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今宵もリッチな夜でした
その1
しおりを挟むまあ、多分これは、運命の悪戯とか神様のお導きとか、そんな上品なものでも畏まったものでもなく、ただ単にこういう巡り合わせだったって事なんじゃないかと……
*
それは、丁度月の無い夜の事であったという。
時刻は午後十一時、仕事で帰りが遅くなった女性が、急ぎ足で家路に付いていた。
道行く人も数を大分減らし、駅前に軒を連ねる飲食店もシャッターを下ろす所が多く出ていた頃の事であった。
「……んで、その女の人は自分のマンションへ向かうのに、駅のガード下の方へ差し掛かったって訳よ。あの辺て、ほら昼でも暗いじゃん。まして日付が変わる頃ともなれば……」
「うんうん」
街灯が蒼白い光を投げ掛ける中でも足元の路面はどうしようもなく暗く、路肩の段差もはっきりとは見定められない。何が描かれているのかも最早判別が付かない、表情の無い看板ばかりが道端からこちらを環視する中で彼女はふと顔を上げる。
行く手に、光がうっすらと差していた。
「あのガード下の奥の方って、立ち食い蕎麦屋があんじゃん。客の出入りしてる所なんか殆ど見掛けなくって、営業してんのかどうかも怪しい店」
「あー、あるある。あすこね」
それでも行く手に光が差し込んだ事に若干の安堵を覚えて、彼女はそちらへと足早に近付いて行く。高架の向こうに覗く信号が、血の雫のような真っ赤な光を煌々と灯していた。
「で、その時……」
丁度彼女の正面、立ち食い蕎麦屋の角に一つきりの人影が佇んでいた。
思わず足を止める彼女。
その行く手に立ちはだかるように立っていたのは、暗がりの中でも明らかに細身に過ぎると判別出来る孤影だった。
事実、尋常な痩せ方ではなかった。
まるで体中の肉という肉が残らず削げ落ちたかのような、それは異様な人影だった。
その時、彼女の後ろから一台の車が高架下の道路を疾走して行く。
ヘッドライトの光が行く手を俄かに照らし出した瞬間、彼女は見た。
高架線の下に蟠る闇の中に浮かんだ、限りなく黒い躯の姿を。
暗がりで蠢く『そいつ』には皮膚も無く肉も無く、あるのはただ骨のみだった。
黒い、何処までも黒い、まるで闇そのものが形をなしたような漆黒の骨格。
焼け爛れて肉も皮も燃え落ち、それでいて尚妄執に突き動かされるままに彷徨い歩く亡者の姿が車のヘッドライトの光に、真夜中のガード下に浮かび上がったのだった。
「うっそぉ!」
「マジでぇ!?」
「やだー、この近くじゃん!」
周囲から相次いで嬌声の上がる中、青柳美香は矢庭に勢い良く席から立ち上がったのであった。
椅子の足が床を擦る音が、一瞬だけ大袈裟に鳴った。
それが途絶えた後、辺りから間断無く伝わる和やかな歓声が紺色のブレザーを着た少女を包み込む。
至って朗らかな喧騒であった。
一人腰を上げた彼女の周囲では、同じく紺色の制服に身を包んだ女子や男子が、銘々に机を合わせて談笑しながら弁当を食べている所である。
窓から差し込む昼の日差しが、風に翻るカーテンを白く輝かせる。
ごくごく標準的な広さの教室では、四十人程の生徒が長閑に昼食を取っていた。時刻は十二時半を少し回った所であった。教室正面の黒板には午前の授業で書き込まれたチョークの跡がうっすらと白く残り、日直の名前の端が一緒に消されている。
既に昼食を取り終えた数名が教室を出入りする中で、窓辺に机を並べた少女達の一団は不意に立ち上がった美香を銘々に不思議そうに見上げた。
「……何? 何どうしたの、急に立っちゃって?」
「喉に何かつっかえた?」
「ああ、もしかしてトイレ我慢してたとか?」
周囲の友人達がそれぞれに声を掛けて来る先で、美香は頬の筋を二三度引き攣らせると、強張った笑みを口元に湛えて苦々しげに言葉を吐き出した。
「あのさ……一個提案があんだけど……」
「何?」
「折角の昼休みなんだから、御飯は美味しく食べる事にしない……?」
