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またもリッチな夜でした

その14

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 夜に入ってしばらく経っても尚、その日の雨は降り続いた。
 囁くような音を立てて闇の中を落ちる雨の中、月影司は学校の裏門の施錠を確認した。
 全ての灯りを消した校舎は連なる窓に真っ黒な闇をめ込み、敷地を最後に出た教師を黙して見送った。
 しかる後、彼は、学校の敷地の外に居並ぶ数人の同僚へと首を巡らせる。
「では、今日も一日お疲れ様でした。また明日」
 夜の路地の一角に陽気な挨拶が交わされ、次いで教師達はそれぞれの家路に付いた。
 小雨の降りしきる夜であった。
 傘を片手に司は街灯の灯るばかりとなった歩道を歩いて行く。今日は焦げ茶色のスーツを着た司は、静かな夜道を黙して歩き続けた。
 道沿いに連なる家々もすでに寝息を立てているかのように、かすかな明かりを夜道に漏らすのみである。繁華街から遠ざかるにつれ、車道を行き交う車の数も減って、歩道を一人歩く司はひたすらに己の足音のみを雨音に重ねていた。
 それがどれ程続いた頃の事であったろうか。
 商店街の横手に連なる住宅街の一角で、司は足を止めた。
「……ほう」
 学者風の丸眼鏡の奥で、目が切れ味を帯びながら細められる。
 雨の中で立ち止まった彼の前方、歩道脇に置かれたゴミ収集庫の陰に、二匹の鼠が姿を見せていた。一匹の鼠が路面に仰向けに倒れ、もう一匹がその上に圧し掛かっている所であった。倒れた方の鼠は出血している様子も見受けられなかったが、四肢を細かく痙攣させており最早身動きの取れぬ有様である。そして仲間に圧し掛かった側の鼠は離れて立つ司に気付いたのか、そちらへと首を巡らせた。
 白濁した眼球が雨の中の孤影を捉えた。威嚇の声を上げるでもきびすを返して逃げ出すでもなく、その鼠は光の消えた瞳を闖入者へと向けるのだった。千切れ掛けて頬へと垂れ下がった左耳の先端から、雨の雫を滴らせながら。
 一方の司は首をわずかにかしげさせ、目の前の小さな異形を見据える。
「……『屍鬼』……いや、この場合は『餓鬼』と評すべきか」
 細く鋭い氷の針のような視線の先で、よどんだ目を持つ鼠は威嚇するように司へと体を向けた。
 対する司は、傘を片手に鼻息を漏らす。
「何にせよ、こんなものが夜辻を徘徊するようでは……」
 そこまで言った時、彼は何かに気付いて傘と共に眼差しをふと持ち上げた。
 歩道にたたずむ司の右前方、民家の車庫を覆う屋根プレシオスポートの上に『それ』は屹立していた。
 街灯の光を際限無く吸い込む、闇色の衣。
 人の背丈を大きく超える細長い体躯。
 そして顔に当たる部分には鼻の部分が長く伸びたきらびやかな仮面を付けた、それは異形であった。
 傘を掲げて夜の怪人を確認した司は、その目元を険しいものへと瞬時にして一変させる。さながら、知らずに縄張りを侵した燕雀えんじゃくいわおの頂から睨み付ける鴻鵠こうこくの如くに。
「外道めが……!」
 短く吐き捨てて、司は傘を緩やかに下ろした。
 途端、舞い落ちる雨粒は、だが彼の体を濡らす事は叶わなかった。全身に透明な覆いを被っているかのように、細身の体は小雨の一切を逸らしていたのであった。
 何事にもわずらわされる事無く、司は面前の異形を睨み据える。仮面の異形もまた、臆する事無く眼下に立つ長身瘦躯の孤影を底の見通せぬ眼孔に収める。両者の足元で、朽ちたる鼠が機をうかがうように身を低くした。
 雨音が、雨音だけが辺りを覆っていた。
 その只中で音も無く、揺らぎも無く、二つの人影を結ぶ意志の線は刻々と太さと強さを増して行く。
