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またもリッチな夜でした

その13

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 そして明くる昼下がり、リウドルフは今度は教職員としての勤めを果たすべく校内を歩いていた。
 今日も外は雨模様で、灰色の校庭には至る所に水溜まりが出来ていた。
 昼休みに入った校舎内は雨音が続くばかりの外に比べて大分賑やかであり、各教室から漏れ出る歓声の間を縫うようにして、白衣を着たリウドルフは職員室の方へと進んでいた。特に面持ちを変える事無く、それぞれの教室の横を素通りして行ったリウドルフの行く手に、その時、一個の人影が立ちはだかった。
 実に億劫そうにリウドルフがそちらへと目を向ければ、美香が両手に腰を当てて廊下の真ん中に仁王立ちしている所であった。
 何やらこちらへとがめるような眼差しを送り付けて来る快活な少女を、冴えない教師は心底面倒臭そうに見遣る。さながら、見えざる売り言葉に同種の買い言葉を返すようにして。
 そうして、リウドルフが廊下に立ち塞がる相手の横を通り過ぎようとした刹那、美香は猛然と言い放つ。
「また何か隠し事してるでしょ!?」
 途端、リウドルフは天井を仰いで溜息をついたのであった。
「……一応念の為に言っとくが、『隠し事』と言うなら俺は今の生活の九分九厘が虚飾と隠蔽の上に成り立ってるからな?」
 校舎の奥、階段の陰の壁に寄り掛かって、リウドルフは疲れた口調で言った。
 他方、その正面に回った美香は、眉根を寄せて訴える。
「だからって、ずっと知らん振りを決め込むのもどうかと思うよ?」
 そう言ってから、美香は目の前の相手へ一歩詰め寄った。
「この所、街に出没してるって言う仮面を被った『怪人ファントム』、センセも何か掴んでるんでしょ?」
「『怪人ガイスト』? はて、ちまたじゃそんなのが流行ってるのか? 俺はここんトコ学校ここと病院を往復する毎日だから市井の事は良く判らんな」
 リウドルフはわざとらしく目を逸らした。
「まーたしらばっくれて……」
 少しの苛立ちを乗せて、美香は細めた目をリウドルフへと向けた。
 その耳の奥に、近付いて来る救急車のサイレンの音が木霊する。
 夕時の商店街には、直前とは彩りを異にする喧騒が生じつつあった。
 裏路地に転倒した中年の男性へ、美香達は駆け寄った。
「ちょっと! ちょっと、大丈夫ですか!?」
 美香が肩を揺さぶっても、地面にうつぶせに倒れた男性は返答しない。
 その後ろでは、友人達が狼狽した声を漏らしていた。
「何か、応急手当とかしといた方が良くない?」
「心臓マッサージとか?」
「でも、街中まちなかだし救急車もすぐ来てくれるだろうから、素人が余計な真似しない方がいんじゃない?」
 商店街の方でも気付いた人が足を止め、裏路地へと繋がる一角には人集ひとだかりが出来つつあった。
 ざわめきを背に路面に片膝を付いて、美香は男性へと尚も呼び掛ける。
「ねえ! ねえってば! 何とか言って下さいよ!」
 その時、美香の前方に回っていた昭乃が男性の首筋に指先を当てた。
「……脈はある。その点は大丈夫。ただ体温が下がってるみたい」
 男性の体を挟んだ斜交いで、顕子が落ち着かない様子で訊ねる。
「何? 貧血か何か? 心筋梗塞とかじゃないよね?」
「さあねぇ……呼吸の仕方がおかしいって事も無いみたいだけど……」
 今度は相手の鼻先に手を当てて、昭乃が渋面を作った。
「何にしても体の向きだけでも直してあげた方が……」
 美香がそこまで言った時であった。
 薄暗がりへと細く伸び行く裏路地の前方で、何かが動いた。路肩にぽつんと置かれた自販機の隙間で、影が小さくうごめいたのである。
 先程の怪人の姿を思い起こして、美香が咄嗟とっさに顔を歪めた。
 後ろに立つ友人達も怯えた声を上げる。
「やだ、何あれ?」
「鼠……?」
 怪訝けげんそうな声が、後方から上がった。
 美香もよくよく目を凝らしてみれば、前方に置かれた自販機の隙間から路面へい出て来たのは一匹のドブネズミであった。あまり縁起の良い代物ではないが、繁華街ではそこまで珍しくもない生き物でもある。
 だがそれを確認しても尚、一同の中で美香一人が依然として眉根を寄せ続けた。
「何これ……?」
 この時、美香の瞳には前方の小さな生き物の姿が奇妙に映り込んでいたのであった。
 『それ』の全身は黄色い光に覆われていた。
 まるでドライアイスから絶えず湧き立つ煙のように、鼠の体表からは透明感の無い黄色い光が発散されていたのであった。華麗さや豪華さとは無縁の、それは禍々まがまがしい輝きであった。
 美香は、怪訝けげんの度合いを深めて目を細める。
 つぶさに観察してみれば、あの鼠自体の様子も何処かおかしい。
 両目は白濁して光が無く、体毛には所々に赤い物がこびり付き、後ろ脚の片方が変な方向に捻じれている。口元はだらしなく開かれ、それでいて鳴き声を上げるでもない。
 あれでは、まるで……
「良かった。救急車が来たみたい」
 かたわらの顕子が上げた言葉に、美香はふと我に返った。
「ちょっと、この人起こそうよ。何とか担いでって、表通りの方まで運んでこう」
