で只一人、肩を狭めて縮こまっている少女を見遣ったのであった。
 司の隣に座った美香は、不貞腐れたようにもねたようにも取れる面持ちを浮かべて、斜交いの相手から目を逸らし続けた。
 こんなの極め付けにみっともない意地の張り合いだ、と心中密かにほぞを嚙みながら。
 畢竟ひっきょうするに、彼女にはリウドルフに積極的にすがる事も、司の提案を断る事も出来なかったのである。ただ、偶々たまたま身近に生じた流れに乗っただけであり、その結果、向こうがどんな顔でこちらを迎えるか容易たやすく想像出来ていたにもかかわらず、場の勢いから距離を置く事が出来なかった。
 成り行き任せだって、止まってるよりはマシさ。
 昔何処かで聞いた歌の一節が、少女の脳裏に木霊した。
 それでも司にいざなわれるまま電車に乗り、再びこの海辺の村を訪れた事に対しては、美香は不思議と後ろ暗さを覚える事は無かったのであった。
 海沿いの土地を目指す列車の車中、空席の目立つ車両の席に腰を下ろした美香は、向かいの席に腰を落ち着けた司をじっと観察した。
 装い自体はいつもと変りなく、淡い水色のシャツに白いテーパード・パンツを着込み、普段通りに丸眼鏡を掛けた彼は手にした厚い文庫本に涼しげな眼差しを注いでいた。学校で顔を毎日合わせているとは言え、これ程近い距離で相手の様子をじっくりとうかがった事は無い。その面立ちが若作りであるとは常日頃から思っていたが、こうして間近から捉えてみれば向こうはまだ二十代半ばと言った容貌である。
 これならば、事情を知らない他の乗客からは生徒と教師のように思われる事は無いだろう。精々が兄妹か、近所の顔馴染みとでも詮索される程度であろうか。
 その時、美香の眼差しに気付いたのか、司が胸元まで掲げた本から顔を上げた。
「どうかしたかい?」
「あ、いえ……」
 反射的に目を逸らしつつも、美香はかねてからの疑問を口にする。
「……先生ってその、どういうお仕事をされてるんですか? 先生の他に?」
 問われた司は、ふと視線を下げて一笑した。
「こういう仕事と一口に言うのは簡単だよ。『テオさんのお守り』だ。ただ君が知りたいのは恐らく、私がどういう所に所属して何を何処まで請け負っているか、どうして教師の職務を表向き続けているのか、とおおむねそんな辺りだろう?」
「え、ええ、まあ……」
 司が的確に返した質問に図星を指された美香は、いささかぎこちなくうなずいた。
 車窓の向こうにのぞく景色が切り替わり始めた頃、電車がいよいよ都市部を離れ、田園や森林のかたわらを走るようになって来た頃の事であった。
 司は文庫本を閉ざすと、窓枠に頬杖を付いて穏やかに語り出す。
「私の直接の雇い主は国連になる。厳密に言えば、その隷下に置かれた小さな組織だな。『国際託宣統括機関』と言う、魔術や道術を今の時代も研鑽けんさんしている所で、そこが私の本当の勤め先と言える。科学万能のこの御時世、大した権限も持っていない日陰の組織だが、一応は世界中の超心理学やらオカルトやらの総元締めと言う立場を取っている。そしてそこが身元保証を請け負っているのが……」
「ああ、センセな訳で……」
「そういう事だね」
 向かいから美香が口を挟むと、司はうなずいた。
「だから、彼の行く先には組織の人間が常に付いて行く必要が生じる訳だ。医師として活動するなら医師として。教師として働くのなら同じく教師として」
 そこまで説明してから司は丸眼鏡の奥で目を細めると、車窓を流れ行く緑の景色に目を移した。
「本来ならば単純に年功序列として見ても、あの人が組織を束ねて全体をまとめてくれた方が余程自然に事が運ぶんだが、兎角人の上に立ちたがらない人だからなぁ……過去に何があったか知らないが、自分は飽くまで一人の医師に過ぎないと言う姿勢を崩さず、あっちをふらふら、こっちをふらふらとまるで落ち着きが無い」
 眼差しと相違せぬ疲れたような呆れたような口調で愚痴をこぼした相手を、美香もまた同情的に見つめた。
「そうですよね。結構自分本位ですよね、あの人。周りが見えない訳じゃないんだけど、芯の部分は我儘わがままって言うか」
 美香の差し込んだ言葉に司も鼻息をつく。
「医者としての矜持きょうじと言うか、変な意地みたいなのが根底にあるからねぇ……人命尊重を振りかざすのは別に構わないんだけど、その為だったら周りの心配なんか意識から平然と除外出来る訳で、一度目標を見据えたらもう他の事なんか目に入らないと言う有様なんだ。突発的理不尽と言えば大袈裟だが、しかしこっちも何度振り回された事か……」
「ですよねぇ」
 乗客の姿も疎らな列車の中、人に日頃言えない不平不満を互いに溜め込んでいた同士、取り留めの無い愚痴のこぼし合いはしばし続いた。やがて、隣を伸びる線路の向こうに紺碧の海原が顔をのぞかせるようになった頃には、美香も司と随分と打ち解けていたのであった。
「先生も色々と大変なんですね。や、単純に先生って呼んでいいのか判んないですけど」
「確かに、こんなおかしな働き方をしている教師もまずいないだろうからね。難儀ではある」
 笑顔でそう答えてから、司はふと向かいに座る美香へと穏やかな眼差しを送った。
「ただ教員の資格は本物だよ。実際、純粋に教鞭を振るっていた時期もある」
「そうなんですか?」
「うん。もう随分と昔の話だけれどもね……」
 意外そうに目を丸くした美香へとうなずいて見せてから、司はおもむろに車窓の外へと目を移したのであった。
 海辺の流れ行く景色が、その双眸に小さく映り込んだ。懐かしげに、と言うよりはむしろ寂しげに、彼は過ぎ行く遠景を見つめていた。
 美香がそこまでを思い返した時、座敷を仕切る襖がゆっくりと開かれた。
「ようこそお出で下さいました」
 その向こうから現れたのは美香も見知った女性、この民宿の女将である若狭佳奈恵であった。薄紅色のシャツを来た彼女は座敷に居ならぶ来客達へと一礼し、しかる後、集った面子を面白そうに眺めた。
はる君から新たにお客様がお見えになったと聞いたんですが、これはまた随分と可愛らしい方もいらして下さったのですね」
 そう言って、佳奈恵は美香を愉快げに見遣った。
「……どうも。お世話になります」
 若干の所在の無さを覚えつつも、美香も宿の女将へと一礼する。
 それぞれの事情はさて置き、かつて異郷の宿で顔を合わせた一同は今再び同じ場所へと戻って来たのであった。
しおりを挟む

処理中です...