 そして臨界が何処であったのか、いつであったのか、それすらも定かでないままに諸々の気迫は炸裂し、一対の影は互いへと向けて躍り掛かった。
 同じ時刻、美香は自室で机の前に座っていた。
 窓辺の勉強机の上に教科書と参考書を並べて、しかるに美香は空模様と同様の晴れない面持ちを浮かべ窓の外へと視線を向ける。
 宵闇に覆われた付近の宅地は至って静かであり、窓ガラスを透かして届く雨の音が嫌にはっきりと耳に届いた。絶えず何事かを囁き掛けるように、あるいは淡々と責め立てるように夜の雨は降り続くのだった。
 机の上に頬杖を付いて、美香は窓の外の様子を、夜と言う世界の相貌の一側面を凝視する。物憂げに寄せられた眉の下で、少女の双眸そうぼうは暗灰色の空とその下で小さな光をか細く灯す塵界とを同時に捉えていた。
 そしてその塵界の片隅で、司は人ならざるもの共と対峙していた。
 林立する民家の屋根から屋根へ、重みをまるでのぞかせずに飛ぶ異形を、司は歩道を駆けて猛然と追いすがる。その最中、歩道の脇を伸びる側溝の中からずぶ濡れとなった鼠がい出して来た。白濁した目は片方がすでに抜け落ち、頭部を始めとして各所に骨を露出させた、それはうごめく屍であった。
「また出て来たか……よくもまあ、ぞろぞろと!」
 わずらわしげに言い捨てるのと一緒に、司はスーツの懐から一枚の札を取り出す。流麗な字体で文言の書かれた呪符を、司は前方の屍へ投げ放つ。
「落魂!!」
 雨の隙間に鋭い叫びが響くや否や、腐り掛けた鼠へと呪符は獲物に飛び付くひるのように貼り付いた。
 直後、雨の中で札が突如として燃え出したのであった。
 同時に、朽ちた鼠は体を大きく痙攣させ濡れた路面に崩れ落ちた。その刹那、鼠の全身より黄色い光がうっすらとにじみ出て空中に溶け消えた。
 完全に炭化した呪符が雨に流される前で、むくろは一切の力を失って元の状態へと戻る。
 そちらには最後まで一瞥もくれずに、司は前方を舞う異形の人影を追い続けた。
「『垢』を掃除して回るだけではらちが明かんか……」
 司が苛立ちを込めて呟いた時、家々の屋根を跳躍していた異形の人影は、不意に直上へ高く飛び上がる。それを認めた司が眉をひそめた半瞬後、肉食魚が躍り掛かるようにして彼の頭上へと仮面の怪人は肉薄したのであった。
 自身の真上に向け、司は咄嗟とっさに三枚の呪符を掲げる。
 二つの影が垂直に結ばれた。
 直上を睨み上げる異端の眼差しと、直下を見下ろす異形の視線とが交錯した。
 両者の周囲で降り続く雨が、その刹那、四方へと勢い良く弾き飛ばされた。
 標的に食らい付く事は叶わず、黒衣の異形は空中に逆様となった姿勢から如何なる力場の作用によってかふわりと浮き上がり、相手と距離を取った地点へと着地する。
 対する司もまた追撃を仕掛ける事はせず、静かに姿勢を戻した。
 空間に走った一瞬の動性を覆い隠すかの如く、暗い空より降り続く小雨は淡々とした雨音を付近に充満させた。
 二つの影は今、宅地の狭間に設けられた小さな駐車場の入口で相対していた。
 司は右手の札へおもむろに目を落とす。彼の掌中で三枚の呪符は黒く焼け焦げ、すでに半ば以上を焼失させていたのであった。
「ふむ……」
 丸眼鏡の奥で、双眸そうぼうが切れ味を帯びたまま細められる。
 しかる後、司は眼前で雨中にたたずむ黒衣の怪人を改めて見つめた。
「……成程なるほど、生者から精気を抜き取るだけでなく、呪具のたぐいに込められた霊力までも吸収出来ると言う訳か。馬鹿の一つ覚えも極めればそこそこの脅威となるようだな」
 ペスト医師の仮面を付けた何者かは、目の前で怖気付く気配ものぞかせずに立つ男を真っ黒な眼孔で捉えていた。
『な……』
『ななににに……』
『なななに……』
 雨音の隙間に、奇妙に重なり合った形無き声が流れ出す。
