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蝶よ花よ
一、
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ここは、いつも蝶の働いている旅館・百夜から遠く離れた首都。
日差しの落ちたその繁華街を、蝶は天藍と取引先の男・瑪瑙と共に歩いていた。
先ほど汚してしまった蝶の仕事着は、すぐに洗濯と乾燥にかけたおかげで、何事もなかったように元の状態に戻っている。
しかし、蝶の心はそうではなかった。
『こ、ここでするんですか?』
『だめ?』
『取引先の社内ですし、こんな場所は……』
『じゃあ、帰ってからならいい?』
さっきの天藍からの提案に、混乱していた蝶は思わず頷いてしまった。
そのことを思い出して、気が気ではない。
(旅館に、帰ったあと……)
先ほどの『続き』をされる。
そう思うと、天藍に触られた身体が、変に熱を帯びる。早い心臓の鼓動を感じた。
天藍にはこれまで、貞操帯をつけさせられたり、玩具で身体を遊ばれたり、擬似性行をされたりと、他人には言えないような内容の行為をされてきた。
そんな、人が苦しむ姿を見て笑顔を浮かべるような特殊な性癖を持つ天藍と、仲良しな恋人になりたいとは、蝶は到底思わない。
けれど、彼が自分にしてくる、快楽を伴う行為を蝶は嫌いではなかった。
むしろ……。
「天藍さんって、何か弱点とか、苦手なものとかないのかな……」
そう蝶が思考をめぐらせていると、隣を歩く瑪瑙はぽつりと言葉を漏らす。
気がついたら、蝶たちはもう港についていた。強い潮風が髪を煽って、蝶は前髪を抑える。
瑪瑙の視線の先を見ると、天藍は離れたところで船首となにか話をしていた。
瑪瑙は、蝶が自分の独り言を聞いていることに気づいたようで、首を傾げて言った。
「天藍さん、いつも完璧すぎますよねー。秘書さんは、何か知ってます? 天藍さんの弱み」
「いえ、特に……」
それは私が知りたいくらいだ。と、蝶は思う。
瑪瑙は手を頭の上で組み、ニヤッと笑った。
「まあ、秘書さんも隙のない完璧な人に見えますけどね?」
「……お褒めに預かり光栄です」
そんなやりとりをしていると、天藍がこちらに戻ってきた。
「船、午後から運休してるらしい。まあ、ちょっとそんな予感はしてたんだけどね」
「え?」
「ありゃー、確かに今、風強いですよね」
瑪瑙はそう大事には思っていない様子で、海辺に目をやりながら言う。
蝶は天藍に尋ねた。
「どうしますか? 陸地で帰るとなるとかなり遠回りになるのでは……」
「なら、うちに泊まって行きますー?」
そう楽しそうに言う瑪瑙に、天藍は首を振った。
「流石にそれは悪い。様子見を兼ねて、首都にあるうちの連鎖店に部屋が空いてないか聞いてみる」
旅館『百夜』は、天藍や蝶が普段働いている場所のほかに、百夜を本部として経営のやり方などを指導している宿を数箇所持っている。
天藍と蝶は、瑪瑙と別れたあと、無事にその宿の空き部屋に泊まることができた。
「蝶、見てごらん。夜景が綺麗だよ」
天藍が窓の襖を開くと、ガラスの向こうでカラフルな夜景が輝いていた。
「そういう情緒的なものはあまり興味ありません。……というか、この部屋って……」
蝶は、部屋の内装に目を向けた。
明らかに広く、豪華な装飾品のある客室。
備え付けられた大きな湯船。
寝室には、キングサイズよりも広いベッドが見える。
天藍は窓際から離れ、蝶の腰を抱く。
「恋人や家族同士で来る特別な部屋だよ。それがどうかした?」
「………………」
蝶は目を逸らす。そして少し考えたあと、ずっと気に掛かっていることを聞くために口を開いた。
「あの、さっきのお話なのですが……」
「ん? どれのこと?」
「…………いえ、忘れているなら大丈夫です」
