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渚のリッチな夜でした
その23
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浴室の前を離れた美香は、間も無く玄関の横を通り過ぎ縁側の通路へと差し掛かった。
白昼の眩い光が降り頻る外から、蝉の声と遠い潮騒が建物内にも伝わって来た。
夏の日差しの下を晴人が庭木に水を撒いている。数日前に立ち寄った時と同じく、野球帽を被った彼は、如雨露を庭先の緑に傾けて一人黙々と作業を続けていた。
その様子を美香は縁側から暫し見守っていた。
美香の側から声を掛ける事は無かったのだが、眼差しに気付いてか晴人も縁側の方へと顔を向ける。
「……何だ、君も来たのか」
「どうも、今日は……」
距離を置いて美香が一礼すると、晴人は口元を僅かに綻ばせた。
「何だか縁があるね、君とは。ホテルの廊下で擦れ違ってから」
「ああ、まあ……」
美香は少し意外そうに相槌を打った。向こうは向こうで、こちらをきちんと憶えていたようである。
晴人は変わらず水を撒きながら、縁側に佇む少女へと言葉を掛ける。
「先生達の事を追って来たの?」
「え、ええ……」
内心でどきりとしながらも変に誤魔化す事もせず、美香は首肯した。先程同じ質問を遣した佳奈恵には否とも応とも遂に答えられなかったにも拘わらず、今度は美香は応答していたのであった。
そんな美香の斜め前で晴人はまた一笑した。
「別に恥ずかしがる事はないよ。俺も似たようなもんだから……」
穏やかに告げた青年の横顔を、美香はむしろ不思議そうに見つめていた。
ややあって、美香は縁側に立ったまま庭先の晴人へと訊ねる。
「……あの、住み込みでこちらで働いているんですよね?」
「そうだよ」
「ここへ来る前は、何をしてらしたんですか?」
美香の質問に、晴人は目元をやや細めた。
「何って、俺まだ学生なんだ。大学四年」
「あ、そうなんですか」
素直に驚きを覗かせた美香は重ねて訊ねる。
「じゃ、就職先を探しにこちらへ来られたとか?」
「まあ、そういう期待が少しはあったのも事実だけど、今じゃもう、こんな不気味な所へ身を落ち着けようなんて気は起きない」
日差しの下、目元に翳りを纏わせて晴人は言った。
「俺も最初はこの宿に客として入ってさ、なし崩しに手伝いをしてる内に住み込みで働き始めるって流れになったんだけど、それでも宿の外を用も無しに出歩きたいとは思わないからね」
帽子の鍔から覗く眼差しに幾らかの険しいものを載せながら、彼は自分に言い聞かせるように言葉を続ける。
「俺はただ、こんな所からあの人を連れ出して……」
「御免下さい」
晴人の言葉を遮るようにして、玄関の方から声が上がった。
何処からか吹き込んだ風が、縁側の庇に吊るされていたガラスの風鈴を小さく鳴らした。
突然の事に美香が驚きを、そして晴人が苛立ちの篭った眼差しを声の方へと向けた先で庭先に新たな人影が現れる。
陽光に輝く白衣と紫色の袴を纏った装束姿の男、沼津幸三が民宿の庭へと足を踏み入れたのであった。身形には今日も乱れは無く、灰色掛かった頭髪も綺麗に纏めた彼は足音も立てずに歩いて来る。
やがて沼津は庭先で水を撒いていた晴人に気付くなり目元に皺を寄せたが、飽くまでも泰然と挨拶を遣す。
「今日は。若狭さんに用があって来たのだがお出掛けの最中かね。ホテルの仕事にはまだ時間がある筈だが」
泰然を些か通り越し、慇懃無礼と呼んでも差し支えの無い物言いで彼は訊ねた。
対する晴人は一応は野球帽を下ろして、同じく冷ややかな口調で丁寧に答える。
「女将さんなら奥で風呂場の掃除をしてますよ。何か御用があるなら言付けに行きますが」
「ふん、何も君に頼まずとも……」
沼津は露骨に不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、縁側の方へと顔を向ける。都合上、彼の視界には縁側に佇む美香の姿が収められたのだった。
