百夜の秘書

No.26

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蝶の秘密

一、

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 ある東の国にある、旅館『百夜』。
 今日はそこへ、学校から二百人程の団体客が宿泊に来ることになっていた。

「今回は私・蝶が、指示役を務めさせて頂きます」
 蝶は従業員を見渡し、そう告げた。
 宴会場とし用意されている広い和室には、朝から従業員が多く集められていた。
「まず、接客係。各階に待機し、学生のサポートをお願いします。次に清掃係。部屋や風呂場を徹底的に……」
 その淡々と職務内容を読み上げていく姿を、一人の男が恨めしく見つめていた。

「アイツ、勝手に偉くなりやがって……」
 彼の名は寧(ネイ)。この旅館の企画部に所属しており、一ヶ月前まで蝶の上司であった男だ。年は、蝶の一つ上で二十一。
 つい最近まで自分の後輩だった蝶が、今や社長側近の秘書として働いている状況が、寧にとっては面白くなかった。
「やっぱり突然の引き抜きなんて、絶対に裏があるに違いねえ。どんな手を使ってでも、真相を暴いてやる……!」
「あらあら、そんな悪そうな顔、いつもの寧らしくありませんわ」
 それを横で聞いていた、柳(リョウ)という中居の女が呆れたように言う。柳は長い黒髪の綺麗な女で、寧の同僚であった。
 柳はよよよ、とわざとらしく目頭を押さえ、
「やはり、あんなに可愛がっていた蝶様が秘書に引き抜かれたこと、まだ引きずってますのね……」
「ちっ、ちがうわ! あんな無愛想なヤツ、部署からいなくなって、せーせーするっての!! オレは根っからの悪なんだぜ」
「本当に悪い人は、そのようなことは言いませんよ。ネズミも殺せない貴方が何を言うのやら……無理をしなくても良いのに」
「うるせーぞ柳!!」

 そう、寧の蝶に対する憎悪の気持ちは、弟のように可愛がっていた蝶を突然取られてしまったことについての、持て余した恨みや嫉妬を拗らせたものだった。
 今日は珍しく、社長の天藍と秘書の蝶は別行動。
 寧が蝶に近づき、彼に探りを入れる絶好のチャンスだった。


 そうして時間は、昼の休憩を挟んだ後の、午後一時過ぎを回る。
 寧はその間、蝶から一度も目を離さなかった。
 しかし蝶の行動は常に乱れず完璧で、揚げ足を取る要素など一つもない。
 やはり実力で掴んだ秘書の席なのだと、寧は先輩として誇らしい気持ちと、しかし蝶が遠くへ行ってしまうことへの切なさで、心情が忙しかった。

 蝶は休憩室で早々に軽い昼食を済ませ、すでに事務所に戻り書類を確認していた。
 その肩を、寧は叩いた。
「蝶、もう仕事に戻っているのか」
「寧。お久しぶりです」
 蝶は顔をあげ、そう挨拶する。無表情は相変わらずだが、それが無関心を表してないことは寧は知っていた。
 寧は、昔と変わらず自分と会話をしてくれた蝶を抱きしめたい気持ちに耐え、落ち着いて温かい緑茶の入った湯飲みを渡した。
「好きだったよな、この種類の茶。こん詰めてないで、休憩するときは休憩した方がいいぞ」
「……ありがとうございます」
 蝶は目をぱちくりと瞬かせ、緑茶を受け取った。
 寧が蝶の手元をちらりと見ると、彼が見ている書類は、今日のスケジュールが書かれたものだった。
「何か困ってるのか?」
「いえ。寧の力を借りなくても大丈夫です」
 そう言って、蝶は緑茶を一口啜る。
 寧には、それが『もう寧を必要としていない』と聞こえて、一層もやもやしたものを抱えてしまった。

「って、何普通に面倒かけたみたいになってんだオレは……!!」
 蝶が空にした湯飲みを給湯室のシンクに置いて、寧はその場に崩れ落ちた。
 嫌味でも言ってボロを出させようと思っていたのに、結果的に蝶の仕事を心配しているような形になってしまった。もちろん、それが彼の素なのだから、仕方がないのだが。
 そんな寧の隣で、柳は彼を呆れたように見つめる。
「何をやっているのやら……これ以上馬鹿な姿を晒さなくても、寧らしく素直に仲良くすればよろしいのに」
「うるせーぞ柳! 蝶はもう、オレなんかいなくてもやってけるんだよ……」
 寧は、未だ陰から蝶を見つめ、そう悲しんだ。

「夕食の用意の方は?」
「順調に進めております。この天ぷらは、学生さんたちが到着してから揚げる予定です。揚げたてが美味しいですからね」
 料理長はにこにこしながら、そう蝶に答えた。
 時は、午後四時を回っていた。
 蝶と寧と柳は調理場を訪れ、その個数などを再確認することになっている。
 料理長は、三人を見渡した。
「良い野菜が入ったのですよ。よかったらお味見なさいませんか?」
「結構です。料理長の判断にお任せします」
 断る蝶に、すかさず寧は言った。
「へえ。蝶、野菜が食べられないのか?」
「いえ、そのようなことはありませんが……」
「ならどうして食べないんだよ、食べれば良いのに」
 寧にそう意地悪く言われ、蝶は不思議そうに目を瞬かせた。隣で柳は、「寧はまだやる気なのか」と頭を抱える。
「そこまで言うのなら、頂きます。お二人もどうぞ」
 そして、若い料理人が持ってきた茹で野菜を、三人は口にする。
 しかし、蝶と寧は同時にむせた。
「「辛っ?!」」
「あら美味しい」
 柳だけが、その茹で野菜をもう一つ食べる。
 その三人の様子に、料理長はハッと気づいた。
「おい、新入り! それは凄く辛いからって取り除いていた分のししとうだろ!」
「え?! あっ!! す、すみません!!」
 新入りは頭を下げる。二人は慌てて、渡された麦茶を飲んだ。
 蝶はそのコップに並々と注がれた麦茶を飲み干し、一息ついたあと、そして何か重大なミスをしたかのようにハッと目を見開いた。
「あ……」
「……蝶?」
 その様子に、寧は首を傾げる。
 しかし、次には蝶はいつもと変わらない無表情になっていた。
「いえ、何でも……次の確認へ行きましょう」
 そう寧と柳に言って、調理場を後にした。
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