『……何者だ、だだ、おお前、前前?』
 そう言って、黒衣の怪人は鼻の長い仮面を少しかしげて見せた。
 雨の中、降り掛かるわずかな雫さえも外へと逸らして平然と立つ司は、同じく首をいささか傾ける。
「貴様らのような『おに』とも『たま』とも『もの、、』とも付かぬ輩に名乗る名など、こちらは初めから持ち合わせていない。元より我は其処そこに在って其処そこに無く、形象を無に解かして尚存在するもの。闇夜に昇る『新月』の如くに」
 毅然と告げた後、司はふと鼻息をつく。
「……それに、今回に限って言えば私は善意の第三者だ。『あの男』の手前とは言え、こんな役回りをわざわざ引き受ける義理は無いのだが……」
 疲労ないし徒労を言葉の端ににじませたのも束の間、司は目の前の異形へ細く鋭い眼差しを向けた。
りとて太極から外れたものをえて見逃す義務も無い。私の前に現れたのが貴様らの身の不運だったと言う事だ」
 決然と、あるいは傲然と言ってのけた司へと仮面の怪人は腰を曲げ、のぞき込むように相手へ顔を近付けた。
『ひ、ひひひひ』
『人人人』
『人とと、人である事は変わ』
『変わ変わ変わらぬ。ななな、ならば、らば』
 奇妙に折り重なった声を発散させた直後、仮面の異形を覆う黒衣の輪郭から黄色い光がにじみ出て来た。
『これまで通り、食らうまで……!』
 今までよりも強い貪欲な意志のうねりを前にして、だが司はわずかに胸を反らして冷笑を返したのだった。
「浅ましきかな、その妄執……一度は警戒を抱いておきながら、それを食い意地が重ね塗るとは嘆かわしい限り」
 いっそ清々しいまでに冷然と言い放つと、司は腰の辺りに手を回した。
 直後、彼はベルトをするりと抜き取り、雨粒を吹き飛ばして一振りする。
 街灯の放つ光に剣呑な輝きがね返った。
 司が手にしてたのは一振りの剣であった。彼の手元にあったベルトは、しなりのある薄手の剣へと形を変えていたのである。俗に腰帯剣と呼ばれる暗器の一種であった。
快醒醒クァイシンシン、『金氣刄チンチーイェン』」
 穏やかに告げた司の手元で剣は再び変化した。
 身震いするように輪郭を一瞬ぼかし、しかる後、司の右手に収まっていたのは黒い刀身を白の刃で縁取った長剣であった。
 豊かな光沢を持つ黒い刀身と、快晴の曙光のように輝く純白の縁取り。夜の闇と昼の輝きを同時に併せ持つような優美な剣を、だが司はすぐに振り被るでもなく足元へ垂らしていた。
 雨の路面に飛び散る音が束の間の静寂を塗り潰す。
 切っ先を下ろし、長剣を持ったまま動こうとしない獲物へ、黒衣の怪人は再び躍り掛かった。痺れを切らしてか、それとも相手を見縊みくびっての事であろうか。いずれにせよ、仮面の怪人は作り物の相貌の奥から貪欲にして獰猛な意志をにじませて、眼前にたたずむ不遜な人間へと襲い掛かったのであった。
 否、襲い掛かろうとした。
 仮面の怪人が地を蹴って跳躍しようとした刹那、辺りを覆う雨の間から白刃が突如として飛び出し、仮面の長い鼻先を切り落としたのであった。
 地面に当たった雨の雫が砕けるまでの、正に一瞬の出来事であった。
 濡れた路面に仮面の欠片が転がり落ちて乾いた音を立てた。
 にわかに狼狽うろたえた素振りをにじませて、異形の影はその場に踏みとどまる。
 一方の司は何処までも冷ややかに、対峙する敵を凝視していた。
「どうした? 何を怖気付いている? 早く掛かって来い。今夜の獲物はここにいるぞ。お前のすぐ目の前に」
 雨の音が冷やかすような挑発を重ね塗った。
 次の瞬間、おびただしい数の白刃が街灯の光を散乱させた。
 仮面の怪人の周囲で今度は無数の刃が空間を裂いて表れ、異形を包む黒衣を四方より刺し貫いたのであった。
『な、ななな』
『何何に何』
『ににににににに』
 身にまとう黒衣をずたずたに引き裂かれながらも怪人は後方へと跳躍し、剣を持った司から距離を取る。