「……君は……この間の学生か? どうしてここに……」
返答に詰まった美香の前で、初老の宮司は訝る面持ちを濃くした。
直後、その美香の後ろから新たに人影が浮かび上がる。
さながら座敷に淀む日陰が形を成し、輪郭を得て独りでに蠢き出したかのように、それは一同の中へ唐突に進み出たのであった。
「女将さんなら今はトイレの掃除をしてますよ。何なら呼んで来ましょうか?」
平然と言ってリウドルフは縁側へ、美香の隣へと歩み出た。
「今日は、宮司さん。お久し振り、と言う程日も経ってはいませんか」
「あなたは……」
先程、美香に対するのとは明らかに度合いの違う驚愕の表情を、沼津は咄嗟に浮かべていたのであった。
美香が、そして晴人が驚くのと一緒に俄かに安堵を覚えた中で、リウドルフは備え付けのサンダルを履いて光差す庭へと降り立った。光と影を自由に行き来する唯一のものは、昼の眩い日差しに照らされる庭へと歩み出たのであった。
庭の中程でリウドルフは首筋を解しつつ、陽気な口調で沼津へと話し掛ける。
「いやあ、前回こちらの風光明媚な土地柄にすっかり魅了されましてね、職務を離れて今度はじっくり観光を楽しみたいと思い立ち、こうして再来したと言う訳でして。ここの女将さんの所ならサービスも行き届いているし、滞在するには申し分無いと思って宿を借りました」
「それは、どうも……」
呻くように呟いた沼津は、だが程無くその双眸に鋭い光を浮かばせる。
「……しかし、また随分と急なお話ですね」
言いながら、沼津は傍らに立つ晴人へと一瞬だけ目を向けた。紛れも無い敵意をその眼差しに載せつつも、彼は堅い面持ちを保っていた。
他方、まるで素知らぬ素振りでリウドルフは悠然と言葉を続ける。
「まあ前回は学校行事の一環で訪れた訳で、言ってしまえば終始人任せでした。そうした姿勢も旅行者としては恥ずかしいと反省致しましてね、来訪先の歴史をきちんと調べた上で、自分なりに史跡巡りをしてみようと思い立ったのです。恐らく、それがその土地やそこに住まう人々に対する礼儀ともなるでしょう」
「……それは、あなた御自身の意志によるものですか?」
向かいから沼津の返した質問に、リウドルフは首肯して見せた。
「勿論です。事の起こりに他人の誘導に上手く乗せられたのは事実ではありますが、敢えて突き詰めてみようと思ったのは私自身の意志によるものです」
蝉の声が、庭に立つ三人と縁側に佇む一人の頭上を覆うように鳴り響いた。
沼津が警戒の度合いを強めて行く中で、リウドルフは飽くまで軽やかに辺りを見回した。
「いやいや、実際閑静で良い所じゃありませんか。ですが、こうした土地にも暗い時代はあったらしいですね。取り分けかつての太平洋戦争の頃には」
沼津が瞼をぴくりと動かした。
リウドルフは構わず、日差しの下で言葉を続ける。
「郷土史を調べる中で知ったのですが、当時の記録によれば戦時中はこの村からも多くの若者達が徴兵されたらしいですね。逼迫した戦況の最中に多くは激戦区へと回され、そしてそのまま帰って来なかった。その影響が今も祟っているのか、この村の若年人口は県内でも取り分け低い模様のようです」
「……それは仕方が無い流れでしょう。そういう時代もあったのですから……」
沼津が低い声で合の手を入れると、リウドルフは彼の方へと顔を向け直した。
「しかし役所の古い記録には、終戦の翌年にこの村へ復員して来た若者が一人いたらしい事になっています。記録にあるその方の名前が『沼津辰人』となっているようですな。同じ姓からして気になったのですが、そちらの御親戚に当たる方なのでしょうか?」
刹那、白衣の袖口に覗く拳を沼津はきつく握り締めたのだった。遠くから潮騒の伝わる中、初老の宮司は地面から立ち昇る熱気よりも更に苛烈な空気を全身に俄かに纏わせていた。
遠目に見ても異様な雰囲気が漂いつつある庭先を視界に収めて、美香は思わず唾を呑み込み、晴人は項に冷たい汗を垂らした。