蝶は、顔を背ける。こんな最低な上司に、少しでも何かを期待している自分が嫌いになってきた。
しかし、天藍はすぐ意図に気がついたらしい。
「お手洗いの中でのこと、続きをしたいってこと?」
「……旦那様がしたいって言ったんじゃないですか」
「したいよ。……本当にいいの?」
天藍は、蝶の腰を撫でる。そうされるだけで、ぞくりと身体の真ん中が疼いて、蝶は顔が熱くなった。
「……あんなに、中途半端に触られたら……その……」
これまで蝶と天藍は、身体の関係はあったものの、最後までする……要するに身体を繋げて一つになるという行為には至ったことがなかった。
その原因は体格の差にある。快楽に至るよりも流血沙汰になると、お互いに考えて踏み込まなかった部分が大きい。
けれど……蝶は先ほど半端に身体を触られてから、その先の行為への期待が拭えなくなっていた。
蝶の様子に、天藍は笑みを濃くした。
「とりあえず、一緒にお風呂に入ろうか」
とろりとした乳白色の湯が、湯気を立てる。
「温度調整は完璧だね。香りもいいし」
そうお湯の質を確かめる天藍は、水も滴るなんとやら。蝶はその整った横顔を見つめながら、ふと思い出す。
「旦那様って、苦手なものとかないんですか?」
「ふふ、僕の弱みでも握るつもり?」
「さっき瑪瑙様が、旦那様の弱点が気になると言っていたので、私も気になって」
「全く、二人とも……」
天藍は困ったように笑ってから、考えるように顎に手を当てた。
「そうだね……血とか内臓を見るのは得意ではないかな」
加虐心を持つ天藍が、血と内臓を見るのが好きではなくて本当によかったと、蝶は改めて安堵する。
「あと仕事関係だと、料理や味見が苦手」
「味見?」
不思議な返答に、蝶は首を傾げる。
「料理長とかに味を確かめて欲しいってよく頼まれるけど、正直全部美味しいって思ってしまって、どれがいいかわからないんだよね」
確かに、旦那様はあまり味にこだわっている様子を見ないような気がする。蝶はこれまでの記憶を思い返して、そう思った。
「馬鹿舌でいらっしゃるんですね」
「そんな棘のある言い方をされるのは不服だな。けれど、蝶は結構味の違いがわかるよね。この前も隠し味の香辛料を言い当ててたし」
「まあ、そうかもしれません」
蝶は自分のことには興味がなく、適当に返答する。
天藍は体勢を変えて風呂の淵に手をかけ、隣にいる蝶の顔を覗き込んだ。
「蝶も、何か苦手なこととかものがあるの?」
「……蟹を食べるのが嫌いですかね」
「嘘でしょ。この前美味しいって言って食べてたじゃないか。落語じゃないんだから」
天藍はそう笑って、蝶の肩を引き寄せた。
そのまま顔を近づけられ、蝶はその行動の意味に気づいて天藍の口を抑える。
「なんですか、やめてください」
「……これからもっと深い行為をするのに?」
「でも、口付けをされるのは嫌です」
そう断られ、天藍は大人しく蝶から顔を離した。そして、蝶の鎖骨をなぞりながら、首を傾げる。
「今日、最後までするよね」
蝶は黙ったまま、目を泳がせる。けれど否定はしない彼に、天藍は微笑んだ。
「中洗うの、手伝わせて」
「……それは自分でやります」
「シャワールームもガラス張りだし、どうせ見えるから良くない?」
「…っ……」
「……洗い方、おかしくないですか?」
「何が?」
シャワールームを出たあと、蝶は上がった息を整えながら、天藍を睨みつける。
綺麗にすると称して、散々中や前を責められた。けれど一度もイかせてもらえず、蝶は悶々とした気分を抱えていた。
そのまま隣の部屋へ行こうとするが、天藍に引き止められる。
「どこ行くの?」
「念の為、お手洗いに……」
宿についてから一度も手洗いに行っていないため、行為中に漏らしてしまわないよう、出しておきたい。
そう思って口にしたが、蝶は自分が言っている相手が誰なのか気がつき、はっとして振り返った。
「行かなくていいよね。せっかく洗ったんだから」
