23 / 38
海へ
4
しおりを挟む
次の日の朝、起きてきた瑛輔くんはひどい二日酔いで、まるでゾンビだった。
それとは反対に元気いっぱいの沙耶さんが、朝の七時に私たちの朝食として、スモークサーモンとアボカドのオープンサンドと野菜スープを運んできてくれた。
「まったくもう、だらしないんだから。保護者代わりが聞いて呆れちゃう」
「うるせー……」
野菜スープを一口だけ飲んだ瑛輔くんは、私たちに向かって、
「今日は一日まるまる自由時間! 俺は寝る!」
と、言い渡し、よろよろと自室に戻っていった。その後ろ姿を見ながら、沙耶さんは「あらら」と笑っていた。
「ランチは十二時過ぎたらお店に来てね。そんで、夜六時になったらここのテラスでバーベキューすることになってるから。あとは、あんまり羽目を外し過ぎないように!」
そう言うと、沙耶さんはお店の手伝いがあるからと帰っていった。
瑞希がはしゃいだように、ぴょんと飛び跳ねた。
「ほらほらみんな、急いで準備しなきゃ!」
「そうだね、せっかくだし」
桐原先輩がうなずく。
「準備って、なんの?」
「せっかく海に来てるんだから泳ぎに行くに決まってるでしょ! チッカの水着はどんなの?」
「持ってきてないけど」
「ええっ!」
瑞希が世界の終わりでも目撃したみたいに私を見た。
「なんで?」
「私、海嫌いだし」
「なんで?」
そう聞いたのは、瑞希じゃなく遥だった。
「昔は好きだったのに」
――私ねぇ、ずっと海で泳いでみたかったの。プールと違うのかなぁ。
チーの声がした。
私たち家族が海沿いの別荘に行くから一緒に行こうと誘うと、チーはくるくると踊るようにして喜んだ。
――楽しみだね、カー。私、海大好き!
「……そうだっけ。とにかく、私は適当にやってるから、みんなは遊んでおいでよ」
チーになる。そのためにはいくらでも嘘をつくつもりだった。だけど――海が好き、だなんて絶対に言いたくなかった。
波の音がする。まるで、絶対逃がさないとでも言っているみたいに、ずっと、ずっととどろき続けている。
****
水着に着替えた瑞希と桐原先輩が、波打ち際できゃあきゃあとはしゃいでいた。そして、ときおり思い出したように、木陰で座り込む私に手を振ってくる。
時間が経つにつれ、太陽の日射しが強さを増していく。日焼け止めを塗っているとはいえ、ちりちりと肌が痛んだ。
やっぱり、部屋にいればよかった。
何度目かのため息をつく。
泳がなくてもいいから、と瑞希に強引に引っ張ってこられた私は、ただひたすらに砂浜に意味のない模様を描いては消す、を繰り返していた。
突然、頬に冷たいものが触れる。
「ひゃっ!」
思わず飛び上がって振り返ると、いたずらっぽく笑う遥が、ペットボトルのスポーツドリンクを手に立っていた。
「水分補給しないと、熱中症で倒れるぞ」
「……ありがと」
遥は私の隣に座り、私に手渡したのと同じスポーツドリンクを一口飲んだ。
紺色のサーフパンツにグレーのパーカー。
ただそれだけなのに、遥はやっぱり綺麗だった。
いや、むしろ着飾るものがなければないほど、遥自身の美しさがよく分かる。ただ肌を焼くだけだった日射しも、きらきらと輝いているように感じた。
遥は、世界を美しくする。
「なんで海、嫌いになったの?」
その質問に胸がきゅっとした。本当のことなんか言えない。絶対に、言えない。
「小さいころは気にしてなかったけど、海っていろんな生き物がいて、いろんなものが垂れ流された、でっかい水たまりみたいなものだから」
私の苦し紛れの嘘に、遥はぷっと噴き出した。
「なにそれ」
遥に合わせて笑いながら、私はこう思っていた。
本当のことなんか言えない。海はなんでも飲み込んでしまうから、だなんて。
「私はいいから、遥は行ってきなよ」
「……実はさ」
遥が神妙な顔をする。
「俺、カナヅチなんだよね」
突然の告白に、今度は私が噴き出す番だった。まさか完全無欠の遥に、そんな弱点があるなんて。
「笑うなよ」
照れくさそうに唇をとがらせて立ち上がる遥の横で、私は笑った。波の音を聞きながら笑うことなんて、もう一生ないと思っていたのに。
ごめんね、チー。私はすごく薄情だ。
いつだって「今」が「過去」を押し流そうとしてくる。必死にしがみついて、食らいつかないと、私はチーを忘れてしまうんじゃないかって怖くて仕方ないよ。
「ちょっと散歩でもしようぜ。カナヅチでもそれくらいはできるからな」
遥が差し出した手を取ると、心臓がどくんと音を立てた。
誰かに触れられること、海、汗をかくこと、夏。嫌いなものがたくさんそろっているのに、遥がいるだけで世界は鮮やかに色づいていく。
子どもたちが、波打ち際で砂山を作って遊んでいた。