『何をした……?』
 狼狽した様子をのぞかせる異形の前で、司は依然として剣を下ろしたまま丸眼鏡の奥から得物と同じきらめきを持つ眼光を放った。
「陰陽五行あまねく在り。相生そうしょう相剋そうこく比和ひわを介して意を貫けば、『水氣』はすべからく『金氣』の刃を載せるなり
 詠うように言って、司は長剣の切っ先を標的へと向ける。
「『水氣』満つる所には常に『金氣』在り。即ち、『金生水ごんしょうすい』(※陰陽五行思想の一つ。金属の表面に結露が生じる事から、金氣に属するものが諸々の水氣を生み出すのだという発想)のことわりに基づき、あらゆる『水』のそばに在る『金氣』を介して我が剣は敵を切り刻む。この雨中にいてなれは最早、鉄の処女の内に囚われたるも同然なり
 その通告が終わらぬ内に仮面の怪人の周囲から、舞い落ちる雨の一粒一粒から、白刃が一斉に飛び出して来る。異形はまたしても後ろへ飛び退ずさったが、全方位に渡る全ての雨滴から同時に繰り出される刺突をかわし切る事は土台不可能であり、黒衣を更に切り刻まれた。
 本能的に危機を察したのか、仮面の怪人はそのままきびすを返して司の前から逃走する。その背丈は見る見る低くなって行き、さながら海底すれすれを泳ぐエイのように体の厚みのほとんどを消して退けたのであった。そうしてほぼ二次元の物体と化した『それ』は、車道をうようにして、あるいは滑るようにして無人の夜道を素早く逃走する。
 急速に離れ行く敵影を司は鼻息をついて眺めた。
「あれで上手く立ち回った積もりか? 前方投影面積だけ減らした所で……」
 言いながら、司は自分の足元に剣の切っ先を下げる。光沢豊かな革靴の踏む路面には、大小様々の水溜まりが形成されていた。
 直後、十数メートル先の路上を駆けていた平たい影を、路面より突き出した十数本の刃が串刺しにした。丁度ちょうど剣山に押し付けられた虫のように、身を低くした異形の怪人は路面に平らに押し広げた黒衣を、直下の水溜まりより生じた無数の刃によって隅々に至るまで刺し貫かれていたのであった。
『ぎ、ぎぎっ』
『ががが、が』
『もも、もっもももも』
 夜の車道の只中で、仮面の怪人は全身を刃に貫かれたまま、ほぼ平面となった体躯をがくがくと震わせた。その拍子に斜めに切り裂かれた仮面が頭部から剥がれて、足元へぽろりとこぼれ落ちた。
『もも戻らね、ねねば、ばばっ……!』
 次の瞬間、怪人の体は突如として爆発した。
 わずかな火の気配をのぞかせる事も無く、しかるに黒衣の異形はその体躯のことごとくを爆裂させ、細かな破片を辺りへ飛び散らせたのであった。
「ち……」
 その際に飛散した破片の一つが、咄嗟とっさに手をかざした司の掌に突き刺さった。
 そして司が持ち上げていた手を下ろした時には、路面には直前までうごめいていた怪人の痕跡を示すような物は、一つとして残されてはいなかったのであった。街灯の白々と照らす車道、及び歩道の隅には黒衣の切れ端が雨に打たれているのみである。
 程無く静けさを取り戻した歩道の一画で、司は自身の掌を見下ろす。
 左手の小指のそばから、血が細く流れ落ちていた。何か微細なガラス片のような透明な欠片が、彼の掌に突き刺さっていたのであった。
 それを確認した後、司は顔を前に戻す。降り続く雨も跳梁した異形の影も等しく彼に触れる事は叶わず、孤影は無人の道にたたずんでいた。
「……蜥蜴トカゲの尻尾切りとでも言った所か。それなりに味な真似をする……」
 黒と白の長剣を片手に、司は小さく呟いた。
 夜の車道を細かな雨は淡々と洗い流す。
 形象の有無を問わず、音や気配すら含めた一切を掃き清めるが如くに。
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