天藍は目を細め、そう煽る。
「………………」
なるほど。最初からこうなるように仕組まれていたのか。
蝶は納得して、ため息をついた。
日差しの落ちたその繁華街を、蝶は天藍と取引先の男・瑪瑙と共に歩いていた。
先ほど汚してしまった蝶の仕事着は、すぐに洗濯と乾燥にかけたおかげで、何事もなかったように元の状態に戻っている。
しかし、蝶の心はそうではなかった。
『こ、ここでするんですか?』
『だめ?』
『取引先の社内ですし、こんな場所は……』
『じゃあ、帰ってからならいい?』
さっきの天藍からの提案に、混乱していた蝶は思わず頷いてしまった。
そのことを思い出して、気が気ではない。
(旅館に、帰ったあと……)
先ほどの『続き』をされる。
そう思うと、天藍に触られた身体が、変に熱を帯びる。早い心臓の鼓動を感じた。
天藍にはこれまで、貞操帯をつけさせられたり、玩具で身体を遊ばれたり、擬似性行をされたりと、他人には言えないような内容の行為をされてきた。
そんな、人が苦しむ姿を見て笑顔を浮かべるような特殊な性癖を持つ天藍と、仲良しな恋人になりたいとは、蝶は到底思わない。
けれど、彼が自分にしてくる、快楽を伴う行為を蝶は嫌いではなかった。
むしろ……。
「天藍さんって、何か弱点とか、苦手なものとかないのかな……」
そう蝶が思考をめぐらせていると、隣を歩く瑪瑙はぽつりと言葉を漏らす。
気がついたら、蝶たちはもう港についていた。強い潮風が髪を煽って、蝶は前髪を抑える。
瑪瑙の視線の先を見ると、天藍は離れたところで船首となにか話をしていた。
瑪瑙は、蝶が自分の独り言を聞いていることに気づいたようで、首を傾げて言った。
「天藍さん、いつも完璧すぎますよねー。秘書さんは、何か知ってます? 天藍さんの弱み」
「いえ、特に……」
それは私が知りたいくらいだ。と、蝶は思う。
瑪瑙は手を頭の上で組み、ニヤッと笑った。
「まあ、秘書さんも隙のない完璧な人に見えますけどね?」
「……お褒めに預かり光栄です」
そんなやりとりをしていると、天藍がこちらに戻ってきた。
「船、午後から運休してるらしい。まあ、ちょっとそんな予感はしてたんだけどね」
「え?」
「ありゃー、確かに今、風強いですよね」
瑪瑙はそう大事には思っていない様子で、海辺に目をやりながら言う。
蝶は天藍に尋ねた。
「どうしますか? 陸地で帰るとなるとかなり遠回りになるのでは……」
「なら、うちに泊まって行きますー?」
そう楽しそうに言う瑪瑙に、天藍は首を振った。
「流石にそれは悪い。様子見を兼ねて、首都にあるうちの連鎖店に部屋が空いてないか聞いてみる」
旅館『百夜』は、天藍や蝶が普段働いている場所のほかに、百夜を本部として経営のやり方などを指導している宿を数箇所持っている。
天藍と蝶は、瑪瑙と別れたあと、無事にその宿の空き部屋に泊まることができた。
「蝶、見てごらん。夜景が綺麗だよ」
天藍が窓の襖を開くと、ガラスの向こうでカラフルな夜景が輝いていた。
「そういう情緒的なものはあまり興味ありません。……というか、この部屋って……」
蝶は、部屋の内装に目を向けた。
明らかに広く、豪華な装飾品のある客室。
備え付けられた大きな湯船。
寝室には、キングサイズよりも広いベッドが見える。
天藍は窓際から離れ、蝶の腰を抱く。
「恋人や家族同士で来る特別な部屋だよ。それがどうかした?」
「………………」
蝶は目を逸らす。そして少し考えたあと、ずっと気に掛かっていることを聞くために口を開いた。
「あの、さっきのお話なのですが……」
「ん? どれのこと?」
「…………いえ、忘れているなら大丈夫です」
蝶は、顔を背ける。こんな最低な上司に、少しでも何かを期待している自分が嫌いになってきた。
しかし、天藍はすぐ意図に気がついたらしい。
「お手洗いの中でのこと、続きをしたいってこと?」
「……旦那様がしたいって言ったんじゃないですか」
「したいよ。……本当にいいの?」
天藍は、蝶の腰を撫でる。そうされるだけで、ぞくりと身体の真ん中が疼いて、蝶は顔が熱くなった。
「……あんなに、中途半端に触られたら……その……」
これまで蝶と天藍は、身体の関係はあったものの、最後までする……要するに身体を繋げて一つになるという行為には至ったことがなかった。
その原因は体格の差にある。快楽に至るよりも流血沙汰になると、お互いに考えて踏み込まなかった部分が大きい。
けれど……蝶は先ほど半端に身体を触られてから、その先の行為への期待が拭えなくなっていた。
蝶の様子に、天藍は笑みを濃くした。
「とりあえず、一緒にお風呂に入ろうか」
とろりとした乳白色の湯が、湯気を立てる。
「温度調整は完璧だね。香りもいいし」
そうお湯の質を確かめる天藍は、水も滴るなんとやら。蝶はその整った横顔を見つめながら、ふと思い出す。
「旦那様って、苦手なものとかないんですか?」
「ふふ、僕の弱みでも握るつもり?」
「さっき瑪瑙様が、旦那様の弱点が気になると言っていたので、私も気になって」
「全く、二人とも……」
天藍は困ったように笑ってから、考えるように顎に手を当てた。
「そうだね……血とか内臓を見るのは得意ではないかな」
加虐心を持つ天藍が、血と内臓を見るのが好きではなくて本当によかったと、蝶は改めて安堵する。
「あと仕事関係だと、料理や味見が苦手」
「味見?」
不思議な返答に、蝶は首を傾げる。
「料理長とかに味を確かめて欲しいってよく頼まれるけど、正直全部美味しいって思ってしまって、どれがいいかわからないんだよね」
確かに、旦那様はあまり味にこだわっている様子を見ないような気がする。蝶はこれまでの記憶を思い返して、そう思った。
「馬鹿舌でいらっしゃるんですね」
「そんな棘のある言い方をされるのは不服だな。けれど、蝶は結構味の違いがわかるよね。この前も隠し味の香辛料を言い当ててたし」
「まあ、そうかもしれません」
蝶は自分のことには興味がなく、適当に返答する。
天藍は体勢を変えて風呂の淵に手をかけ、隣にいる蝶の顔を覗き込んだ。
「蝶も、何か苦手なこととかものがあるの?」
「……蟹を食べるのが嫌いですかね」
「嘘でしょ。この前美味しいって言って食べてたじゃないか。落語じゃないんだから」
天藍はそう笑って、蝶の肩を引き寄せた。
そのまま顔を近づけられ、蝶はその行動の意味に気づいて天藍の口を抑える。
「なんですか、やめてください」
「……これからもっと深い行為をするのに?」
「でも、口付けをされるのは嫌です」
そう断られ、天藍は大人しく蝶から顔を離した。そして、蝶の鎖骨をなぞりながら、首を傾げる。
「今日、最後までするよね」
蝶は黙ったまま、目を泳がせる。けれど否定はしない彼に、天藍は微笑んだ。
「中洗うの、手伝わせて」
「……それは自分でやります」
「シャワールームもガラス張りだし、どうせ見えるから良くない?」
「…っ……」
「……洗い方、おかしくないですか?」
「何が?」
シャワールームを出たあと、蝶は上がった息を整えながら、天藍を睨みつける。
綺麗にすると称して、散々中や前を責められた。けれど一度もイかせてもらえず、蝶は悶々とした気分を抱えていた。
そのまま隣の部屋へ行こうとするが、天藍に引き止められる。
「どこ行くの?」
「念の為、お手洗いに……」
宿についてから一度も手洗いに行っていないため、行為中に漏らしてしまわないよう、出しておきたい。
そう思って口にしたが、蝶は自分が言っている相手が誰なのか気がつき、はっとして振り返った。
「行かなくていいよね。せっかく洗ったんだから」
天藍は目を細め、そう煽る。
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