それでも、やがての末に沼津はゆっくりと口を開く。
「……恐らく私の大叔父に当たる人物でしょう。何分昔の話ですから、それ以上の事実は計りかねます」
語尾に揺らぎのある、然れど穏やかな口調であった。さながら感情と言う煮え滾った釜に理性と言う分厚い鉄の蓋を無理矢理覆い被せたような、それは強靭な意志の力の成せる業であった。
そんな様子を覗かせた相手からリウドルフは顔を逸らすと、緩やかに頭上を仰いだ。
庭先に立つ彼らの頭上には今日も澄み切った夏空が、明るい紺碧の空が広がっていた。
空を見上げたままリウドルフは口を開く。
「それにしても、こんな長閑な場所にも暗い歴史は刻まれていたようですなぁ……大戦の最中、暗冥の中にあった世相に翻弄されるのみだった当時の住民の方々は、さぞや苦しい想いをされたでしょう。そんな中、地域の信仰の拠り所であったそちらの神社もまた大変な重責を担う事になったのでしょうな」
そう評して顔を戻したリウドルフの前で、今度は沼津が目を逸らした。
「……そうかも知れません。悲しい事ですが、信仰も時として無力となる場合があるのです。分けても戦乱と言うどうしようもない暴力の渦中に於いては……」
足元へと目を落とし、声の調子も次第に落としながら初老の宮司は言葉を紡ぎ続ける。
「……けだし戦争の怖ろしさとは、一人一人の良識や試み、信心などでは打ち消しようの無い、本当にどうしようもない画然たる破壊や死が雪崩のように、怒涛のように襲い掛かって来る所にあるのかも知れません」
「同感ですね。自然災害や疫病の流行の際にも同じ事が言えるでしょうが、戦争は何処まで行っても人災です。本当は避けられたのではないか、止められたのではないかとの疑念が絶えず湧き上がる分、余計に始末が悪い」
しんみりとした口調でリウドルフは同意した。
それから一呼吸程の間を置いて、彼は向かい立つ宮司を改めて見つめる。
「しかし先程から拝聴していれば、貴方も中々に合理的、客観的に物事を見定めようとなさるようですね。神職者と言うよりむしろ学者に近い考え方をされる」
「……いいえ、私は飽くまで神職に就いた者ですよ。そういう家に生まれたのですから……」
沼津がそう答えた時、縁側の向こうから佳奈恵が姿を現した。
庭先に立つ沼津を認めた途端、佳奈恵も急ぎ足で庭へと出る。
「これは宮司さん。いらしてらしたのですか? 一声掛けて頂ければすぐに……」
「いや何、つい今しがた来たばかりですから」
済まなそうに声を掛けた佳奈恵へと、沼津は笑い掛けた。
「それに、そちらもお客様の接待に忙しいのでしょう? あまり無理をされない方がいい。また後程、神社の方まで来て頂けますか?」
「はい……」
頷いた佳奈恵の前で、沼津はリウドルフに会釈する。
「では、私はこれで。ええと……」
「リウドルフ・クリスタラーと申します。まあ、名前になど大した意味は無いですが」
「ならばルドルフ先生、史跡巡りを満喫されるのは結構ですが、夜間の外出は控えた方が宜しいかと地元を代表して進言させて頂きます。この辺りは夜に入ると本当に真っ暗になりますので」
沼津の提言を受けてリウドルフも一礼した。
「そうですね。前回訪れた際には仲間達と酒を飲んで、その勢いのまま朝まで寝呆けておりました。今回もそうする事に致しましょう」
実にあっけらかんとリウドルフは答えたのであった。
やがて沼津が去り、佳奈恵もまた建物の奥へ戻った頃、晴人は帽子を被り直すのと一緒に、縁側に腰を下ろしたリウドルフへと耳打ちする。
「……良かったんですか? その、『あいつ』の前に姿を見せて?」
「何、いずれ時間の問題さ、疑って掛かられるのも。それに、一つ確かめたかった事もあったし実際収穫もあった」
そう答えてから、リウドルフは縁側の通路を、建物の奥と向けて細い眼差しを向けたのであった。
「さて、あと確かめるべきは今一人の方か……」
少し物憂げに呟いた彼の前で、晴人も浮かない面持ちを作る。