「そういえば、よく一緒に砂場でああやって遊んだよな。千佳はトンネル通すのうまかったけど、俺は雑だからいっつも崩しちゃってよく叱られたっけ」
「……そう、だね」
遥が口にする「ちか」は私じゃなくてチーのこと。
そんなの分かり切っているのに、うなずく前にためらってしまったのは、不意に浮かんだ言葉を飲み込まなくちゃいけなかったから。
『私もね、トンネル通すのうまかったんだよ。チーだって褒めてくれたんだから』
潮風が吹く。なびいた前髪を慌てて押さえた。
チーになろうと思ってた。チーがするはずだった恋を、遥としようと思っていた。
だけど、私の中にいるチーがどんどん小さく、遠くなって、私がどんどん大きくなっていく。
チーとカー。私たちは二人で一人。一人なら半分。
ねえ、そうだよね。チー。
砂遊びに飽きた子どもたちは、流木を振り回していた。取り残された砂の山は、波に削られてかたちを変えて、最後には消えて跡形もなくなった。
それとは反対に元気いっぱいの沙耶さんが、朝の七時に私たちの朝食として、スモークサーモンとアボカドのオープンサンドと野菜スープを運んできてくれた。
「まったくもう、だらしないんだから。保護者代わりが聞いて呆れちゃう」
「うるせー……」
野菜スープを一口だけ飲んだ瑛輔くんは、私たちに向かって、
「今日は一日まるまる自由時間! 俺は寝る!」
と、言い渡し、よろよろと自室に戻っていった。その後ろ姿を見ながら、沙耶さんは「あらら」と笑っていた。
「ランチは十二時過ぎたらお店に来てね。そんで、夜六時になったらここのテラスでバーベキューすることになってるから。あとは、あんまり羽目を外し過ぎないように!」
そう言うと、沙耶さんはお店の手伝いがあるからと帰っていった。
瑞希がはしゃいだように、ぴょんと飛び跳ねた。
「ほらほらみんな、急いで準備しなきゃ!」
「そうだね、せっかくだし」
桐原先輩がうなずく。
「準備って、なんの?」
「せっかく海に来てるんだから泳ぎに行くに決まってるでしょ! チッカの水着はどんなの?」
「持ってきてないけど」
「ええっ!」
瑞希が世界の終わりでも目撃したみたいに私を見た。
「なんで?」
「私、海嫌いだし」
「なんで?」
そう聞いたのは、瑞希じゃなく遥だった。
「昔は好きだったのに」
――私ねぇ、ずっと海で泳いでみたかったの。プールと違うのかなぁ。
チーの声がした。
私たち家族が海沿いの別荘に行くから一緒に行こうと誘うと、チーはくるくると踊るようにして喜んだ。
――楽しみだね、カー。私、海大好き!
「……そうだっけ。とにかく、私は適当にやってるから、みんなは遊んでおいでよ」
チーになる。そのためにはいくらでも嘘をつくつもりだった。だけど――海が好き、だなんて絶対に言いたくなかった。
波の音がする。まるで、絶対逃がさないとでも言っているみたいに、ずっと、ずっととどろき続けている。
****
水着に着替えた瑞希と桐原先輩が、波打ち際できゃあきゃあとはしゃいでいた。そして、ときおり思い出したように、木陰で座り込む私に手を振ってくる。
時間が経つにつれ、太陽の日射しが強さを増していく。日焼け止めを塗っているとはいえ、ちりちりと肌が痛んだ。
やっぱり、部屋にいればよかった。
何度目かのため息をつく。
泳がなくてもいいから、と瑞希に強引に引っ張ってこられた私は、ただひたすらに砂浜に意味のない模様を描いては消す、を繰り返していた。
突然、頬に冷たいものが触れる。
「ひゃっ!」
思わず飛び上がって振り返ると、いたずらっぽく笑う遥が、ペットボトルのスポーツドリンクを手に立っていた。
「水分補給しないと、熱中症で倒れるぞ」
「……ありがと」
遥は私の隣に座り、私に手渡したのと同じスポーツドリンクを一口飲んだ。
紺色のサーフパンツにグレーのパーカー。
ただそれだけなのに、遥はやっぱり綺麗だった。
いや、むしろ着飾るものがなければないほど、遥自身の美しさがよく分かる。ただ肌を焼くだけだった日射しも、きらきらと輝いているように感じた。
遥は、世界を美しくする。
「なんで海、嫌いになったの?」
その質問に胸がきゅっとした。本当のことなんか言えない。絶対に、言えない。
「小さいころは気にしてなかったけど、海っていろんな生き物がいて、いろんなものが垂れ流された、でっかい水たまりみたいなものだから」
私の苦し紛れの嘘に、遥はぷっと噴き出した。
「なにそれ」
遥に合わせて笑いながら、私はこう思っていた。
本当のことなんか言えない。海はなんでも飲み込んでしまうから、だなんて。
「私はいいから、遥は行ってきなよ」
「……実はさ」
遥が神妙な顔をする。
「俺、カナヅチなんだよね」