 昭乃の提案に美香は男性の左腕を両手で抱え、反対側を顕子が受け持った。そうして少し太り気味の中年男性を二人掛かりで立ち上がらせる最中、美香はちらと後ろを流し見る。
 その時にはすでに、先の不気味な鼠の姿は路地から消えていたのであった。
 五分後、表通りを病院へと向けて遠ざかって行く救急車を、美香達は人垣の端から見送った。
 頭上の曇天は暗さを増し、煌々こうこうと灯る街灯は白い光を発していた。
「……とうとうあたしにも語り部の役が回って来たか……」
 たたずむ美香の隣で、昭乃がぽつりと呟いた。
「何、語り部って? 何か知ってんの?」
 美香がそちらへと顔を向けた先、昭乃は眼鏡を直しつつ語り出す。
「いやね、今月の頭辺りから怪談系サイトで報告が上がって来てたのよ。夜の市内に姿を現す謎の怪人に関して。今じゃ『御簾嘉戸みすかと怪人ファントム』って仇名が付けられてんだけど」
 そんなサイトをわざわざのぞこうと思った事も無い美香にとっては、全くの初耳であった。
 人垣の只中、他の友人達も目を向ける先で昭乃は言葉を続ける。
丁度ちょうど今みたく、黄昏時から夜半に掛けて出没すんだって。道を歩いてた人が突然気を失って道端に倒れる、あるいは倒れてる所を発見される。最近じゃ、車運転してた人が突然昏倒するなんて話もあったね。んで、その人達が病院に担ぎ込まれた後、銘々に証言する訳よ。意識を失くす直前、仮面を被った黒装束の背の高い人物がじっとこっちを見下ろしてたって」
「それって……」
 美香は、怯えをのぞかせて眉根を寄せた。
 他の友人達も同様であった。
 夕時の闇は、暗冥の度合いを益々ますます増して行った。
 宵闇の堆積たいせきする街並みを無数のネオンサインと街灯だけが、人の作った光だけが照らしていた。
 そして今、美香は胸中にわだかまる疑問と不満を、現に目の前に立つ人物へとぶつけていた。階段の陰で美香は両手を腰に当て、少し前屈みになってリウドルフを食い入るように見つめる。
「『怪人ファントム』の事もそうだけど、病院には近付くなとか言って来たり、一体何を隠してんのよ?」
 他方、階段奥の壁に寄り掛かったリウドルフは、疲れた面持ちの中で細めた目を脇へと逸らした。
「言った通りの意味だ。今は期末前なんだから、みだりに外出なんかしてないでうちで勉強してろって事だ」
 平然と言ってのけたリウドルフの顔のすぐ横に、美香は手を勢い良く叩き付けた。
 階段を誰かが急ぎ足で下りて行ったのか、二人の頭上からばたばたとした足音が届いた。
 それも遠ざかった頃、美香は眉をひそめた。
「……また何か一人で背負しょい込もうとしてない?」
 リウドルフは目を逸らしたまま肩をすくめた。
背負しょい込む程の重みは無いぞ、今回は。前のように俺が狙われてる訳でもなし」
「て事は、すでに大筋に見当は付いてるんだ」
 相手の顔の横に手を突いたまま、美香は面白くもなさそうに言った。かなり無理のある姿勢をどうにか保ちつつ、少女は間近から信頼すべき大人を仰ぎ見る。
「なら、他人事みたいな顔してないで早く解決してよ。皆が不安に駆られるばっかじゃない」
「あのな、俺の職業はくまで『医者』で、ここでは『教師』だが、精々その二つだ。魔物退治なぞ専門外の管轄外。見ての通り、俺は祈祷師でもなければロン毛の考古学者でもないし、ましてや、とんがり帽子を被った黒衣の探偵でもなければいにしえの武器の伝承者でもない」
 さばさばと言い捨てるや、リウドルフは壁に伸びている美香の手をやんわりと払い除けた。
「お前にしても同じ事だ。『べつ(※スッポン)人を食わんとしてかえって人に食わる』と言うことわざもある。どっちが亀でどっちが人に回るかはまだ判らんが、欲求や衝動に突き動かされるまま行動すると昔からろくな目に遭わないって事だ。前回が良い例だったろ?」
「あれは……」
 指摘されて、美香も気まずそうに眼差しを一瞬逸らした。
 リウドルフは寄り掛かっていた壁から背を離した。
「だから当分は大人しく家にこもってろ。学生じぶんの本分を果たしてな。何分にも期末前なんだから」
 そう告げて、リウドルフは美香の隣を通り過ぎ廊下へと戻ろうとした。その擦れ違いざまに、彼は数少ない身近な相手へと告げる。
「……ま、お前なんかが気にする事じゃないが、どの道夏休み前には片付くだろう。成績を付けるのに忙しいのに迷惑な話だが」
 押し付けがましい言い草にむっとしつつも、多少の信頼は寄せているかのようにも聞こえる言葉を受けて、美香は相手の細い背を見送った。
「……じゃあ、じゃあ信じていいんだね?」
 階段の陰から廊下へと出たリウドルフは、やはり面倒臭そうに肩越しに後ろをかえりみた。
「だから、変にプレッシャーを掛けるなよ。こっちはただでさえ、医者と教師の二足の草鞋で苦労してるんだから……」
 そう言って、リウドルフはまた歩き出した。
 何処の教室からも歓声の声が聞こえて来る。昼休みの賑わいは校舎の中に未だ充満していた。
 その最中、リウドルフはちらと窓の外へ目を向ける。
「……もっとも世の中には、三足の草鞋を平然と履きこなしてる奴もいるんだが……」
 小さく独白した彼の向こう、廊下に連なる窓の外では灰色の空から依然として雨が降り続いていた。
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