縁側に佇む美香だけが事態を呑み込めず、二人とはまた別の複雑な表情を浮かべたのであった。
蝉の声はそんな事にはお構い無しに辺りに鳴り響く。
見えざる風に促されてか、庇に吊るされた風鈴がか細い音色を今一度奏でた。
白昼の眩い光が降り頻る外から、蝉の声と遠い潮騒が建物内にも伝わって来た。
夏の日差しの下を晴人が庭木に水を撒いている。数日前に立ち寄った時と同じく、野球帽を被った彼は、如雨露を庭先の緑に傾けて一人黙々と作業を続けていた。
その様子を美香は縁側から暫し見守っていた。
美香の側から声を掛ける事は無かったのだが、眼差しに気付いてか晴人も縁側の方へと顔を向ける。
「……何だ、君も来たのか」
「どうも、今日は……」
距離を置いて美香が一礼すると、晴人は口元を僅かに綻ばせた。
「何だか縁があるね、君とは。ホテルの廊下で擦れ違ってから」
「ああ、まあ……」
美香は少し意外そうに相槌を打った。向こうは向こうで、こちらをきちんと憶えていたようである。
晴人は変わらず水を撒きながら、縁側に佇む少女へと言葉を掛ける。
「先生達の事を追って来たの?」
「え、ええ……」
内心でどきりとしながらも変に誤魔化す事もせず、美香は首肯した。先程同じ質問を遣した佳奈恵には否とも応とも遂に答えられなかったにも拘わらず、今度は美香は応答していたのであった。
そんな美香の斜め前で晴人はまた一笑した。
「別に恥ずかしがる事はないよ。俺も似たようなもんだから……」
穏やかに告げた青年の横顔を、美香はむしろ不思議そうに見つめていた。
ややあって、美香は縁側に立ったまま庭先の晴人へと訊ねる。
「……あの、住み込みでこちらで働いているんですよね?」
「そうだよ」
「ここへ来る前は、何をしてらしたんですか?」
美香の質問に、晴人は目元をやや細めた。
「何って、俺まだ学生なんだ。大学四年」
「あ、そうなんですか」
素直に驚きを覗かせた美香は重ねて訊ねる。
「じゃ、就職先を探しにこちらへ来られたとか?」
「まあ、そういう期待が少しはあったのも事実だけど、今じゃもう、こんな不気味な所へ身を落ち着けようなんて気は起きない」
日差しの下、目元に翳りを纏わせて晴人は言った。
「俺も最初はこの宿に客として入ってさ、なし崩しに手伝いをしてる内に住み込みで働き始めるって流れになったんだけど、それでも宿の外を用も無しに出歩きたいとは思わないからね」
帽子の鍔から覗く眼差しに幾らかの険しいものを載せながら、彼は自分に言い聞かせるように言葉を続ける。
「俺はただ、こんな所からあの人を連れ出して……」
「御免下さい」
晴人の言葉を遮るようにして、玄関の方から声が上がった。
何処からか吹き込んだ風が、縁側の庇に吊るされていたガラスの風鈴を小さく鳴らした。
突然の事に美香が驚きを、そして晴人が苛立ちの篭った眼差しを声の方へと向けた先で庭先に新たな人影が現れる。
陽光に輝く白衣と紫色の袴を纏った装束姿の男、沼津幸三が民宿の庭へと足を踏み入れたのであった。身形には今日も乱れは無く、灰色掛かった頭髪も綺麗に纏めた彼は足音も立てずに歩いて来る。
やがて沼津は庭先で水を撒いていた晴人に気付くなり目元に皺を寄せたが、飽くまでも泰然と挨拶を遣す。
「今日は。若狭さんに用があって来たのだがお出掛けの最中かね。ホテルの仕事にはまだ時間がある筈だが」
泰然を些か通り越し、慇懃無礼と呼んでも差し支えの無い物言いで彼は訊ねた。
対する晴人は一応は野球帽を下ろして、同じく冷ややかな口調で丁寧に答える。
「女将さんなら奥で風呂場の掃除をしてますよ。何か御用があるなら言付けに行きますが」
「ふん、何も君に頼まずとも……」
沼津は露骨に不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、縁側の方へと顔を向ける。都合上、彼の視界には縁側に佇む美香の姿が収められたのだった。
「……君は……この間の学生か? どうしてここに……」
返答に詰まった美香の前で、初老の宮司は訝る面持ちを濃くした。