突然の告白に、今度は私が噴き出す番だった。まさか完全無欠の遥に、そんな弱点があるなんて。
「笑うなよ」
照れくさそうに唇をとがらせて立ち上がる遥の横で、私は笑った。波の音を聞きながら笑うことなんて、もう一生ないと思っていたのに。
ごめんね、チー。私はすごく薄情だ。
いつだって「今」が「過去」を押し流そうとしてくる。必死にしがみついて、食らいつかないと、私はチーを忘れてしまうんじゃないかって怖くて仕方ないよ。
「ちょっと散歩でもしようぜ。カナヅチでもそれくらいはできるからな」
遥が差し出した手を取ると、心臓がどくんと音を立てた。
誰かに触れられること、海、汗をかくこと、夏。嫌いなものがたくさんそろっているのに、遥がいるだけで世界は鮮やかに色づいていく。
子どもたちが、波打ち際で砂山を作って遊んでいた。
「そういえば、よく一緒に砂場でああやって遊んだよな。千佳はトンネル通すのうまかったけど、俺は雑だからいっつも崩しちゃってよく叱られたっけ」
「……そう、だね」
遥が口にする「ちか」は私じゃなくてチーのこと。
そんなの分かり切っているのに、うなずく前にためらってしまったのは、不意に浮かんだ言葉を飲み込まなくちゃいけなかったから。
『私もね、トンネル通すのうまかったんだよ。チーだって褒めてくれたんだから』
潮風が吹く。なびいた前髪を慌てて押さえた。
チーになろうと思ってた。チーがするはずだった恋を、遥としようと思っていた。
だけど、私の中にいるチーがどんどん小さく、遠くなって、私がどんどん大きくなっていく。
チーとカー。私たちは二人で一人。一人なら半分。
ねえ、そうだよね。チー。
砂遊びに飽きた子どもたちは、流木を振り回していた。取り残された砂の山は、波に削られてかたちを変えて、最後には消えて跡形もなくなった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
日給二万円の週末魔法少女 ~夏木聖那と三人の少女~
海獺屋ぼの
ライト文芸
ある日、女子校に通う夏木聖那は『魔法少女募集』という奇妙な求人広告を見つけた。
そして彼女はその求人の日当二万円という金額に目がくらんで週末限定の『魔法少女』をすることを決意する。
そんな普通の女子高生が魔法少女のアルバイトを通して大人へと成長していく物語。
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
【10】はじまりの歌【完結】
ホズミロザスケ
ライト文芸
前作『【9】やりなおしの歌』の後日譚。
11月最後の大安の日。無事に婚姻届を提出した金田太介(カネダ タイスケ)と歌(ララ)。
晴れて夫婦になった二人の一日を軸に、太介はこれまでの人生を振り返っていく。
「いずれ、キミに繋がる物語」シリーズ10作目。(登場する人物が共通しています)。単品でも問題なく読んでいただけます。
※当作品は「カクヨム」「小説家になろう」にも同時掲載しております。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
僕とコウ
三原みぱぱ
ライト文芸
大学時代の友人のコウとの思い出を大学入学から卒業、それからを僕の目線で語ろうと思う。
毎日が楽しかったあの頃を振り返る。
悲しいこともあったけどすべてが輝いていたように思える。
坂の上の本屋
ihcikuYoK
ライト文芸
カクヨムのお題企画参加用に書いたものです。
短話連作ぽくなったのでまとめました。
♯KAC20231 タグ、お題「本屋」
坂の上の本屋には父がいる ⇒ 本屋になった父親と娘の話です。
♯KAC20232 タグ、お題「ぬいぐるみ」
坂の上の本屋にはバイトがいる ⇒ 本屋のバイトが知人親子とクリスマスに関わる話です。
♯KAC20233 タグ、お題「ぐちゃぐちゃ」
坂の上の本屋には常連客がいる ⇒ 本屋の常連客が、クラスメイトとその友人たちと本屋に行く話です。
♯KAC20234 タグ、お題「深夜の散歩で起きた出来事」
坂の上の本屋のバイトには友人がいる ⇒ 本屋のバイトとその友人が、サークル仲間とブラブラする話です。
♯KAC20235 タグ、お題「筋肉」
坂の上の本屋の常連客には友人がいる ⇒ 本屋の常連客とその友人があれこれ話している話です。
♯KAC20236 タグ、お題「アンラッキー7」
坂の上の本屋の娘は三軒隣にいる ⇒ 本屋の娘とその家族の話です。
♯KAC20237 タグ、お題「いいわけ」
坂の上の本屋の元妻は三軒隣にいる ⇒ 本屋の主人と元妻の話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる