百夜の秘書

No.26

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落ちるまであと

一、

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「そういえば、蝶ってお酒は飲める方?」

 ある昼下がり、蝶がいつものように天藍の書斎で仕事をしていとき。机で書類を見ていた天藍が顔を上げ、蝶に聞いてきた。
 蝶は疑問に思いながらも、変わらず無表情で答える。
「いえ、わかりません。成人はしたものの、飲む機会がなく。……何故急に?」
「ほら、来月お酒のメニューを一新するから、蝶にも味を分かっていて欲しくてね」
 そう言って天藍は、手元の書類を蝶に渡した。
 蝶が確かめると、そこには酒やカクテルの名前が並んでいる。
「それと、お酒を飲んだことがないなら、一度試していて欲しいな。今後蝶を飲みの席に連れて行かなくてはいけないときもあるだろうから。そこで初めて飲んで、悪酔してしまったら大変だしね」
「ですが、どんなものから飲めばいいのか……」
 そう言って酒の名前をなぞる蝶に、天藍は顔の前で手を組んで微笑み、
「ああ、それなら、今夜一緒に晩酌しないかい?」
「旦那様とですか?」
 蝶は書類から顔を上げた。
「うん。たまたま予定もないし。君も明日は休みだろう?」
「では、飲食代がそちら持ちなら行かせていただきます」
「抜け目ないね」
 天藍はそう笑い、椅子から立ち上がって蝶の肩に手を置いた。

「今夜が楽しみだよ。じゃあ予定通り、取引先の方に出かけようか」


 もちろん、天藍はただ仕事上の理由だけで、蝶に酒を飲ませたいわけではなかった。
 天藍は以前から思っていたのだ。
 『いつも冷静沈着なあの蝶が、酒に酔ったらどうなるのか』、と。
 もしかしたら自分に甘えてくるかもしれないし、亡くなった両親を思って泣き出すかもしれないし、ガードが緩くなり天藍の個人的な頼みを色々聞いてくれるかもしれない。
 そんな淡い期待を夜に抱きながら、天藍は蝶を連れて仕事へ出掛けた。


「――あいつ、一体蝶を何だと思ってるんですか!!」

 そう言って、ダンッと、蝶は勢いよくガラス製のゴブレットをテーブルに置いた。
 その夜、午後十時。二人は最上階の小さな掘り炬燵の個室で、酒瓶を開けていた。
 蝶は、はあっと大きなため息をついてから、
「蝶だってこうしてお酒の飲める成人ですよ。それはまあ、外見はそう見えないない自覚はありますけど。だとしてもどうしてあんな能無しジジイに舐めた態度を取られないといけないんですか?! はあ?! しかも旦那様のことまで嫌味たらしく……聞いてます旦那様?!」
「聞いてる聞いてる。大変だったね」
 文句を捲し立てる蝶に、天藍は微笑んで慰めるが、内心は複雑だった。
 ……………思ってたのと違う。

 まずわかった事は、蝶はお酒に強い。度数の高い果実酒を三杯飲んでも、顔色一つ変えなかった。
 しかしだんだんと口数と言葉の棘が多くなっていき、五杯目を飲み切った後、今のように天藍に愚痴を永遠と吐き出すようになってしまった。
 確かに、今日会ってきた取引先の相手の男性は随分と癖の強い人だった。蝶は涼しげな顔でやり過ごしていたが、内心彼の言動に腹を立てていたらしく、その鬱憤が今爆発したらしい。

 しかし、天藍が蝶に酒を飲ませ、得したことが一つある。
 蝶のプライベートでの一人称だ。蝶は仕事以外では自分のことを「蝶」と呼んでいるらしいと、今宵初めてわかった。
 本人はその一人称が切り替わっていることに気づいていないようで、相変わらず一方的に愚痴を吐き続けていたが、天藍にはその口調は新鮮で微笑ましかった。
 蝶はゴブレットを再び煽ったが、しかしそれが空であったことに気がつき、天藍に向けた。

「旦那様、これもっとないんですか!」
「はいはい、注いであげるからね。こちらにおいで」
 そう言って天藍が手招きをすると、蝶はゴブレットを持って、大人しく彼の膝の間に座った。
「だいたいどうしてあんな人、取引相手に入れてるんですか。もっと旦那様に似合うお方を選んでくださいよ」
「ふふ、僕のことを高く買ってくれてるのは嬉しいね」
 蝶の差し出したゴブレットに、天藍が梅酒の水割りを注ぐ。上司が部下に酌をするという、奇妙な光景だ。
 蝶はすぐにその薄い飴色の液体を半分飲み、一息つく。
「まあ、変な性癖は理解できかねますし、腹黒い性格は腹が立ちますけど。それでも、人の悪口は絶対に仰いませんし、経営者としてはこの上ないと思います。……それに」
 蝶は目を伏せて、言った。
「……色事も、お上手ですし」
 その言葉に、天藍の頬が緩む。愛おしく蝶の髪を撫でた。
「可愛いこと言うじゃないか。抱いてあげようか?」
「嫌ですよ。何回も言ってるでしょう、旦那様のこれ、いくらなんでも絶対に痛いじゃないですか」
 そう言って蝶は、自身の腰に当たる天藍のそれに視線を落とす。
 天藍は蝶の腰に手を回し、自分の方へ引き寄せた。
「あっ、」
「でも、痛くないことなら良いんでしょ?」
 服の上から、蝶の股に触れる。蝶は酒を溢しそうになり、慌てて両手でゴブレットを握った。
 天藍がそれを撫で続けていると、蝶のそこはだんだんと存在を主張してくる。
「ん、ん…っは…」
 蝶は目を瞑り、天藍に寄りかかる。
 蝶の息が上がってくる。そこを弄る動作にだんだんと水音が混じっていき、天藍は尋ねた。
「蝶ってこんなに快楽に弱いのに、どうして風俗の方には行かなかったの?」
「……馬鹿に、しないでくださいよ」
 熱に浮かれ、酔いが回ったまま、蝶は天藍に言った。
「身体を触らせる相手くらい、自分で選びますよ」
 その言葉に、天藍は思わず手を止めた。
「……君、自分の言葉の意味、わかってる?」
 天藍は、自分が珍しく急いでいることを感じながら、蝶を強く抱きしめた。
「ねえ、抱いていい?」
「駄目ですってば。血だらけになりたくありません」
「これだけ誘っておいて、流石に生殺しすぎない? なるべく痛くしないよう、努力はするから」
「知りません。一人で抜いてください」
 蝶はそう言って、ゴブレットの中身を一気に煽って空にしたあと、テーブルに置いた。
「蝶はもう眠いです」
 そうふわふわと欠伸をして、天藍の胸に頭を預ける。
 そのまま、眠りに落ちてしまった。

「………………」
 ……酔っているとはいえ、散々愚痴を聞かせた上にお酌をさせ、挙げ句の果て枕扱い。
 天藍は静かに思った。


 こんな身勝手な蝶には、一度『お仕置き』が必要だと。

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