直後、その美香の後ろから新たに人影が浮かび上がる。
さながら座敷に淀む日陰が形を成し、輪郭を得て独りでに蠢き出したかのように、それは一同の中へ唐突に進み出たのであった。
「女将さんなら今はトイレの掃除をしてますよ。何なら呼んで来ましょうか?」
平然と言ってリウドルフは縁側へ、美香の隣へと歩み出た。
「今日は、宮司さん。お久し振り、と言う程日も経ってはいませんか」
「あなたは……」
先程、美香に対するのとは明らかに度合いの違う驚愕の表情を、沼津は咄嗟に浮かべていたのであった。
美香が、そして晴人が驚くのと一緒に俄かに安堵を覚えた中で、リウドルフは備え付けのサンダルを履いて光差す庭へと降り立った。光と影を自由に行き来する唯一のものは、昼の眩い日差しに照らされる庭へと歩み出たのであった。
庭の中程でリウドルフは首筋を解しつつ、陽気な口調で沼津へと話し掛ける。
「いやあ、前回こちらの風光明媚な土地柄にすっかり魅了されましてね、職務を離れて今度はじっくり観光を楽しみたいと思い立ち、こうして再来したと言う訳でして。ここの女将さんの所ならサービスも行き届いているし、滞在するには申し分無いと思って宿を借りました」
「それは、どうも……」
呻くように呟いた沼津は、だが程無くその双眸に鋭い光を浮かばせる。
「……しかし、また随分と急なお話ですね」
言いながら、沼津は傍らに立つ晴人へと一瞬だけ目を向けた。紛れも無い敵意をその眼差しに載せつつも、彼は堅い面持ちを保っていた。
他方、まるで素知らぬ素振りでリウドルフは悠然と言葉を続ける。
「まあ前回は学校行事の一環で訪れた訳で、言ってしまえば終始人任せでした。そうした姿勢も旅行者としては恥ずかしいと反省致しましてね、来訪先の歴史をきちんと調べた上で、自分なりに史跡巡りをしてみようと思い立ったのです。恐らく、それがその土地やそこに住まう人々に対する礼儀ともなるでしょう」
「……それは、あなた御自身の意志によるものですか?」
向かいから沼津の返した質問に、リウドルフは首肯して見せた。
「勿論です。事の起こりに他人の誘導に上手く乗せられたのは事実ではありますが、敢えて突き詰めてみようと思ったのは私自身の意志によるものです」
蝉の声が、庭に立つ三人と縁側に佇む一人の頭上を覆うように鳴り響いた。
沼津が警戒の度合いを強めて行く中で、リウドルフは飽くまで軽やかに辺りを見回した。
「いやいや、実際閑静で良い所じゃありませんか。ですが、こうした土地にも暗い時代はあったらしいですね。取り分けかつての太平洋戦争の頃には」
沼津が瞼をぴくりと動かした。
リウドルフは構わず、日差しの下で言葉を続ける。
「郷土史を調べる中で知ったのですが、当時の記録によれば戦時中はこの村からも多くの若者達が徴兵されたらしいですね。逼迫した戦況の最中に多くは激戦区へと回され、そしてそのまま帰って来なかった。その影響が今も祟っているのか、この村の若年人口は県内でも取り分け低い模様のようです」
「……それは仕方が無い流れでしょう。そういう時代もあったのですから……」
沼津が低い声で合の手を入れると、リウドルフは彼の方へと顔を向け直した。
「しかし役所の古い記録には、終戦の翌年にこの村へ復員して来た若者が一人いたらしい事になっています。記録にあるその方の名前が『沼津辰人』となっているようですな。同じ姓からして気になったのですが、そちらの御親戚に当たる方なのでしょうか?」
刹那、白衣の袖口に覗く拳を沼津はきつく握り締めたのだった。遠くから潮騒の伝わる中、初老の宮司は地面から立ち昇る熱気よりも更に苛烈な空気を全身に俄かに纏わせていた。
遠目に見ても異様な雰囲気が漂いつつある庭先を視界に収めて、美香は思わず唾を呑み込み、晴人は項に冷たい汗を垂らした。
それでも、やがての末に沼津はゆっくりと口を開く。
「……恐らく私の大叔父に当たる人物でしょう。何分昔の話ですから、それ以上の事実は計りかねます」
