恋愛サティスファクション

可視化ライブラリ

アビスの入口6

これは出刃包丁で刺された傷。
こっちは乗務用アルカリ性洗剤をかけられた皮膚の変色。
中央線のホームから突き落とされたときに頭部をぶつけて部分的に脱毛。等々。
傷を指さして髪をかきあげて丁寧に説明してくれる。
襲われた回数の多さと、それを一つ一つ覚えている鈴村さんの記憶力。
痛みだけじゃなくて恐怖もあったはずだ。
それだけはっきりと覚えていられるだけの。

「その度にきちんとお返しをしていたら向こうもようやく諦めてくれたようでね。近頃はとても平和だよ」

お返し。ヤクザ的に言ったら報復？

「私がしたのは清く正しいお返しだ。違法なことはなにもしていない。実行犯は逮捕して塀の中できちんと反省してもらう。結局は地道な積み重ねだよ」

お互いにやり返していたら、いつまでたっても終わらない。
だから正しく司法に委ねることも必要なんだって。
そこまで達観できるようになるまで時間も痛みも必要としてる。

「教唆した者は法に問えなかったけれども、相応の報いは必要だろう。これに関しては私もコネを活用させてもらった。向こうも人手を使ってるのだし許されるよね。秘書からセクハラを告発され失脚した政治家。隠し子騒動で会社を追われた創業者。不倫を暴露されて引退した俳優。みんな表舞台から退いてもらったよ」

普通に逮捕されるよりもワイドショーや週刊誌で扱われる内容のほうが人々の記憶に残りやすいらしい。
そして権力やお金から遠ざけて二度と変な気を起こさないように世間の端っこにおいやる。
それって合法？ 刑法に引っかからなければリーガル？

「さっきも話したように私の元顧客には義理堅い方々も多くいてね。政界、経済界、文化界など様々な場面で活躍している彼らが目を光らせてくれているから。私は今日も無事に過ごせているのだよ」

すごいねえって他人事のように言ってるけど！
そんな人達を手玉に取ってる鈴村さんが一番すごい人じゃないですか！
絶対に敵に回しちゃいけない人だ。
鈴村さんを傷付けたい人、守りたい人のバランスが、守りたい人達が優勢だから今は安全。
ここまでくるのに受けた傷を思うと、両手を上げて喜ぶ気にはなれない。

「世の中はうまくいかないことばかりだ。私は塀の中に行きたくても行けなくて。行かせたくない者が行ってしまう」

それまでの饒舌な鈴村さんが言葉を止めてしまった。
僕は何も言えなくて。
それはたぶん1分ほどの沈黙だけど。
空白の時間が鈴村さんの心の痛みに感じた。
そしてポツリとこぼした鈴村さんの言葉はうっかりすると聞き逃してしまいそうなくらい小さなものだった。

「柏崎政之。調べて」

言われたとおりに検索する。
出てきたのは抗争の最後に起きた小峠会本部襲撃事件の実行役。
裏柳組若頭、柏崎政之。
小峠会本部ビルの正面に2トントラックで突っ込んだ罪で懲役18年。
トラックのガソリンに引火してビルごと炎上。
かなり酷い火災ではあったけど奇跡的に死者は出なかったみたい。
人が死ぬのは嫌だ。それがヤクザでも誰だったとしても。

この人がきっと。
鈴村さんが花見会に行く途中に教えてくれたヤクザに関わることになってもいいと思えるほどに惚れてしまった人。
現在も博多刑務所に収監されていて、簡単に会うことも声を聞くことも出来ない恋人。
あの日言っていた待つのも男の甲斐性って。
自分のことだったんだ。
18年間ずっと待ってる相手。

「明日、サクラを柏崎に会わせてあげよう」

刑務所の中の人に会えるの？ 面会？
博多まで、また新幹線で行くのかな？

今夜聞かせてもらった話は怖い話もたくさんあって、正直まだ消化しきれてない。
どこか絵空事のフィクションを聞いていたような。
でも目の前の鈴村さんの傷を見せられたら、それは紛れもない現実で。
いまは事実をそのまま受け入れよう。
それに対する僕の感情なんて置き去りでいい。

鈴村さんの大切な人を紹介してもらえるのは単純に嬉しい。