美香が過分に徒労感を滲ませてそう言うと、他の少女達はほんの一時互いに顔を見合わせ、次いで誰ともなく笑い出したのであった。
俄かに巻き起こった笑いの渦の中で、佇む美香は一人渋面を作る。ショートボブに整えられた髪が、窓から吹き込む風に僅かに揺れた。
「何? 何かおかしい?」
背丈こそ若干低めだが、髪型とも相まって却って活発な印象を周囲に与える少女は、周りで笑い合う友人達へ僻みにも似た眼差しを遣した。
そうした中、美香の右手に座った女子が笑いながらも宥めの言葉を向ける。
「あー、御免御免、あんたこの手の話がてんで駄目だったんだっけ……つか、成長しないねぇ、ほんと」
丸い眼鏡を掛け、髪を後ろで結ったやや中肉の少女がそう言うと、彼女の向かいからまた別の少女が口を挟む。
「えっ? そうなの? 美香って怖い話とか全然駄目な口?」
「そうそう。こいつ中学の時からビビリでさぁ、修学旅行の時なんか、夜に皆で百物語してる脇で頭から布団かぶって出て来なくって……」
「マァジでぇー!?」
そして場が爆笑の渦に包まれる中で、美香はしかつめらしい顔をしたまま緩々と腰を下ろす。
「ビビリじゃないって……ただ、そういう話がちょっと苦手なだけ。大体、食事しながら怖い話なんかしてて何か楽しい?」
「滅茶苦茶楽しい」
眼鏡の少女は笑顔で受け流すと、一同を見回して言った。
「でもさぁ、この辺りって同じような話が結構多いんだよ。真っ黒な骨だけの人影が電柱の陰からぬっと現れて、通り掛かった人をじーっと見てたとか、夜中の居酒屋の隅の席に、顔が半分溶けた客がいつの間にか座ってたとか。あたしもざっと調べてみたんだけど、それだけでも二十件近く……」
「だから、やめようって、そういう話!」
とうとう美香は悲鳴に近い声を上げた。
「あー、ビビッてるビビッてる」
美香の左手に座ったやや細身の、髪を長く伸ばした少女が、うろたえた相手を指さして笑った。
「だから、ビビッてないって……いいよ、もう!」
膨れっ面を作って、美香は僻んだ眼差しを居並ぶ友人達へと向けたのだった。
窓辺から暖かな風がまた吹き込むと、純白のカーテンがざわめきの絶えぬ教室の中で翻った。
そんなこんなで、その日もまた暮れつつあった。
「でも昼間の、ありゃ無いよ」
通学鞄を肩に掛け、美香は駅前に広がる繁華街を歩きながら、連れ添う友人達へと不平をこぼした。
「あんた、まだ言ってんのォ?」
美香の左隣を歩く、髪を長く伸ばした細身の少女が呆れた口ぶりで言った。
その彼女、三田顕子の方へ顔を向けて美香は更に言い募る。
「だって、あたし乗れないんだもん、あーゆー話……て言うかさァ、何か意味ある訳? 縁起が悪くなるような噂話ばっかわざわざ自分からするなんて?」
「だーから、お前は変に考え過ぎなんだって」
今度は美香の右隣から、髪を後ろで結った、眼鏡を掛けた少女が口を挟んだ。
「祟られるとか呪われるとかさァ、どーしてそう物事を悲観的にばかり捉えたがんのかなァ……いや、こっちからすりゃおちょくり甲斐があっていいんだけど」
そう切り捨てると眼鏡の少女、織部昭乃は美香の顔を改めて覗き込む。
「よく言うじゃん? 世の中、楽しんだ者勝ちだって。変に引いてばかりいないで、たまにゃ苦手な事にも飛び込んでみなよ? 案外、新しい発見があるかもよー?」
言われて、美香は反駁も出来ずに口先を尖らせた。
と、そこで昭乃は不意に唇を意味深に吊り上げると、白々しい口調で言葉を続ける。
「でさぁ、折角新しい学校に通うんだし、まずは近場の怪談や都市伝説を調べとこうかなぁ思って、あたしも色々洗い出してみたんだ。いやぁー、結構な収穫だったよ、これがまた」
「え? マジマジ? まだ何かあんの?」
向かいで顕子がはしゃぐ傍ら、美香は露骨に顔色を変える。
「だから、やめてって。そーゆーのはあたしのいないとこでやってよ、せめて!」
そう言って、美香は片手で額を抑える。
「……ったく、首尾良く第一志望に受かったってのに、一緒に入学したのがこいつだったなんて、どういう巡り合わせだ、ほんとに……」