語尾に揺らぎのある、然れど穏やかな口調であった。さながら感情と言う煮え滾った釜に理性と言う分厚い鉄の蓋を無理矢理覆い被せたような、それは強靭な意志の力の成せる業であった。
そんな様子を覗かせた相手からリウドルフは顔を逸らすと、緩やかに頭上を仰いだ。
庭先に立つ彼らの頭上には今日も澄み切った夏空が、明るい紺碧の空が広がっていた。
空を見上げたままリウドルフは口を開く。
「それにしても、こんな長閑な場所にも暗い歴史は刻まれていたようですなぁ……大戦の最中、暗冥の中にあった世相に翻弄されるのみだった当時の住民の方々は、さぞや苦しい想いをされたでしょう。そんな中、地域の信仰の拠り所であったそちらの神社もまた大変な重責を担う事になったのでしょうな」
そう評して顔を戻したリウドルフの前で、今度は沼津が目を逸らした。
「……そうかも知れません。悲しい事ですが、信仰も時として無力となる場合があるのです。分けても戦乱と言うどうしようもない暴力の渦中に於いては……」
足元へと目を落とし、声の調子も次第に落としながら初老の宮司は言葉を紡ぎ続ける。
「……けだし戦争の怖ろしさとは、一人一人の良識や試み、信心などでは打ち消しようの無い、本当にどうしようもない画然たる破壊や死が雪崩のように、怒涛のように襲い掛かって来る所にあるのかも知れません」
「同感ですね。自然災害や疫病の流行の際にも同じ事が言えるでしょうが、戦争は何処まで行っても人災です。本当は避けられたのではないか、止められたのではないかとの疑念が絶えず湧き上がる分、余計に始末が悪い」
しんみりとした口調でリウドルフは同意した。
それから一呼吸程の間を置いて、彼は向かい立つ宮司を改めて見つめる。
「しかし先程から拝聴していれば、貴方も中々に合理的、客観的に物事を見定めようとなさるようですね。神職者と言うよりむしろ学者に近い考え方をされる」
「……いいえ、私は飽くまで神職に就いた者ですよ。そういう家に生まれたのですから……」
沼津がそう答えた時、縁側の向こうから佳奈恵が姿を現した。
庭先に立つ沼津を認めた途端、佳奈恵も急ぎ足で庭へと出る。
「これは宮司さん。いらしてらしたのですか? 一声掛けて頂ければすぐに……」
「いや何、つい今しがた来たばかりですから」
済まなそうに声を掛けた佳奈恵へと、沼津は笑い掛けた。
「それに、そちらもお客様の接待に忙しいのでしょう? あまり無理をされない方がいい。また後程、神社の方まで来て頂けますか?」
「はい……」
頷いた佳奈恵の前で、沼津はリウドルフに会釈する。
「では、私はこれで。ええと……」
「リウドルフ・クリスタラーと申します。まあ、名前になど大した意味は無いですが」
「ならばルドルフ先生、史跡巡りを満喫されるのは結構ですが、夜間の外出は控えた方が宜しいかと地元を代表して進言させて頂きます。この辺りは夜に入ると本当に真っ暗になりますので」
沼津の提言を受けてリウドルフも一礼した。
「そうですね。前回訪れた際には仲間達と酒を飲んで、その勢いのまま朝まで寝呆けておりました。今回もそうする事に致しましょう」
実にあっけらかんとリウドルフは答えたのであった。
やがて沼津が去り、佳奈恵もまた建物の奥へ戻った頃、晴人は帽子を被り直すのと一緒に、縁側に腰を下ろしたリウドルフへと耳打ちする。
「……良かったんですか? その、『あいつ』の前に姿を見せて?」
「何、いずれ時間の問題さ、疑って掛かられるのも。それに、一つ確かめたかった事もあったし実際収穫もあった」
そう答えてから、リウドルフは縁側の通路を、建物の奥と向けて細い眼差しを向けたのであった。
「さて、あと確かめるべきは今一人の方か……」
少し物憂げに呟いた彼の前で、晴人も浮かない面持ちを作る。
縁側に佇む美香だけが事態を呑み込めず、二人とはまた別の複雑な表情を浮かべたのであった。
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