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「私なんて」「本が好き」な「寂しがり屋」

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 教室が――というより、一学年の教室が集まる三階の空気が、どこか張りつめている。もうすぐ中間試験があるからだ。
 高校に入って初めての試験。スタートダッシュで躓くわけにはいかないと、全員が休み時間も教科書と向かい合っている。
 星山高校では、試験ごとに上位五十人の名前を廊下に貼りだすことになっている。各中学校で上位にいたことしかない生徒たちにとって、その中に自分の名前がないなんてありえないことで、ここが最初の挫折となり、卒業まで立ち直れない者もいるのだという。

「チッカ、部室行こー」

 契約通り、私は水曜日以外の放課後に、文芸部の部室で二時間ほど瑞希に特別授業を行っていた。
 外見に似合わず、瑞希は真面目で覚えもいいから、コツコツやっていれば大丈夫な気もするけれど、誰かに教えることが自分の復習にもなってちょうどよかったし、恋の手ほどきとやらを期待して、黙っておくことにした。

「千佳、瑞希ちゃん。今日も部室で勉強会?」

 教室の入り口で遥が私たちに声をかけてくる。残っていた生徒たちが音もなくざわめいた。やっぱり、遥がただそこにいるだけで世界が色づく。

「うん、遥くんも一緒にどう?」
「俺だって一応部員なんですけど。あ、ついでに俺にも勉強教えてよ」
「いーよ」
「瑞希が返事するのおかしいでしょ」

 こうやって三人で過ごす放課後が当たり前になっていく。楽しい、なんて思ってしまう自分に必死にブレーキをかける。
 本当ならこれはチーのもの。楽しいと思うこの気持ちだってチーのもの。私のものじゃないんだ。

「おっ、試験前にも顔を出すとは熱心だね。感心感心。僕のことは気にしないで、好きにやってくれていいから」

 いつだって部室の隅にいる桐原先輩が読んでいるのは、今日もアガサ・クリスティ。タイトルは『予告殺人』。ミス・マープルか。私はポワロのほうが好きだけど。
 会議テーブルの真ん中に座った私の右隣に瑞希、左隣に遥。これが部室での私たちの定位置になっていた。三人で頭を寄せ合って、数学の教科書をのぞき込みながら、今日の授業の復習をする。

「――で、この問題はさっきの公式を使えば解けるから。瑞希、この問題やってみて」
「りょーかい」
「千佳、ここさ、公式使ってもうまく解けないんだけど」
「これは応用だから、まずこれを代入して式を整理しないと」
「あ、そっか。なるほど。サンキュ」
「へぇ、千佳ちゃんは数学が得意なんだね」

 本を閉じた桐原先輩が私たちのところへやってきて、懐かしいなぁ、と教科書をのぞき込んだ。

「ごめんなさい、うるさかったですか」
「いや。すごいなぁと思って。僕は根っからの文系で数学が苦手だから」
「私は国語のほうが苦手ですけどね。でも、推理小説は好きですよ」

 正しい手順を踏めばきちんと答えにたどりつける数学と違って、国語には人の気持ちという不確定要素が入ってくるのが厄介だ。
 推理小説のいいところは、物語の中で「どうして」に必ず理由があるからだ。その理由がどんなに荒唐無稽なものであれ、説明がつけばそれでいい。

「クリスティも好きですよ。先輩、いつも読んでますよね」
「へぇ。よかったら千佳ちゃんの好きな作品を教えてくれる?」
「えーっと、そうですね――」
「千佳、さっきの問題解けたから見て。あとこっちも教えて。これとこれも」

 遥が突然、先輩がのぞき込んでいた教科書を取り上げると、私の鼻先にずいと押し付けた。

「あ、うん」

 指定された問題文に目を通しながらちょっと不思議に思う。これくらいの問題、遥なら簡単に解けそうなのに。
 ぷっと吹き出す音が私の右と頭の上のほうから聞こえた。瑞希と桐原先輩だ。

「意外ー。遥くんって独占欲強いんだねー」
「まあまあ。これが青春だよ、瑞希ちゃん」

 独占欲? 遥に視線をやると、どこかムッとした顔をしていた。

「別に、そういうのじゃないですから」
「そうかな。僕から見れば、お姫様を守るナイトって感じだよ」

 遥が先輩に言い返そうとしたとき、部室のドアが突然大きく開けられた。そこに立っていた男子生徒を見て、遥が「相原あいはら」と呟いた。

「いたいた。藤原、探したんだぞ。今日はクラスの親睦を深めるためにみんなでカラオケ行くって言っただろ。ほら、さっさと行こうぜ」

 どうやら遥のクラスメイトらしいその男子生徒は、ずかずかと中に入ってくると、遥の腕を引いた。私や瑞希を押しのけるようなその仕草はあまり感じのいいものではなかった。

「行かねーよ」
「なんでだよ。みんなお前が来るの楽しみにしてんだぞ。文芸部みてーな陰気くさいとこにいたってしょーがねーだろ」

 この人、その文芸部に乗り込んできた自覚はあるんだろうか。部長である桐原先輩は面白そうに二人のやり取りを見ているけれど。

「俺、そういうの興味ないからほっといて」
「いいじゃん。あ、こいつ入学式でやべースピーチした女じゃん。こんなやつに声かけるとか、お前趣味悪いな」

 私を指さしながら、相原くんは鼻で笑った。

「ちょっと、なによ。その言いかた」

 私の背後で瑞希が立ち上がる。

「うわ、お前こそなんだよ、そのカッコ。派手にすりゃいいってもんじゃねーだろ」
「相原、いい加減にしろよ」

 遥が相原くんの肩をつかんだ。聞いたことのない、遥の低い声。

「いま言ったこと全部取り消せ。んで謝って帰れ」

 私に背を向けた遥の表情は分からない。けれど、その背中は熱をはらんでいるように見えたし、相原くんの顔は恐ろしいほど引きつっていた。

「わ、悪かったよ」

 もごもごと呟いて、相原くんは部室から飛び出していった。

「なんか、ごめんな。二人とも」

 頭を掻きながら振り返った遥は、私が知っている遥だった。

「あたしは別にいーけどさ、チッカのことあんなふうに言うなんて、あいつイヤなやつだね。大っ嫌い」

 瑞希は憤懣やるかたない、といった様子で、会議テーブルをバンバンと叩いた。

「二人とも、なにもそんなに怒ることないんじゃ……」

 入学式でヤバいスピーチをしたのは事実なんだし。

「怒るに決まってるでしょ! 友達バカにされたんだから」
「そうだよ。千佳のことあんなふうに言うとか、俺、絶対許さないし」

 なにかが私の体の中で暴れまわっていた。それは、正体不明で得体が知れないもので、怖い。怖いけど、どこか懐かしいもののような気がした。

「二人は千佳ちゃんのことが大切なんだね。僕も怒ればよかったかな。大切な文芸部をバカにされたんだし」
「ホントですよ!」

 瑞希が先輩にそう言って、部室の空気がふっと緩んだ。なんとなく、まとまりを感じた。もしかしたら、これが青春ってやつなのかもしれない。
 先輩と瑞希が話している隙をついて、遥が私の耳元に唇を寄せた。

「言っただろ。千佳のこと、絶対守るって」

 その囁きに、私の中の正体不明なものがまた暴れ始める。でもそれは、さっきとは違う全く知らない、懐かしさのかけらもない暴れかただった。
 前髪を撫でつける。そうすれば、治まるはずだと思った。そうだよね、チー。
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