「それこそ巡り合わせと諦めんだね。好むと好まざるとに係わらず、何かの化学反応が絶えず起きてんだよ、あたしらには」
昭乃が軽口を返した直後、美香は唐突に顔を上げた。
「あっ、そー言や明日化学の授業があんだった! やな事思い出した!」
繁華街のビルの合間に覗く夕時の空を仰いで、美香は嘆きの声を発する。
五時を少し回った夜の街並みは、ぽつぽつとネオンを灯し始める事で新たな息吹を発散させるかのようである。仕事帰りと思しき人の群が通りを刻々と行き交う中で、談笑を続ける三人の少女の姿も特に目立つでもなく人波に埋もれている。
「そーだ、周期表! あれ憶えて来いって言われてたじゃん! やべぇ、すっかり忘れてた! どーしよー!?」
美香が夕空を仰いで悲鳴を上げると、左隣から顕子が笑いながら言葉を差し挟む。
「一夜漬け一夜漬け。てか、そんなに嫌い? 化学の授業?」
「だって、中学の時から赤点すれすれの成績しか取れた事なかったんだもん。そりゃま、実験とかやってる分には楽しかったけど……」
美香の言葉の後に、右隣から昭乃が旧友の顔を覗き込んだ。
「そっか、あんた文系寄りだったっけ? そういう人にゃつらいかもね」
「そりゃそうだ。大体、担当があれじゃあ尚更ねぇ」
「うん、まあ……」
昭乃の後を継いだ顕子の言葉に、美香は小さく相槌を打った。
ネオンを燦々と輝かせたパチンコ屋の入口で、派手な色使いの法被を着た客引きが道行く人々へと陽気に声を掛けている。その隣の居酒屋でも、店舗の入口に立った従業員が通り過ぎる人々を品定めしていた。
日の光が衰えるのを補うようにして次第に活気付いて行く夜の店の前を通り過ぎながら、顔の半分を照明に晒して美香は鞄を抱え直す。
「何かあの人、真面目にやる気あるのかなー、って時々思う事あるんだよね」
「あー、判る判る。かったるそうって言うか、どっか投げ遣りな感じはあるよね」
頷いた顕子の反対側で、昭乃は視線を上へと向ける。
「そうかな? あたしはあれぐらいの調子の方がやり易い けど……」
その隣で、美香は左右の友人それぞれに相次いで首を巡らせた。
「そう言やぁさ、あの人の名前、何て言うんだっけ? 最初の授業ン時に聞かされたんだけど、長ったらしいから未だに憶えらんなくて」
「あー、クリスでしょ? 皆そう呼んでるし、それで通ってるし」
昭乃の回答に、美香は顎先を引く。
「クリス、ね……」
微かな独白は、往来の足音にたちまち呑み込まれる。
その時美香の脳裏に浮かんだのは、皺だらけの白衣を着た細身の教師の後姿であった。
ビルの合間を道なりに進んだ三人の少女は、程無くして駅前の大きな交差点の前に出た。天上が徐々に暗く、そして地上は次第に輝き出す時にあって、交差点の前は信号待ちをする多くの人で溢れ返り、行き交う車がライトの軌跡を絶え間無く中空に刻み付けて行く。
何とはなしに道路越しの赤信号を見上げていた美香の傍らで、声は唐突に上がった。
「あっ、あれ、クリスじゃない?」
そう言った顕子は、人垣の向こうを既に指し示している。
少し遅れて、昭乃が眼鏡の奥で目を細めた。
「……ほんとだ。奇遇だねぇ。噂をすれば影って奴?」
面白そうに評した昭乃の横で、美香は人垣の向こうに距離を置いて佇む一つの後姿へ目を留めたのだった。
並んだ三人の少女から大分距離を隔てた先に、一人の男が立っていた。
背の高い、細身の男である。
白味掛かった金髪をだらしなく伸ばし、遠目でもくたびれた印象を受けるよれよれのスーツを着込んだ一人の男の背中が、美香の右斜め前にあったのだった。
先程、自身が思い描いていた想像と差の殆ど無い様相で人込みに立つ男の後姿を、美香は遠くから黙して見つめる。
「何してんだろ? 夕飯でも食べに行くのかな……」
昭乃の独白には何も答えず、美香は尚もその背中を眺めていた。
車道の車は滞る事なく往来を繰り返す。
ビルの囲う小さな空に、明星が何処か恥ずかしげに顔を覗かせていた。
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